「監獄の誕生」の魅力


「人間をつくりかえる装置」

このおぞましい装置の存在はフィクションの領域なのか。


フランス現代思想を象徴するミシェル・フーコーは、近代的な権力構造を「殺す権力」から「生かす権力」への転換と定置した。
「生権力=バイオポリテイックス」である。

「監獄の誕生」において、公衆の面前で反逆者を虐殺し「逆らわないように」民衆を規律化する前近代の構造から、反逆者自体を「二度と逆らわないように」つくりかえていく構造へ。
特に、その構造を象徴するのが経済学者ベンサムによって考案された一望監視システム=パノプティコンである。

誰が見ているかわからないのに、誰かに「見られている」という視線の元で「しっかりしなきゃ」という意識になる。こうした内面に作用する「権力」が近代において活用されていく。

そのシステムは「監獄」「軍隊」「学校」「病院」という近代的な装置において共通する。
これらでは、おなじ服装、おなじ時間割、おなじ行動、おなじ空間とひたすらに同質性が強調される。
そして、その同質性から炙り出た存在は「異端」として矯正の対象となる。
その矯正は、無垢な存在としての人間個人を、生まれながらに「同質性」の規律に当てはめていくだろう。

資本主義の拡大と帝国主義の跋扈の中で、民族的同質性、階級的同質性が希求され、「私たち」と「それ以外」の相違が如実になる。そうした「おなじ」であることの探求と、よりよい「私たち=おなじ属性」の構築のために、同質性を担保するシステムが構築された。
ナショナリズムはその一断面である。

おなじ国民として国を守る徴兵制。
おなじ国民としての知識と技能を担保する義務教育、学校制度。
おなじ国民としての規範から逸脱した人間を「おなじ状態」に作り替える監獄。
おなじ人間としての健康状態から逸脱した病人を「回復」させる病院。

こうした装置が整備され同質性にともなう「対外関係」が整備されていったのが近代社会であるならば、その「対外性」がより溶解し、個人の人間関係のミクロな領域から、国家レベルのマクロな領域までに作用しているのが現代であると言える。

学校にせよ、監獄にせよ、病院にせよ、人間の身体と精神がある種の権力構造によって「作り替えられていく」ことへの違和感が喪失されてしまった。

その果てにあるのが、「個の領域」の喪失である。
何かと「おなじ」でなければいけないという脅迫に常に晒された個人は、「おなじ」であることに安住を覚える。そして、反対に「おなじ」ではない異端者を、自分と「おなじ」にするべく他者の規律化という実力行使を果たしていく。この構造が循環していく。

「おなじ」であることに安心をしつつも、どこかに違和感を感じる瞬間は誰にでもあるだろう。

その構造への理解と、近現代社会における「規律訓練」の構造と生権力の存在。
そして、自らも規律化の主体として存在していることを自覚するためのひとつの「装置」として、「監獄の誕生」はこれからも読み継がれていくはずだ。



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