現実世界との境界が曖昧。#6月の課題図書:坂元裕二『往復書簡 初恋と不倫』【1カ月1冊生活】
8月半ばに6月の課題図書について書きます。
2017年の発売時に購入していた坂元裕二さんの小説。
この4月から6月にかけては坂元裕二さん脚本のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』に夢中になっていたので、本棚の積ん読のなかでもひときわ視線を引いたこちらの一冊に手を伸ばしました。
主人公二人の手紙・メールのやりとりで進行していくお話二篇、「初恋」と「不倫」が収録されています。
非現実的な設定なのにどこかに存在しそうな「やりとり」、ラリーがずーっと続くので、ずんずん読み進んでしまいました。
読書が苦手な方もこれは止めどなく読んでしまうのではないでしょうか。
不帰の初恋、海老名SA
冒頭から「返事」(「返事くださいと書いてあったので返事書きます」)で始まります。
ん?玉埜って誰?返事って何の?と一気にこちらの関心を引くのなんて、坂元さんからしたらお茶の子さいさいですね。
一つ目のお話は、玉埜広志くんと三崎亜希さんのお話です。
中学一年生の二人は同じクラスですが、玉埜くんは正義感故の行動で、クラスから浮いた存在になってしまいました。
三崎さんはそんな玉埜くんのことが好きで、手紙のやりとりをしながら13歳らしく仲を深めていくのですが、三崎さんは2年生になるタイミングで転校してしまいます。
時が流れて二人は大人になって、三崎さんが投函した一通の手紙から、メールのやりとりが始まります。
と、同時に不穏な事件の香りが漂い始め、初恋の思いを抱えたままの大の大人二人が不器用ながらも心を通わせていきます。
ニュースや週刊誌ゴシップにもなってしまった事件はどうなるのか?というところも気になってしまって、一瞬で読了しました。
三崎さんの言葉の重み
とにかくこの小説は(二篇とも)、最初から最後まで読むことで楽しんでいただきたいのですが、三崎さんが放った言葉が私に突き刺さってしまったので、ご紹介しておきます。
悲しみを伝えることって、暴力のひとつだと思います。
このフレーズがすごくよくわかりました。
もう一つ、「その人の前を通り過ぎるという暴力」も出てくるのですが、私はこちらが頭から離れませんでした。
悲しいことがあったとき、ひとりで抱えておくには辛すぎて、誰かに分かち合ってほしいという(自分本意な)感情から打ち明けてしまいがちな私ですが、打ち明けられたほうはどうなんだ?と考えてしまいます。
背負う必要のない他人の悲しみを突然知らされたあとって、重い空気で殴られたような、真上から押しつぶされたような感覚になっていないだろうか、と思ってしまうのです。
本当に大切な人の「悲しみ」なら、殴られても押しつぶされてもいいから分けてくれ、と思う玉埜くんの気持ちもわかりながら、伝える側は暴力をふるってしまったような罪悪感に苛まれるのですね。
一方で、わかるようでわからなかったフレーズがこちら。
大切な人がいて、その人を助けようと思う時、その人の手を引けば済むことではない。その人を取り巻くすべてを変えなければならない。
川はどれもみんな繋がっていて、流れて行って、流れ込んでいく。
文字どおりの意味はもちろん理解するのですが、自分のなかにはこれに相当する出来事がなかったような、自分ごととして腑に落ち切らない感じがありました。
どなたか、「いや、こういうことを言っているのだよ!」と教えていただけると幸いです。
このお話が衝撃なのは、大人になった玉埜くんと三崎さんが一度も会えていないこと。
それなのに、お互いのすべてを理解していく、なんてことないようで心のこもったやりとり。
何を食べたら、こんなに不気味であたたかい世界を思いつくのでしょうか。。
カラシニコフ不倫海峡
お次は、田中史子さんと待田健一さんのお話。
田中さんの夫は、絨毯の輸入会社に勤めていましたが独立し、モロッコで行方不明になりました。田中さんは夫が海外にいることすら知りませんでした。
