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和子~「祖母」と書いて「きず」と読む~
世の中にはどうしようもない人間というのが一定数いる。
とても残念なことに、ぼくの母方の祖母である「和子」も、類まれなるどしようもない人間だった。鬼籍に入ってずいぶんと経つが、彼女にまつわるエピソードは今でも色褪せず鮮烈にぼくの記憶に刻み込まれている。
どうしようもない人間が自分の生活圏内に存在するとき、人は疲弊したり、あるいは辟易としたり、実害がある場合にはほとほと迷惑な存在でしかないが、しかし人伝いにその逸話を聞く場合には実に愉快なエンターテインメントになり得る。読者諸氏におかれましては、安全地帯から対岸の火事を眺めるがごとく、ぜひわが祖母「和子」にまつわるお話をお楽しみいただけますようお願い申し上げます。
1933年、和子は大阪の地で生を受けた。もしも2025年のいま存命であれば、92歳という計算になる。その年は、日本が満州事変に対する批判から国連を脱退した年であり、まさに第二次世界大戦へ粛々と駒を進めている真っ只中の年であったらしい。彼女の幼少期については話を聞いたことがないので不明であるが、真珠湾への攻撃が1941年、学童疎開が始まったのが1944年のことなので、12歳になる和子は疎開によって兵庫県の片田舎に移り住んできたのだと推測される。
祖父は1930年に生まれた。生きていれば95歳だ。村の大半を田畑が占める加古川市内の閑村で生まれ育ち、4人兄弟の次男坊にあたる。「戦争には行っていない」とのことだったので、戦時中の学徒動員は免れたようである。生前、祖父はしばしば「戦後はサツマイモしか食うものがなかった」と語っていたが、敗戦後は食料がろくに行き渡らない地域も多かったようなので、田舎に育ったのが幸いしたのだろう。ともかく、祖父母ともに戦後の物がない時代に育ったようである。
時系列順に書いていくので、ここからは母からの伝聞であり、またぼくが生まれるはるか過去の話になる。和子と祖父の馴れ初めは知らないが、紆余曲折あってふたりは4人の姉妹を授かることとなる。長女にあたる人物がぼくの母で、また次女については乳飲み子の間に亡くなってしまったので、面識はない。母が幼少の頃、住んでいた家は粗雑なあばら家みたいな建物だったらしく、時代も時代なのでそれなりに貧しい環境だったらしい。祖父は器用な人で自身で家を建築したらしいが、定職にはついておらず、日雇いで左官をしたり、建築現場に赴いたりする傍らで、足しげく賭場に通う博徒のような生き方だったらしい。幼子を3人抱えた親の在り方として、祖父も祖父でろくでなしなのであるが、和子はそれ以上に酷い有様だったようだ。
母が学生の時分から、しばしば和子は家出をする癖があったようだ。和子の姉が近隣の町に住んでいたので逃避行の滞在先として選ばれることも多かったが、それ以外にも友人・知人の家を転々として、半月ほど家に帰らないことが多かったとのこと。そして厄介なのが、たまに家に帰ってきたかと思えば必ず借金を作って出戻ってくるのだ。それも家出した先での交遊費だけにとどまらず、お金がないくせに見栄っ張りな和子は、高価なもので自身を着飾るための浪費なども激しかった模様。博徒とはいえど最低限の日銭を稼いで子を養っている祖父の立場からすれば、たまったものではない。
皆様は 簀巻き(すまき)というものをご存じだろうか。ぼくも実物を目にしたことはないが、人間を大きな布やシートでぐるぐる巻きにして全身を覆い尽くし、その上で紐で縛って身動きを取れなくしたものである。母が中学生になるかならないかの頃、和子の放浪兼浪費癖に堪忍袋の緒が切れた祖父は、幼い3姉妹に手伝わせて和子を簀巻きにした。そのあと、簀巻きにされた和子を軽トラの荷台に乗せる祖父に対して、母が「どうするの?」と聞いたところ、祖父は淡々とした口調で「川に捨ててくる」と言い放ったそうだ。現代よりもずっと命の価値が低い戦後とはいえ、相当のものである。母を筆頭に3姉妹で全力で止めて何とか事なきを得たらしいが、当際は阿鼻叫喚の地獄絵図のようだったらしい。
