見出し画像

「性表現を子供(特に息子)に見せられない」とはどういうことか?

前回の記事を今になって出したことについてですが、そもそも公開の機会を逸してしまった理由の一つは「家庭重視フェミニズム(とノーセックスの関係)についてどこまで掘り下げるか」で結構悩んだことにあります。つまり、この部分です。

で、ここで整理しておきたいのは、家庭を重視する立場ではやはり、子に親と同じような性観念・家族観を引き継ぐという意味においても「ノーセックス重視」が望ましいということです(これについて詳しい話は今後の記事でやっていきたいと思います)。しかし、もう一つ見落としてはいけない視点があります。

その後、都知事選の河合悠祐候補による全裸女性ポスター騒動(ちなみに彼は、選挙公報には後に石丸伸二氏が言及して騒動になった「一夫多妻制」の一言しか書いてなかったり、政見放送で歌舞伎町に集う女性たちに対する暴言を堂々と吐いたりと、本当に性表現の自由を守りたいのか守りたくないのか分からない人物ではある)や三上悠亜氏のファッションコラボに対する一部フェミ垢からの攻撃(しかもその後なぜか「セックスワーカーを快く思わないチー牛男」という仮想敵のせいにされた)などがありました。

ここで出てきた声の一つに「こんな表現者・性表現なんて子どもに見せられない」というものがあります。そこで、これが家庭重視フェミニズムの本音であると見做した場合に、どういう事情が窺えるのか、というところを別記事でやろうと思い立ったわけです(本当は他にも様々な論点があるのですが、後述するようにここでは「男にとって最悪なフェミニズムの在り方」を示すことに重点を置いています)。

ただ、そうするならやはり元の記事を出したほうがいいよなということで、わざわざ今になって先の記事を出したわけです。

というわけで改めて。今回の記事では、「性表現を子供に見せられない」という言葉が、特に家庭重視フェミニズムにおいてどのような意味を持っているのかを、深掘りしていきたいと思います。

フェミニスト以上に性表現を忌避する文化圏では、婚姻率も出生率もすこぶる高い

さてまずは、こうした性表現を擁護する側にとって不都合な真実からお話ししていきます。

OECDで最も出生率が高いとされている国、イスラエル。その中でも最も出生率の高いコミュニティと言われているのが、ユダヤ教超正統派のコミュニティです。

この超正統派は、「女性を表現すること」について非常に強い文化的忌避があることでも知られています。どのくらい強いタブーかというと、(日本でフェミニスト達が叩いてきたような女性の広告表象がご法度であるのはもちろん)新聞に女性政治家の顔は一切載せてはいけない、教育は幼稚園から男女別学であり、結婚は全部親が手配して本人は相手の顔さえ結婚するまで知ることはできないほどです。

すなわち、結婚しなければ異性について知ることができないような状況を作り出すことこそ、多くの人々に「円満な夫婦関係」をもたらすことができると考えられているわけです。それが結果的に婚姻率の高さに繋がり、ひいては出生率の高さに繋がっているわけです。

そしてこの考え方自体は、ユダヤ超正統派に特有のものではありません。例えばイスラムやヒンドゥーでも、(外出する女性に全身を覆う服装を強制するような)厳格な性観念が守られているようなコミュニティほど、同様の観念が強く共有されています。更にそのコミュニティの中で活動している女性フェミニスト団体も、この観念を崩すことまで考慮している例は皆無です。彼女らも駆け落ちなどのような「性観念の逸脱行為」に対しては、「その逸脱は全て男のやったこと」と見做しています。

息子を良きATMにしたいフェミママ(あるいは、家庭重視フェミニズム)

ここで日本の話に戻ります。

ずっと指摘しているように、日本のフェミニズムには大正時代から「家族観を解体し社会での地位向上を重視する潮流(与謝野派、リーンイン、上からの運動)」と「家族観を維持しつつ女性にとって望ましい在り方にすることを重視する潮流(平塚派、反リーンイン、下からの運動)」に分かれていました。

当然ながら、「家庭重視フェミニズム」とは後者のことを指します。また彼女らは単に「家族観が復古ないし維持される」ことを目的としているのではなく、あくまでもそれが女性にとって望ましい形になることが目的です。ここは絶対に見誤ってはいけない部分です。彼女らにも「家族観を復古させる気か」という声はしばしば届いているようで、これらに否定的に回答している論客も少なくありません。

これに対して反フェミニズムの主流理論・オピニオンリーダー達は「家族観を解体して非婚少子化を進めてきた」という観点からフェミニズムに反対してきました。これは前者への批判にしかなっておらず、結果的に後者を相対的に強化エンパワメントさせる言説にもなっているわけです。

で、このような家族観の履行のためには当然、それを受け入れるような夫…すなわち「妻の要求を無条件に受け入れ、なおかつ稼ぎのすべてを妻に寄進するような夫」の存在が必要不可欠です。「現にいる自分の夫」がその夫像に当てはまらないとしても、息子に次代でその夫・父像の履行を期待するであろうことは容易に想定できます。