待田さんの妻は、ある日週刊誌で読んだ「地雷を踏んで死んだ九歳の少女の記事」をきっかけに、アフリカへ地雷除去の活動をしに行きます。2カ月後、外務省から待田さんに、妻が「アンゴラ共和国とコンゴ民主共和国との国境付近において少年兵の持つ自動小銃で撃たれ、行方不明になってから五十二時間が経過している」ことを知らせる電話がありました。
それから一年が過ぎ、そんな二人の男女が危険な不倫海峡へ。
ある日突然、プツンと糸が切れたように「よくないこと」を次々と実行していく二人の結末が気になってしまって、これまた一瞬で読了しました。
カラシニコフが指すもの
カラシニコフとは、自動小銃のこと。歴史上最も多くの人を殺したこの兵器は平均3万円で手に入り、猿でも扱うことができるほど簡単な操作。
これをタイトルに持ってきたのには、何の意図があるのか?と考えてしまいます。
人を傷つけることはあっけなく容易で、今まで自分が築いてきた実績や信頼をぶっ壊すことも本当に簡単。
私たちは「理性」でそれを使わずに止まっているけど、ちょっとした出来事でもその理性は吹っ飛び、まるでカラシニコフを扱うように簡単にすべてを崩壊させることができる。
そんな「今の自分」と表裏一体くらい近いところにある海峡(陸と陸とのあいだにはさまれて、海の幅の狭くなった水域)に足を踏み入れた二人のお話、ということなのでしょうか。
「痛み」と戦慄(ネタバレ含む)
このお話のなかで、わかりみが深すぎて苦しくなったフレーズがありました。
諦めても諦めても、諦めてもまだ諦めなきゃいけないことは出てくる。もう十分諦めたかなと思ってもまだ諦めなきゃいけない。そんな人生を送ってきて、それでも真面目に生きてて、朝になるとちゃんと目を覚まして、今日その一日を諦める。
あぁ。
大人になるとは、こういうことなのかと思うこと、ありませんか。
ピュアで上昇志向のまっさらな自分に蓋をして、諦める。
最初は諦めることに心を痛めたものだけど、痛い思いはなるべくしたくないから、「痛くないこと」にしていく。いつしか「諦めること」は「痛くないこと」になっていく。
そんな「痛み」を思い出させられてしまったフレーズでした。
さて、ちょっとネタバレ的なことを言ってしまいますが、このお話は、157ページの田中さんのメールで一気に背筋が凍ります。
と思いきや、167ページの待田さんのメールに、目が点になります。
この戦慄体験をぜひ。
豆生田とは誰なのか(ネタバレ?含む)
二篇はまったく交差しないストーリーではあるのですが、唯一、いずれにも登場する人物がいます。
豆生田という男です。
ギリシャ彫刻のような顔をした、玉埜くんの大学の友人で、待田さんの古い友人。
チャーハンをおかずにしてご飯を食べる特技をもち、よく飴を噛む風変わりな男です。
さして二篇のお話上、重大な役割は担っていないような彼ですが、一体誰なのか、なぜいずれにも支離滅裂な感じで登場するのか、わかりません。
玉埜くんの職業も間違って認識しているし、待田さんのことなんか友人とも思っていません。
あなた、誰なの?!
わかっていることは、
・去年綺麗な水がないアフリカの小さな村に行って、水道工事をして帰ってきたこと(みんな病原菌だらけの水を飲んで病気になってる。だから水道工事をしに行くんだと)
・ゴルフのルールさえ知らないのに、先月十歳年上のプロゴルファーと結婚したこと
・玉埜くんのスニーカーを借りパクしたまま、結婚後、ネットオークションに出品していたこと
・妻から突然離婚届を突きつけられたが、離婚したくないので、弁護士であると誤認している玉埜くんに連絡をしてきたこと
・思い立ったかのように、あ、そうだ!と言い、どうかしたのか聞くと、いや何でもないと答える。またある時、あ、しまった!と声をあげる。どうかしたかと聞くと、いや何でもないと答える。あのさ。何。いや何でもない。そんな調子の不快な癖を持っていること
・学生の頃から日曜の夕方になると必ずそわそわしはじめ、サザエさんを欠かさず見るためきっちり六時半までに家へ帰ること
・サザエさんの髪型は何らかの伏線だと信じていること
変人です。
三谷幸喜さん作品だと、小林隆さんが演じていそうな感じです。
「どこか深刻さに欠ける」彼ですが、四人の主要人物の心の拠り所になっている節があります。
誰の人生にもそういう存在がいる、というか人生にはそういう存在が必要ということなのでしょうか?