母は県立農業高校を卒業したのち、看護学生となる。祖父はタクシードライバーとして定職に就くと、二足のわらじで小さな土地で養鶏や農業にも励んでおり、その頃には住居もあばら家からそれなりの一軒家に建て替えられたようだった。和子の浪費癖や放浪癖は相変わらずであったそうだが、一応は炊事・洗濯など最低限の家事はこなしていたので、家庭内は落ち着いていた様子である。着物の着付けの資格を取って、自宅で時折着付け教室などもしていたようで、一応は当時にしては珍しい共働きということになるのだろか。しかし、和子が得た収入のほとんどは自分で使うための宝飾品に姿を変えていたみたいなので、家計の一助になっていたわけではなさそうだ。学校を卒業して看護師として勤めだした母が家計を助ける傍らで、和子は呉服屋に勤め始めたが、着物が売れずに自分で購入するという自爆営業がかさんで、まとまった金額の借金をまたこしらえたらしく、家計はずっと火の車だったようだ。
看護師として何年か勤めた時期に、母は父と出会った。父は九州の山奥から出てきて本州と徳島を繋ぐ定期連絡船の乗組員をしていたため、まだ実家に暮らしていた母と結婚する折、父は婿入りする形で同居を始めた。和子は戦力外として、祖父・母・そして父の3馬力で働き通したため、和子の借金はようやく完済に至る。ぼくから見ると叔母にあたる2人の妹も働き始めて実家を出ていったようで、この頃にやっと母は自分の為にお金を貯められるようになったと聞いた。しかしながら、である。
母と父の相愛も深まり、いよいよ祝言をあげようとした折、和子はまたしても放浪癖を再発させた。それもこれまでにも増して長期の家出だったらしく、それでもさすがに挙式の当日には帰ってくるだろうと母は高を括っていたのだが、なんと式の当日にも和子は姿を現さなかったらしい。父の親族が九州の山奥から出張ってくるなかで、花嫁の実母が不在、というのは相当の赤面ものだったようだ。時代の違いも含めて想像すると、あまりにも母が不憫である。それでも一応は滞りなく式が終わり、じゃあ新婚旅行に行こうかというタイミングを見計らったかのように、和子は家に帰ってきた。それもまた膨大な借金を抱えて、である。結果からいえば、新婚旅行に充てる費用を全て借金の返済へ工面してしまったため、母と父は新婚旅行に行くことができなかった。いくら親子といえどそこまでしてやる義理はないとぼくは考えるのだが、母はあまりにも「長女」であることを自分に強いすぎていた。また、和子の性質の悪いところが、お金を借りる相手が必ず知り合いからというところで、実家に住み続ける母は自分の世間体を鑑みても、立て替えざるを得なかったようである。古い時代の村暮らしとはいえ、聞いているだけで反吐が出そうだとぼくは思う。
母と父が結婚して幾数年かの時が流れ、ぼくの兄が出生した。母の生家である1階には共用のキッチン・浴室・トイレ・そして祖父母の部屋があり、2階には父母と兄の部屋がある、という間取りだった。父は仕事柄、何か月か置きに仕事をしたり家に居たりを繰り返していて、母は看護師の職務上、日勤と夜勤が入り交じる生活だったので、孫の面倒は祖父母が見る時間が他所の家よりも長かったのだろう。母からすれば実の両親でも、父からすれば祖父母は他人だ。初孫をあまりにも溺愛する和子のことが、まるで我が子を取り上げんとする悪鬼のように目に映っていたのかもしれない。家に居られない時間が長い分、兄が望むものは全て買い与えていたようである。そんな生活が7年ほど続いて、いよいよぼくが出生することとなる。
ここからはぼくが直接見て、触れて、そして記憶に刻まれた和子の所業を書き記していく。そのため、ぼくの偏見や推測なんかも交ざってくるのだろうが、決して脚色だけはしないことを固く誓うものである。そもそも和子との生活はあまりにもパンチが強かったので、むしろ白の絵の具で記憶を塗り替えて「平穏無事な生活であった」と言えたらどれだけマシだろうか。
