青いままに 【だいたい2000字小説】
私にマイクを渡した客は、口元をニヤつかせながら「うまくやって見せてよ」と言った。
40平米ほどのフロアにカラオケシステムは一台しかなく、カウンターの常連客が上体を揺らして“レイニーブルー”を歌っている。
同じテーブルについた7名いる客の好奇の視線が、私一人に注がれた。
2名の先輩キャストは一瞬だけ私を見たあと、手元のライターに、テーブルのグラスに、視線を落とした。
歌う、わけではなさそうだった。
なにを求められているのかわからなかった私は、ヘラヘラと口角を上げたままマイクを握った。頑なに閉じた脇の毛穴から、じとりと汗が滲む。
「もうぉ〜、班長さん、みほちゃんは新入りなんだから、あんまりいじめんといてぇ。ただでさえ、向かいのお店からヘルプで来てもらってるんだからね」
私から一番遠い椅子に座っていたチーママの声が、陽気に響く。
「へえ、姉ちゃん新入りか。見ない顔だとは思ったけど。いつからよ?」
「先月からお世話になってます」
「お世話になってます、だって!!」
私の語尾を歪曲させながら、客は笑った。申し合わせたように、全員が笑った。
貼り付けた笑顔に疲れた頬の肉が痙攣する。
「じゃあ、まいちゃんにお願いしようかねえ」
私から取り上げられたマイクが、正面についた先輩キャストに向けられた。
「ええ〜! あたしはそんなんやったことないもん」
先輩キャストは、つけまつげで重たそうな瞼を細めて、爆笑で頬を紅潮させながら華麗に受け流した。
すごい、純粋に感心する。ほんの2時間前、バックヤードで気怠そうにタバコをふかしていた人とはまるで別人だ。
「班長かして! 私がやったるわ」
チーママが腕を伸ばしてマイクを受け取ると、歓声が上がった。
「ここがね、竿でしょ? 中頃から根元にかけてね、何回か往復すんのよ」
ママは、流暢に語りながら、左手でマイクの下部を支えて右手を上下させた。そんでそんで?とコールが飛ぶ。
「剥けたかなってところで、先っぽにいく……と見せかけて、カリのね、一番張ったとこをね、こう……」
ママの右手がマイクに覆い被さるようにして、手首から腕にかけてしなやかな曲線を描いた。小指が微かに立っていて、女の私でさえもそそられる何かがあった。
隣に座る客の鼻息が荒い。
「……と、まあ、これ以上はオプションとして追加料金いただきまぁ〜す♪」
ママが突然、満面の笑みで冗談めかす。大袈裟な落胆の声が上がり、みんなが笑顔になった。
その喧騒のなかで、ママと目が合った。
ママは、私しか気づかない程度に小さく首を傾げて、優しく笑った。私は、救われた。
でも、ママがここにいる理由なんて、客は誰ひとり知らない。
「ばあちゃんの介護が必要でね、母と一緒に広島からこっちに越してきたのよ。もう3年くらいになるかな。夜はこっちで働いて生活費稼いで、昼は介護する生活だよ。まあ、時々デイケアも利用するんだけどね」
チーママとそんな話をしたのは、忘年会の帰りだった。
私たちは帰る方向が同じだったため、タクシーの後部座席で二人揺られていた。
「そんなに先長くなさそうだからさ、いま一緒に過ごしておかなきゃ後悔すると思って……楽ではないけど、充実してるよ」
ママは車窓を眺めながら呟いた。
「みほちゃんは? なんでこの仕事しようと思ったの?」
自分はズケズケ聞いておきながら、ママに問われると恥ずかしくなった。
「卒業旅行の資金調達と、社会勉強のため……ですかね」
「資金調達ってウケる(笑)そうねえ……いろんな人が来て、いろいろ見えるから勉強になるよね」
それまで水商売とは無縁だった。
社会勉強といっても、卒業後の進路は既に決まっていて、ただ、新人女子アナとしてテレビで見るようになった女性が“大学在学中にホステス”という見出しで注目されていて、それの何がいけないのか(十分大変なお仕事だろう)、いやでも実情知らないな、社会人になる前にやってみるか、という好奇心のようなものからだった。
だから、選んだお店も県内で有数の繁華街、なんかじゃなくて、自宅から遠くなくて少し田舎の匂いがする店を選んだ。
それまで人が口にするお酒を作ったこともなければ、ライターを点けることさえなかった私が、そういう場で、“女”が“どう動くべきか”。それを学ぶ日々だった。
入店した店の道向かいに系列店があって、時々ヘルプに入る。
そこにチーママはいた。
ボーイだけの店と違って、チーママのいる妙な安心感があった。
「将来の夢とかあるの?」
私は、形になるかもわからないような目標をぼんやりと話した。
「いいじゃん! みほちゃんならできそう。こう見えて私、地銀の融資課にいたからさ、なんかそういうの応援したくなっちゃう」
「あ、それでチーママに?」
「どうかな、オーナーがかってくれたのかな」
がんばってね、そう言って優しく手を振るママを置いてタクシーを下りた。
「いや、一番は硬さだから!! 長さでも太さでもない。硬さ大事」
ママの演説に客が笑い転げる。
客たちは、女たちのもつ理由をきっと知らないし、知る由もないし、知りたいとも思わず、むしろ知りたくないと目を背けているのかもしれない。
そうやって、夜がゆっくりふけてゆく……。
あれから10年近く経とうとしている。
あの頃のチーママの年齢に近づいて、ママが言っていたことも“色々と”わかるようになった。
久々に国道を走ると、ママのいた店が見える。
表のドアに張り紙がされているところを見ると、新型感染症の煽りを受けているに違いない。
ママは、あの店で出会った人たちは、元気にやっているだろうか……。
街路樹が梅雨入りを告げる白い花をつけているというのに、空は、白い雲を幾つか重ねて、どこまでも青いままに見えた。