坂元さんが何を意図して豆生田さんを生み出したのか、一生知ることはないでしょうけど、すごく気になって、この本を読んだ誰かと意見交換したくなってしまいました。
豆生田さんが待田さんに放った言葉に、こんなものがあります。
人間の心で最も制御出来ないのは、嫉妬とプライドだ。だけどその二つがない人間には何も出来ない。それは生きるための糧でもあるから。
これは待田さんが田中さんの夫への嫉妬を正当化するのに引用されていると思うのですが、人間の真理すぎて、肝に銘じたいと思ってしまいました。
自分のなかに芽生えた嫉妬やプライドに気づいたとき、がっかりしませんか。
こんなことで嫉妬しちゃって、私の嫌いなあの人と同じじゃん。
こんなところでプライド出して、一番なりたくない人間になっちゃってるじゃん。
そういうの、万人共通であるのでしょうね。
そして、この感情がなければ、何かをやり遂げたり、自分や誰かのために何かをすることもできなくなってしまうのでしょう。
そう思うと自分を少し許せたような、安心したような気がして、豆生田さん(坂元さん)に慰められているような感覚になりました。
…あ、豆生田さんって、坂元さんのことなのでしょうか?
(豆生田さんは、渦中の四人を俯瞰すぎるくらい俯瞰していて、一見何もしていないようで彼らの背中を押したり、見えていないことに気づかせたりしている。それはつまり他でもない坂元さん…違う?)
現実世界との境界がわからなくなる、という現象
この本を読み終わって数日経ったあるとき、ふと「今、待田さんはどうしているんだろう」とか「三崎さんは今どこに住んでいるんだろう」と思ってしまうことがありました。
小説やドラマ、映画の類はすごく好きでよく鑑賞するほうなのですが、こういう経験はあまりしたことがありませんでした。
ドラマや映画など映像作品は、よく知った俳優さんたちが演じていることが自明なので、あまりそういう思考には至らないのだと思いますが。
(大豆田とわ子や山音麦は確かにどこかにいそうな存在なのですが、私にとってあの映像の記憶は、どこまでいってもあくまで松たか子さんであって菅田将暉さんなのです)
小説ゆえに文字情報として記憶に焼きついていて、それが、小説として読んだのか、ニュースとして知ったのか、誰かから聞いた話なのか、よくわからなくなってしまったような感じです。
つまりそれだけのリアリティを持って、記憶に鮮烈に刻み込まれたということになるわけで、やっぱり坂元さんはすごいな、と感服しました。
と、同時に、こんな残酷な事実も私の脳を突き刺すのです。
世界のどこかで起こることはそのまま日本でも起こる
これは、地雷を踏んで一瞬にして死んでしまった人物や、「お手軽」な凶器で人を殺しても表情ひとつ変えない人物、恋も知らぬまま強制的に結婚させられている人物のことを指しているフレーズです。
このあと自分の身にそんなことが起こるかもしれないなんて想像したこともなかった自分を恥じました。
『往復書簡 初恋と不倫』を読んで、実在しない登場人物がどこかに存在しているようには錯覚するくせに、同じ地球上で今日も起きているいたましい問題を自分ごととして捉えたことのない平和ボケした自分。
坂元さんがこの小説で何を伝えたかったのかは私にはわかりかねますが、「初恋」や「不倫」のお話から、そんなことを考えていました。