ぼくの3歳の誕生日の次の日、阪神大震災が発生した。
当時、母・兄・ぼくの3人は2階の寝室で床についており、父は仕事で海上にいたので不在、階下で寝ていた祖父母が一向に起床しないぼくたち3人を叩き起こして、テレビでは倒壊した阪神高速や延焼する神戸の街並みの映像が映し出される。幸いにも我が家は無事で、ただ風呂のタイルにまるで断層のような長い亀裂が走った。おぼろげながらもそんな記憶があるので、きっとこれぐらいの時期にぼくに物心がついたのだろう。そこから話を始める。
先述したとおり、父母は不在の時間がとても長かった。そのため、必然的にぼくは祖父母の部屋で過ごす時間が長くなる。理由はわからないが、兄は和子のことを「ままちゃん」と呼んでいて、3つ上の従兄も同様に「ままちゃん」と呼んでいたので、ぼくも必然的に和子のことを「ままちゃん」と呼ぶようになる。決して母ではないのに「ままちゃん」と呼称するのが奇妙だと感じたのは、十数年後の未来の話である。祖父も和子もヘビースモーカーだったため、ぼくは絶えず煙草の紫煙にさらされて育った。時折家に訪れてくる祖父母の友人もみんな煙草吸いで、父も母も喫煙者であったため、実家の壁や天井は「黄色」という記憶が強い。そんな環境を嫌厭した兄は早々に自分の部屋を与えられて逃避したが、まだ判断力のない幼いぼくはずっと祖父母の部屋に居た。すでに定年を迎えて祖父母ともに仕事をしておらず、ただ祖父は養鶏と農業だけは続けていたので、必然的に和子とふたりきりになる時間が多かった。自分でいうのも変な話だが、ずっと傍にいるぼくに対して和子の過剰なほどの寵愛が偏って注がれた。幼いぼくに「孫の中でもあんなが一番可愛いんや」とハッキリ明言するぐらい、和子は孫に順位付けをしてぼくを可愛がった。そして、父のことを父親としては認識していたものの、「たまに家に帰ってくるときにお土産で玩具を買ってきてくれる人」ぐらいにしか認識しておらず、ずっと和子にくっついて離れようとしなかった。父の心情を察すれば胸に一物抱えるものがあったことは想像に難くない。
和子はいつでも派手な柄や色の衣服を好んで着用し、大きな石のついた指輪を必ず着けていた。よく「大阪のおばちゃん」と形容されるソレを地で行っていた。自宅にタクシーを呼んでふたりでデパートに行き、まるで父親に対抗するかのように「なんでも好きな玩具を買ってあげるわ」と幼いぼくを手懐けたが、その財源は間違いなく父母から出ていたことであろう。自宅では身内であろうとなかろうと絶えず誰かの悪口を言っており、そしてそれをぼくに刷り込むかのように懇々と語りかけ、また外に出れば店員であろうがなかろうが気に障ることがあればすぐ難癖をつける、そんな手合いの人間であった。演歌が好きで、よく歌ってぼくに聴かせた。寡黙な祖父はそんな和子のことを是とも非ともしなかったが、和子の悪口が余りにも酷いときには「そんなことを聞かせるな!」と諫めにかかり、しばしば小競り合いをしていたこともまた記憶に残っている。
4歳になると、ぼくは保育園に入園することになる。
入園式はさすがに母も休みを取って同行してくれた。しかし、父母と過ごした時間がとても少なかったぼくは、保護者が退場するにあたって泣きながら親元に縋り付こうとする多くの同級生を見て、「不思議だなあ」という気分で眺めていた。母から離れることに「さみしい」という感覚が養われてこなかった証拠である。のちに母はその時のことを「兄は泣いて寄ってきたのにアンタは寄って来んかったからさみしかったわ」と回顧していた。
