見出し画像

皆さん、「一応のタイムリミット」まであと2年です!

2015年に成立・施行された「女性活躍推進法」は、10年間の時限立法なのだそうです。つまり2年後の2025年には、(延長手続きが行われなければ)この法律は失効することになります。

これは1985年の「雇用機会均等法」、いやその前身である1972年の「勤労婦人福祉法」成立・施行以降53年間続いてきた法学・政治学的路線の抜本的転換を意味する可能性があります。

「女性活躍」の次にやってくる時代は…

活躍法が制定された当時、日本政府は「2020年までに企業の女性管理職比率を30%にする」という目標を掲げました。しかしその目標が叶うことはありませんでした。

一方で、「フェミニズム」の在り方も大いに変化しました。そもそもこうした管理職や政治家になることを望まない、主婦を中心とした「下からの主張」が台頭し、社会進出して地位を得た女性たちのフェミニズム内部における立場はどんどん低下していきました。

特に昨年は「AV新法」・「困難女性支援法」など、女性政策の新たな方向性を示す法律が相次いで成立し、こうした「支援(支援とは言っていない)」に関わる団体の「疑惑」も世間を騒がせました。結果的にその疑惑は「存在しなかった」ものの、支援法の体制そのものが持つ利益相反などの問題も浮かび上がってきています。

この「女性政策に関する新たなムーブメント」に、左派政党が深い関係を持とうとしていることは、今更言うまでもありません。しかし、こうした法の成立に、自民党をはじめとした右派政党も大いに関与してきたことを抜きにして語ることは不可能でしょう。それこそ左派政党や左翼活動家が指摘するように、中には「アンチフェミニズム」をあえて掲げる政治家も少なくありません。そんな政治家でもこのような形の「女性支援」に反対しなかった。なぜなのか。

その答えは私の記事や「つぶやき」で繰り返し述べてきたことですが、今回はあえてもう一度、その原点まで立ち返って論じたいと思います。

「アンチフェミニズム主流理論」のツケが回ってきている

そもそも「アンチフェミニズム」すなわち「フェミニズムに反対・批判すること」とは、どのようなことなのか。現状最も詳しく解説しているのは以下の小山氏の記事です。無料部分だけでも相当なボリュームがあります。

①平等主義からのフェミニズム批判
反フェミニズム論壇において現在(2021年4月)活発に議論されているテーマのひとつが、社会的不平等の文脈に基づく異議申し立てだろう。
これらの主張はふたつに大別できるように思う。男性差別に対する異議申し立てと、告発権力の格差に対する異議申し立てだ。

②自由主義からのフェミニズム批判
リベラリズム、すなわち伝統的な自由主義的視点からの反フェミニズムも昨今では急激に増加している。彼らの主張はフェミニストたちがある種の「自由」を過度に制限しているというものだ。

③伝統主義・共同体主義からのフェミニズム批判
最後に、フェミニズムに対する伝統主義者・共同体主義者からの根強い批判がある。
日本は宗教保守にそれほど大きな力がないので実感しにくいが、そもそもフェミニズムに対する最も古い反対者はキリスト教右派を始めとする伝統主義者たちだった。現代においては宗教保守だけではなく、国家や伝統的家族観などを重視する保守派がここに加わっている。 

小山氏は「反フェミニズム・フェミニズム批判」を、上のように3種類の方向からの批判に大別しました。これは指摘として非常に重要なことです。ウィキペディアの「反フェミニズム」の項目にも、以下に類する記述は10年以上も前からありました。

フェミニズムやフェミニストへの批判は過去から現在まで根強く続いている。フェミニズムにおいては「男女平等の実現」という基本概念が共通している一方で、フェミニズムの具体的な思想は多様であり、一本の思想と考えることはできない。フェミニズム自体が多義的な概念であるために、「フェミニスト」と一括りにして批判しても、一括りにすべき実体が無いという皮肉な事態を招いている。
反フェミニズムを主張する立場としては、旧来の伝統主義の立場からの反対(引用者注:小山記事の③に相当)と、女性差別是正の措置としての導入されたアファーマティブ・アクションを過剰なものとみて自由主義・平等主義の立場から批判するもの(引用者注:小山記事のそれぞれ②・①に相当)2つに大別される。

しかし、現実世界やマスメディアはもとより、ネットメディアにおいても「反フェミニズム」といえば長らく小山記事で言う③の批判、すなわち「伝統的家族観・性観念」を奨励・重視するものが主流でした。①②のような批判、すなわち表現規制を進めるとか、男性の人権を蔑ろにしているとか、他の女性を疎外しているといった批判が盛り上がってくるのなんてここ数年の話です。小山氏はこうした勢力関係について述べることは避けていますが、このことは何よりも前提にして論じなければなりません。