都知事選において(左翼やラディカルフェミニズムの強い支援を受けた)蓮舫氏が「手取りを増やすことこそが本当の少子化対策だ」と訴えていましたが、これは一昔前まではどちらかというとアンチフェミニズムのオピニオンリーダーによって謳われていたということは忘れてはいけません。その目的は「(下層男性から見て)結婚できるほどの財力を得られるようにする」ことですが、同時にこれは下層女性から見て「甲斐性のある男性を増やす」ことでもあるのです。

もちろん下層女性にとっては、夫には「甲斐性があること」だけでなく、その甲斐性を本当に自分子供自分が産んだ、またはこれから産まれてくる子に行使できるか、そこに暴力が介在することなく≒要求に対して無条件に応じることができるかがより重要です。蓮舫氏は間違いなくそこまで見越してあのような政策を掲げたと見ていいでしょう。その後ろには、共産党…と強いつながりのある“平塚派直系”のフェミニスト団体「新日本婦人の会」がいるわけです。

またこのような家族観において、「一夫多妻制(夫の浮気性)」では却って甲斐性の保障を危うくします。そういう意味でもやはり前項のユダヤ超正統派やイスラムなどの中にある厳格な性観念のように、特に男は一人の異性に重点的にコミットすることが望ましいとされるわけです。そしてそのためにこそ、異性に関する様々な情報を遮断させる必要があるのです。

お気づきの方も多いと思いますが、これは「男がモテたいなら暴力性(ないし積極性)を身に着けろ」・「男のモテは女性経験の数に正比例する」ということとパラレルです。子供にも「一夫一婦制」を履行させるためには、却って息子が複数の女性にモテることは避けるべきことです。

母親とは、理想の彼氏・夫像を息子に求めるもの

ここまで、フェミママが息子に潜在的に求めることを推察してきましたが、そもそも「フェミニズム」を抜きにしても、母親というのはしばしば、自分の理想の彼氏ないし夫像を、息子にも求めるものです。

他方では「息子をチー牛にしないために」などという話題も度々バズるようになっています。これもやはり一部母親の抱く「暴力性のある(ただし自分に暴力は振るわない)彼氏像」を抜きにして語ることはできません。

そして何よりも、教育ママによる虐待の原因は「極端な学歴上昇婚」によるママ側のコンプレックスにありました。すなわちここにも、息子を夫と同じような学歴にさせたいという意識が働いているわけです。

実はそうした観点から言うと、後々の記事でも言及すると思いますが、理工系女子枠はむしろどんどんやっていったほうがいいとも言えます。ただでさえ理工系出身者は高学歴非モテになりやすく、こうした学歴上昇婚の餌食になりやすかった属性です。あくまでも「学歴同格婚の推進」と両輪で進めていく事が前提の話ですが、これは確かに短期的には「男子の進学機会が脅かされる」とか「女子はほぼ受験勉強せずに大学や院に入ることができる」といった影響がありますが、結婚や夫婦生活、更にそこから産まれてくる子ども達まで見据えた長期的視点で言うならば、意外に男性にとっても意義のある施策とも言えます。

こんな家族観を再生産して良い訳がない

さて、ここで「かなり偏って穿った見方だ」とか「性表現にはもっと重要な問題・論点がある」といった感想を持った方もいることでしょう。しかし、この記事の本当の主旨は、「我々ミソジニー・アンチフェミニストにとってのバッドエンドシナリオとは何か」を提示することにあります。

それは決して「(一部ミソジニー・アンチフェミニストが主張しているような)少子化が進んで社会が滅ぶ」ということではありません。むしろ「少子化を回復・克服させるには性観念ないし家族観を取り戻すしかない」を口実に無限に男に要求してくる、そのような「フェミニズムの在り方」が主流となることです。

で、西洋先進国で、今のフェミ政策をやめて、現実的な少子化対策(おそらく女の社会進出の抑制)を取り出す国が次の10年でじわじわと現れる。というか、手を打たないとイギリス、フランスもやばい。何より当の自国の女が、移民による治安の悪さにごちゃごちゃ言って、保守的な家庭を支持する奴らが出てくる。おまえらが、男社会がーとか言ってぶっ壊してきたんだけどね❗確実に言えることは、女は絶対にこの大失敗の責任をとらない。
「社会進出は男によって無理やりさせられた」、「女性たちは、家庭で強く優しい母として国を支えていたのに、男社会や中年のオヤジによって無理やり社会進出させられた」と歴史を修正して、男批判をすることは間違いない、かけてもよい。まあ、フェミニストとその甘い汁を吸っていた女には責任をとらさなければならない。