保育園への送迎は、祖父が運転する車に乗って、そして入口までは和子と同伴する、というのがお決まりの流れだった。和子は免許を持っておらず、収入がないのに何かとタクシーを呼びつける癖があったので、見かねた祖父が足になる、という流れだったのだろう。少し話は逸れるが、祖父は敬虔な浄土真宗の仏教徒であり、我が家が檀家となる寺の住職がぼくの通っていた保育園の園長を兼任していた。それゆえだろうが、どこにいっても傲岸不遜な態度を取っていた和子も、保育園にぼくを登園させる際だけは借りてきた猫のようにしおらしい態度を取っていた。ただ一度だけ、登園した際に下駄箱のあたりをムカデが這っているのを見つけたとき、和子が鬼の形相で何度も踏みつけているのを目撃した。溺愛する孫のぼくには向けられたことのない明確な敵意をその目に浮かべていて、何度も踏みつけられて寸断されたムカデがそれでもなおくねくねと体を捻じる姿が鮮烈で、今なお続くムカデへの嫌悪感の根源はもしかするとその瞬間にあるのかもしれない。
保育園には4歳から6歳までの満2年通ったが、その間は和子と過ごす時間がとても長かった。人格を形成する上でとても重要な時期にそうだったのが良いことだったのか悪いことだったのかはわからないが、今日に至るまでのぼくの悪口の才能は、もしかすると和子の手で育まれたのかもしれない。当時は意味が理解できなかったが、和子が歌遊びのように教えてくれた悪口で「おまえのとうさんしなじんで しょうかいせきにやとわれて いっせんごりんのげっきゅうで べんじょのそうじもくさかろう」という一節がある。漢字に直すと分かりやすいが「お前の父さん支那人で 蒋介石に雇われて 一銭五厘の月給で 便所の掃除も臭かろう」という、現代なら国際問題に発展しかねない人種差別全開の罵詈雑言である。時代が時代とはいえ、それを4歳の孫に教え込んで「誰かに言うてみい」という和子の倫理観は、控え目に表現しても下卑以外のなにものでもない。因みに敬虔な仏教徒の祖父は、食事の前に「御仏と皆様のお陰によりこの御馳走を恵まれました。深く御恩を喜びありがたく頂きます」と唱えることを教えてくれた。教育の内容に天と地の差がありすぎる凸凹の祖父母だった。
和子は唯我独尊の人である。ぼくにある程度の物心がつくと、家から徒歩で数分の個人商店によく煙草を買いに行かされた。そして必ず「ツケでお願いします」と言うように調教されていた。もちろんツケの意味も概念も知らなかったが、お店のお姉さんは慣れたもので「はいはい~」と帳簿に何かを記載するのがいつもの光景だった。また、孫のぼくにその毒牙が向けられることはなかったが、同室にいる祖父にしばしば野次を飛ばしてみたり、母の作る料理に難癖をつけてみたり、とにかく常に誰かを攻撃していないと気が済まない性分であった。大抵の場合、寡黙な祖父や忍耐強い母は聞き流していたが、和子の研ぎ澄まされた悪口に耐えかねたとき、しばしば家庭内で熾烈な争いが巻き起こることもあった。
ぼくの実家の階段にはふたつの血痕がある。時を経て増改築を繰り返すなかでも、その痕跡は未だ薄っすらと残り続けている。ひとつはぼくの血である。7歳上の兄が自室に向かう際に階段を物凄い勢いで駆け上がるのを見て、真似をしようとした幼いぼくは階段の頂上付近から足を滑らせて転落。「まるで側転をしながら落ちていくようだった」と目撃した兄は語るが、その際に階段の角面に頭をぶつけて少々の流血をした。そしてもうひとつは和子の血痕である。前述したとおり、祖父は基本的には穏やかであるが過去に和子を簀巻きにして殺害しようとした過去を持つ。とある夜、2階の寝室で寝ていたぼくは、階下からの「救急車呼んで!」という大声で飛び起きた。恐る恐る部屋から出ると、ちょうど母が階段に飛散した血液をぞうきんで拭いているところだった。ぼくは恐る恐る「どうしたん?」と声をかけると、「おじいさんとおばあさんが喧嘩して、灰皿で頭を殴ったみたいやわ~」ときわめて冷静に事実を教えてくれた。ぼくは深い眠りの淵にいたので知らなかったが、祖父母の部屋で怒鳴り合う声を聞いて母親は何かを察知していたらしい。昔の灰皿と言えば火曜サスペンスにも凶器として出てくるようなガラス製の重たいもので、当たり所が悪ければ和子は三途の川を渡っていたところなのだろうが、憎まれっ子世に憚るとは上手く言ったもので、母が和子の額に応急処置をして事なきを得た様子だった。祖父の名誉のために言っておくが、それまで和子が激高して祖父に物を投げつける光景は何度か見てきたが、祖父が手を上げる姿を見たことは一度たりとてない。和子の邪悪さにあてられ続けて、積もりに積もった昔年の怒りが爆発しただけなのである。むしろ着目するべきは、温厚な人間をそこまで変貌させてしまう和子の恐ろしさにあるといえるだろう。