数年前、概ね2010年代後半期における「反フェミニズムのオピニオンリーダー」といえば、皆さん誰が思い浮かぶでしょうか。eternalwind氏、島本テポ東氏、兵頭新児氏、永觀堂雁琳氏、少し時代を下りますがリョーマ氏、オイパラ氏などが挙げられるでしょう。彼らは積極的であれ消極的であれ「伝統的家族観・性観念」を支持する側、つまり押し並べて③の方向からの批判者でした。彼らをTwitter外から理論面で援護していた人物の一人が当時はてなブログ『Think outside the box』の著者であった(現在は閉鎖)Prof.Nemuro氏でした。私が彼を「オピニオンリーダーのオピニオンリーダー」とか「アンチフェミの黒幕」とか呼ぶのはこのためです。

これに対比される人物として借金玉氏・青識亜論氏・白饅頭氏(彼はもともと島本氏に追従していたが後に距離を置くようになり、今から述べる内容にも関わってくるのでこちら側に含める)などがいますが、兵頭新児氏から見れば彼らは次のように映っているようです。

(引用者注:先ほど挙げた三人について)
これがさらに「親オタク」に寄ると、「アンチフェミ三銃士」であらせられるお三方となります。彼らが「フェミニストの使徒」であることは年末に語り尽くしました。とはいえ、(まあ、心の中まではわからないとはいえ)テラケイ師匠など、「オタク」「弱者男性」へ心情的に寄り添っていることに嘘はないとは思います。八田師匠よりはちょっとだけ、「親オタク」寄りなわけですね。

(引用者注:「マスキュリズム」という概念を日本に持ち込んだ久米泰介氏について)
しかしだからこそ、師匠はフェミズムに情緒的に反発しながら、彼女らの「ジェンダーフリー」という(どう考えても非現実的な)方策に一切、疑問を覚えていない。師匠を「親/反フェミ」のボーダーにマッピングしているのは、師匠が一面ではフェミニストにすぎないから、です。

以上、「親フェミ」派の諸氏についてざっと見てみました。
お気づきのことでしょうが、彼らはみな「フェミニズムは正しい」という刷り込みを強固になされている存在です。恐らくフェミに異を唱えると「暗黒結社」に脳にセットされた装置が爆発するのだと思います。

男性問題(及び目下の地球のあらゆる問題)の処方箋について、ぼくはいつも「一昔前のジェンダー観に従った生き方をする」ことを提唱しているかと思います。
これに対してジェンダーフリー的なスタンスの人たちから、「男性ジェンダーのネガティビティを温存する気か」との文句をねじ込まれることがありますが、「そんなこと知るかボケ」以外に回答は、ない。
そもそも「一昔前のジェンダー観」以外のジェンダー観がこの世に現出したことは、今まで一度もないのですから、それ以外に選択肢がないのはもう、自明です。女性たちがある日突然目覚め、みな主夫を養ってくれる世界が訪れるとお思いになるのであれば、死ぬまでそれをお待ちいただければいいハナシですが、そんな与太につきあう気は、ぼくにはない。
少なくとも「一昔前のジェンダー観」の世界は今よりも遙かにマシでしょうし、そしてその上で、「しかしそれでもまだなお、男性は夥しいネガティビティを背負っている」ことに自覚的であればいい。

注目すべきは①②のような批判者を、この記事ではあまねく「フェミニスト」として扱っているということです。③の批判者には、このような「フェミニズムに対する多様な批判の試み」を阻害しようとする性質が元からありました。

その理由はもちろん、彼らが最も懸念していたことが「伝統的家族観の崩壊による非婚少子化の進行→共同体・社会の崩壊」というワンイシューに尽きていたことにあります。「女性の地位向上・社会進出」を是とするこれまでのフェミニズム政策は、長期的に見てそうした「弊害」も推進してきた、それこそが彼らの中心的な論点でした。

「若年女性や困難女性の支援」という政策は、「女性の地位向上・社会進出」ないし「伝統的家族観の解体」と直接的な関わりがあるものではありません。むしろこれまでとは真逆の路線とも言えます。彼らのような批判者にはこうした路線に積極的に反対する義理などないわけです。その意味で、女性政策の転換は「アンチフェミニズム主流理論」のツケが回ってきているとも言えます。

我々は出遅れすぎた

最近になって反フェミの世界に入ってきた人には信じられないかもしれませんが、本当に、ほんの数年前まで反フェミニズム界隈の内部にはこのような構図がありました。

当時においても平等・自由主義的な疑念からフェミニズム批判を志した人は少なからずいましたが、ことごとく伝統主義的な批判論に飲み込まれ、転向していってしまいました。「今のフェミやリベラルには自浄作用がない」と論じる人もかなりいますが、自浄作用がなかったのはまさに、アンチフェミニズムのほうであると私は思います。

こうした批判論に屈しない若いアンチフェミニストが増えていることを、私はとても嬉しく思います。しかし、かなり出遅れてしまったことは否めません。フェミニズムの在り方が変容する前にある程度の勢力をつけられていれば、もっと楽に今の「フェミニズム」を迎え撃てていたでしょう。