いよいよ、フェミニズム政策を転換しなくてはならなくなったら、「男に無理やり社会進出させられた。高学歴化させられた。女性は家庭で母親になることを望んでいたのに、悪い中高年男性に無理やりフェミニズム政策を、させられた」って男のせいにする、こんな責任をとる能力や知能も男と違うなんていうオチはないように祈りたい。

これはミソジニーやアンチフェミニズムの中でも意外に勘違いされていることなのですが、これまでの「フェミニズム的政策」というのは、フェミニスト達が反対勢力をキャンセルすることによって成立してきたわけではありません。むしろ殆どは、対案として提示されたものも含め、「家族観の解体に反対する」アンチフェミニストとの妥協によって成立したものです。古くは優生保護法や売春防止法、近年では女性専用車両や児ポ法(の創作物規制論議)、AV新法、困難女性支援法、性的少数者理解増進法、全て例外ではありません。

そして海外に目を向ければ、いわゆる「北欧モデル性産業の消費者のみを取り締まる法体系」にもその傾向が見受けられます。実は先に述べたイスラエルも「北欧モデル」導入国の一つです。そしてイスラエルの議会制度というのは一院制の厳正拘束名簿式比例代表制、つまり選挙は完全に政党を選択する形になっています。さらにその「政党」もほぼユダヤ教の宗派できっちり分かれており、超正統派を母体とした政党も長らく「与党を構成する政党の一つ」として影響力を持ってきました。

また「日米中モデル性産業の関係者を立場に関わらず取り締まる法体系(実は一応日本の売春防止法も本来はこれを志向していた)」支持者はよく「北欧モデルは“売りたい側”の勢力との妥協によって成立した」などというデマを流していますが、だったらなんでSWASHやsienteなどの立場が出てくるのでしょうか?実際導入された国々でもこうした団体は最後まで抗議活動を続けていたとも聞きますし、むしろ導入されたのは「恋愛観・結婚観・夫婦観を維持したい側にとってもプラスになるから」ではないでしょうか?

そもそも、殊に日本において、政治家というのはほとんどが既婚男性です。つまり、彼らがどんなにミソジニックな価値観を持っていたとしても、当然女性政策では「自分の妻や娘達のために」動かなければなりません。また女性政治家でも、杉田水脈氏のように「性の解放に反対する女性」という立場から政策提言している人もいます。特に彼女はかつての「キモくて金のないオッサン(正確には彼らに擁護的立場を取る保守派男性論客)」とも深い親交があります。そんな彼女でも「性の解放、男女平等に反対する」目的が「男女がお互いに尊重し合える社会を取り戻す」ことにあるという事実は重要です。

で、蓮舫氏が平塚派団体と組んで、かつての「キモくて金のないオッサン」がしていたような提案をしてきたというのは、かなり重い話です。なぜなら、その「キモくて金のないオッサン」の感情を、フェミニズム側も利用しだしたということに他ならないわけですからね。

もっとも彼らも「社会を持続させるため」に、ここまで家族観の復古・維持を求めてきたわけですが、こんなに一方的に女性有利でかつ他責的な家族観しか持続できなかったとするなら、それはそれはとても情けない話でしょう。

だからこそ私は思うわけです。ミソジニーやアンチフェミニズムの側にももっと抜本的な提言が必要だと。その第一手が男側から結婚観や夫婦観を拒否するということであり、次の一手が女性の妊娠を介さずとも子供を成せるような技術革新にコミットしていくということなのです。

「性表現」を守ることに関わる、もう一つの視点

そして、その技術革新の土壌という意味でも、性表現の自由は守られなければなりません。読者の皆さんも、この視点はちゃんと持って欲しい。

本当は、マスキュリズム的見地では、女の性欲、特にいわゆる「負の性欲」を煽るメディアコンテンツを表現規制していくべきだという主張を(一つの議論として)展開していったほうが断然良いに決まっているんです。なぜそこに私はあえて乗っからないことにしたか。

それはそもそもフェミニズム側の議論の正当性がリベラルやポリコレなどではなく女が“産む性”であることに最も保証されているということと関係があります。つまり、対抗言説の正当性を証明するためにもまず、「女が“産む性”であること」を事実上解体させる=「女抜きの繁殖」を可能にさせることが先決問題になるのです。

現にフェミニズム側でも、技術革新が「女抜きの繁殖」につながることに薄々気付き、反対運動の萌芽も出てきています。またこの技術革新とは直接的に関係ありませんが、生成AI反対派の人達も、いわゆる「AIポルノ」問題をきっかけに規制派フェミニストと組むようになりました。更には最近流行りの(まあ、女性管理職や女性経営者が増えれば必然的に「流行る」ものではあるが)「フェムテック」に「フェミニストの立場から」疑念を示す主張も少なくありません。そしてその主張の発信者にもまた、規制派に重なる面々があります。

まさに「性表現の自由をフェミニストの攻撃から守ること」は、もはや単に「ズリネタを守ること(規制派フェミによくある揶揄)」に留まらない、技術革新のための前哨戦闘争になってきているのです。