ぼくが小学生に上がると同時に、兄は中学生に上がった。時を同じくして、明石海峡大橋の建造が父から船員という職業を奪い、隣市にある町工場への転職が決まった。今までは中期的な不在が多かった父も、自宅から通勤する仕事に変わると必然的に和子と接する機会が多くなり、言わずもがな和子の歯牙に父も掛かることとなる。毎晩お酒を飲む父は夜尿症の気があったが、祖父母の部屋のすぐ前にトイレがある家の構造が災いし、和子は「毎晩毎晩夜中にトイレの電気をつけられたら、ロクに寝られもせえへんわ!」と小言を言い始めるようになった。父は婿入りした立場で肩身が狭かったのか、難色を示した表情で耐え続けていたが、当然母には子供たちに聞こえないところで常々と愚痴を言っていたのだろう。板挟みの状態になった母も怒りっぽくなり、家庭に不穏な空気が流れる頻度が多くなった。
ある年、和子は心臓の病に罹った。胸部から腹にかけて切開する大きな手術だったが、幸か不幸か手術は無事に終わり、経過期間を終えて家に帰ってきたときにはピンピンしていた。にも関わらず、何につけては術後の体調を理由にして家族に攻撃する頻度が高くなった。いわば盾を武器として殴りつけている状態である。家族間のフラストレーションが凄まじいことになっていた。自宅の2階を増築して、兄とぼくの共同の広い部屋が与えられたので、ぼくは祖父母の部屋を離れる機会が増えた。すると和子は頻繁にぼくを呼びつけて、「傷が痛いからさすっててくれ」と切開痕に触れさせて、祖父母の部屋に留まらせようとするのだった。小学校低学年のぼくはまだ「溺愛」という名の下に植え付けられた呪いから脱し切れてはおらず、純粋な気持ちで「痛そう、可哀想」と思って和子の傷跡を懸命に撫でていた。父が家に在中するようになってもなお、まだ和子と過ごす時間の方が多かったように記憶している。
恐らく2年生か3年生の夏休みのことである。ぼくは大抵、家に引きこもってスーパーファミコンに夢中になっている。兄は部活動、父は仕事で日中は不在。朝方に家にいるのはぼくと祖父母と、夜勤明けか休みの母という状況が増えたタイミングで、家族間の小競り合いが激増した。和子と祖父が怒鳴り合えば、また祖父が灰皿で頭を殴るのではないかと肝を冷やし、和子と母はもう怒鳴り合いを超えて食器を投げ合う応酬にまで発展していたので、非力なぼくにはどうすることもできなかった。泣きながら割って入り「喧嘩はやめて!」と説得を試みても全くの無駄で、自分の無力さを痛感すると同時に大人が怒鳴り合う声から耳を背けたくて、仏間に逃げ込んでは仏壇に手を合わせて「喧嘩が早く治まりますように」と拝み倒すのが日常と化していた。
喧嘩が毎日起こるわけではなく突発的に始まるもので、それはそれで心が休まらずにぼくも疲弊していた。そして夏のとある日、その日はいつもとは違って朝から嫌な予感がしていた。朝食の席で和子が「料理の味が薄いねん」と小言を言えば、母は「洗った食器に油ついてるからもう洗い物せんといて」と嫌味で応じ、少しの小競り合いを経たのち和子はぶつくさと言いながら自室に一旦戻る。昼を過ぎて兄が部活から帰宅し、昼食を終えると祖父は畑仕事に出ていき兄は昼寝に入った。同室でぼくがゲームに勤しんでいると、階下から和子と母の怒鳴り合う声が聞こえてきた。心拍数が急上昇し、手汗でコントローラーを握っていられなくなったぼくは、寝入る兄に「また喧嘩してるやん、止めてきてよ」と懇願するも、兄は「ほっといたらええねん」と他人事。