一昨年の衆院選では、その変容したフェミニズムへの接近を強めた左派政党を極限まで弱体化させることには成功しましたが、だからといって右派政党の伝統主義的反フェミ政治家の影響力を削げたわけではありませんし、昨年の参院選では各政党から自由主義的批判を行う候補者が見られたものの、当選したのは赤松健氏と石井苗子氏の2人だけでした。

平等主義的批判にしろ自由主義的批判にしろ、政治的にもまだまだ盤石な勢力ではありません。だからこそ我々は、こうした方向からのフェミニズム批判を絶やしてはいけませんし、これから入ってくる人々を伝統主義的批判に流出させない、あるいは伝統主義的批判に行ってしまった人々をできるだけ呼び戻すことを重視しなければなりません。

それでも、「そのような社会」が到来することを阻止しなければならない

さて、もう一度繰り返しますが、「女性活躍推進法」が失効するまであと2年です。そしてその失効は、「女性の地位向上・社会進出」を推進してきた日本政府のフェミニズム政策を大きく転換させる可能性があります。もしかすると、第5次男女共同参画基本計画自体にも、これを念頭に置いた内容が盛り込まれていたと思われます。

このことに言及するシリアスさは、以下記事を読んだ方になら理解できるでしょう。マスキュリズムとて、従来の形でのフェミニズム政策が徹底的に進められることは、絶対的な前提でした。

さらに、これをメタ的に示す…すなわち「日本政府(ひいては欧米政府も)のフェミニズム政策そのものを根本から批判するフェミニズム側の●●●●●●●●主張も、諸々のメディアで取り上げられるようになりました。

分断の要因として菊地准教授が注目するのは、1)1985年に成立した男女雇用機会均等法、2)1999年に公布・施行された男女共同参画社会基本法、3)アベノミクスで生まれた2016年施行の女性活躍推進法の3つだ。
1980年代に女性たちが求めたのは「雇用平等法」だったが、「均等」法は差別規制が努力義務にとどまる残念な内容だった。しかも、この法律がきっかけで、総合職と一般職という女性同士の待遇格差が生まれた。
さらに、1985年に専業主婦を優遇する第3号被保険者制度ができ、翌年に労働者派遣法が施行されたことで、女性たちは男性並みに働かされる総合職、補助的な業務に終始する一般職、非正規雇用の派遣労働者、そして主婦に分断されてしまった。
男女共同参画社会基本法については、女性たちは『性差別禁止法』を求めたが、男女が共に社会に参加する、という中途半端な法律に。「女性活躍推進法に至っては、なぜ女性だけが推進されなければならないのか、という根本からずれた内容で、女性は家事・介護・育児に加えて、男性と同等かそれ以上に働き、国や企業に利益をもたらさなければならない、という内容になっています」(菊地准教授)
いずれの法律も、差別を積極的に解消する内容にはなっていない。負担ばかりが大きくなって女性が分断されているのは、ここ40年ほどで広がったネオリベラリズム(新自由主義)が影響している。
「そもそも女性差別は、いろいろな立場に分類や区別をすることで、お互いに争わせようと意図して行われるものです」と菊地准教授。イギリスでネオリベラリズムを先導したサッチャー首相が、国にあるのは国家と企業と家庭で社会はない、と発言したことを引用し、「ネオリベラリズムは、人を連帯させないで資本の奴隷にさせる特徴がもともとある」と指摘する。
「ネオリベラリズムのもとでは、誰もが資本家の立場になり、起業する、あるいはスキルアップによって高い給料とキャリアを得ることが人間の幸せで目標だと思い込まされる。個人がバラバラにされて連帯できないから、社会も見えなくなるのです」

しかし、こうした方向性の「フェミニズム」が批判・否定されたとして、その後に出てくるのは、それこそ「伝統的家族観・性観念」を部分的に●●●●支持するようなムーブメントではないでしょうか。「そうしなければ社会を維持できない」ことを認めるにしても、それがすべての女性にとって望ましい都合がいいものでなければならないのではないか、そういう主張のことです。「女性の社会進出」や「性役割分業の解体」を是としなくても、フェミニズムは成り立ちます。

特に『Think outside the box』を読んできた皆さんには、先の記事を見て何かに気づきませんでしたでしょうか。そう、Prof.Nemuro氏がさんざん主張してきたことと内容が驚くほどに一致しています。それこそ白饅頭が島本のパクリ、レーニンがマルクスのパクリと言われるように、菊地夏野もProf.Nemuroのパクリと疑わざるを得ません。

もちろんそんな「パクリ疑惑」は冗談で言っていることですが、これは「男女共同参画という政府の政策」に反発してきたアンチフェミニストに対して、「私達もこんなものは求めていなかった」として共闘を呼びかけているようにも思えます。まさに「アンチフェミニズム主流理論」が目指していたことは、「別のフェミニズム運動」が変な形で実現しようとしているのです。