直後に物が壊れるような音が連続して、母の「痛い!」という悲鳴が聞こえてきたので、頭が真っ白になりながら階段を駆け下りると、台所で涙目になって頭を抑えながら和子を睨みつける母と、肩で息をする鬼の形相の和子、そして割れて床に飛散したお皿だったものたち、という光景が目の前にあった。母はしきりに「痛い!」と繰り返し、和子は「お前が悪いんや!」となおも怒鳴り続ける。そしてぼくが事態を飲み込む間もなく、おもむろに母が立ち上がったかと思いきや、ふたりの間にあった卓上のかぼちゃを持ち上げるやいなや和子の頭部を全力で強打した。形勢逆転、今度は和子が「痛い!」と言いながらその場にうずくまる。幼いながらに「さすがにこれは事態がやばすぎる!」と直感したぼくは、返す刀で2階に駆け上がると、無理やり兄をベッドから引きずり出して、何とか階下まで連れてきた。兄が「もうやめえや!」と割って入るのと同時に畑仕事から祖父も帰宅し、「なにをしとんねん!」と和子と母の両方を諫めることで、すんでのところで事なきを得た。事なきを得た、とは言ったものの、死人が出ていないだけで数日間は和子の頭と母の額が腫れあがっていたのは言うまでもない。余談ではあるが、ひと夏の間に完全なノイローゼになってしまったぼくは、休み明けの小学校でトイレの窓から飛び降りて死んでやろうとしたことがある。その場にいたきわめて少人数の同級生が止めてくれたあと、担任との面談があって内々に処理されたので知る者は少ない。余談の余談で、この日の出来事を脚色して「かぼちゃフライデー」と題し、文芸●秋主催の文芸賞の公募に送り付けて、自費出版詐欺に遭いかけたことも付け加えておく。
とにもかくにも、自分の好きな家族同士が憎しみ合っていたり、普段は温厚な人が怒声を上げたり、そのたびにぼくは心がぎゅっと締め付けられる気持ちを噛みしめながら日々をすごした。怒りの矛先が自分に向いている方がまだ幾分か気持ちも楽だっただろうに、なぜかぼくには優しい大人同士がいがみ合い続けているのだった。そしてぼくが小学5年生のときに、和子を中心としたお家騒動はいよいよ佳境を迎える。
この年齢の頃には自我もおよそ確立されはじめ、それでも未だに和子の胸部の傷跡をしばしばさすってあげていたが、その傷をさすりながら「すべての不和の元凶はこの人にあるのではないのだろうか」という気持ちも芽生え始めていた。友達の家に遊びに行ったり、逆に友達が家に遊びに来たり、和子と接する時間は極端に少なくなってきた。和子からすると、あれだけ溺愛していた孫が自分の手から離れていってしまう、そんな気持ちになったのかもしれない。加害性の強い和子の性分であるからして、その感情の発露の仕方は酷いものである。鬱憤を晴らすかのごとく、すでに精神的に成熟して和子とは距離を置いた兄への小言や、仕事にかまけて育児をしないという口実で父に対する嫌味が恒常化していった。ある晩、父は母に「もうわしは和子とは同じテーブルで飯は食わん」と宣言し、祖父母とぼくたち兄弟が先に食事をして、それが終わってからやっと父が食卓に着く、というルーティンが確立された。すると和子は、わざわざ食事を終えてから嫌味を言うためだけに遅れて食事を摂る父の下に来るのである。母が父を庇う形で何度も和子を追い払ったが、父の心中を察するに、怒髪天を衝く状態に相違ない。
戦争の火蓋が切り落とされたのは、とある冬の日の朝だった。母は夜勤だったため、父親に「朝ごはんに作り置きのカレーだけ温めてあげといて」と言伝をして出ていたらしい。兄は朝練、祖父は鶏の世話で早朝からおらず、何も聞いていなかったぼくは、歯磨きをして和子の部屋でテレビを見ていた。すると台所から父がやってきて「カレー温めたから食べにおいで」と台所にぼくを誘おうとする。すると和子が「なによアンタ、ウチがカレー温めたんやないか!」と急に父に噛みついたのである。ムッとした表情を浮かべながらも「冷めとったからいま温め直したんです」と冷静に答える父に、「なんやねん、普段は家のこと何もせぇへんくせに! ウチが食べさせる!」と和子の猛攻が始まった。生まれてからこの瞬間まで、ぼくは父に叩かれたり怒られたりしたことがなく、ましてや父が声を荒げる姿も1度も見たことがなかったのだが、逆鱗に触れるとはまさにこのこと。ぼくの父はこんなに野太い声をしていたのかと初めて知るほどに、「わしが食べさせる言うとるんや!」と和子に怒鳴り返したのだった。ぼくも目を丸くしたし、初めての反撃に和子も目を丸くしたのだろうが、負けん気の強い和子のことである。「いいや! ウチが食べさせる! いまさら父親みたいなツラしくさって!」と応酬すると、父も「何が父親ヅラじゃ! わしの子どもやぞ!」と、一歩も引くことはない。家庭内の喧嘩にはもうある程度の免疫がついていたが、和子と父の直接対決は初めてのことであり、「さすがにこれはやばい気がする!」と固まっていると、またもやタイミングよく鶏小屋から帰宅した祖父の仲裁で、その場は何とか治まった。しかし、それと同時に和子と父の間に明確な遺恨が残る結果でもあった。
中学生の兄は週に2回、学習塾に通っていた。ぼくたち兄弟は元来サボり気質であり、兄は部活で疲れたとしばしば塾をすっぽかすことがあった。その夜も部活から帰りご飯を食べ終わると、兄は眠気に襲われて塾があるにも関わらず寝入ってしまったらしい。時刻になっても出席しない兄に対して、ご親切にも学習塾から「本日はお休みされますか?」との電話があり、不幸にもその電話を受けたのが和子だった。階段の下から和子が兄に「塾から電話来とるで! アンタ休むんか!」と必要以上に大きな声で呼びかけてくる。兄は布団の中から「休むって言うといて!」と返答するが、和子は聞こえない振りをして、「塾から電話きとる言うとるやろ! 返事せえ!」と怒鳴り返してくる。「だから、休むって!」と兄も大声で応じるのだが、和子は「なんて? 聞こえへんわ!」としらばっくれる。ぼくはそのやり取りを2階にある隣室で父とテレビを見ながら聞いていたのだが、おもむろに父が立ち上がって部屋を出ると、階下の和子に向かって「さっきから休むって言うとるやろうが! 聞こえとるやろ!」と怒鳴り始めた。和子も階下から「なんやアンタその言い方は! 大体なんべんも休みすぎやねん、アンタがちゃんと行かせんかいな!」と応酬。恐らく兄はこのとき父の怒声を初めて聞いたのだろう、半ば半狂乱で部屋から飛び出てくると「もういいって! 今から行くから!」と割り込むが、父も完全にスイッチが入っているので「行かんでええ! わしが電話で言う!」と引かず。もはやお馴染みの引き止め役こと祖父が階下に姿を現して、「もうええやろ! 休む言うてるんやから休ませとけ!」と、和子を引き剥がして祖父母の部屋に連れ帰った。怒りの余韻が治まらない父は、兄に対して「お前も休むなら休むで自分で電話しとけ!」と珍しく怒って見せると、先立って部屋に帰っていった。ひと騒動が落ち着いて平静を取り戻したぼくは、暗がりの中でベッドに包まる兄に「にいちゃん、大丈夫?」と声を掛けると、「……うん」とだけ返事があったが、鼻を啜る音がしたので、恐らくあの時泣いていたのだと思われる。中学生の精神を以てしても耐え難いほどに、家庭内の不和は尋常ならざる様相を呈していたのだ。火付け役の和子を中心として、その延焼は止まるところを知らず。
これがある意味では最後の戦いだ。先日の塾の電話事件から何度かの小競り合いを経たある日。ぼくは「スパイダーマンが見たい!」と父にお願いして、近隣のレンタルショップに連れて行ってもらったものの、「スポーン」という黒いスパイダーマンみたいなヤツが主役の映画を間違えて借りて帰ってきてしまって、仕方なくそれを父とふたりで寝室で見ていた。いまだからわかるが、連日のストレスで父は酒量が明らかに増加しており、ぼくたち兄弟にはニコニコして少し饒舌になるぐらいの違いしかなかったが、怒りのスイッチが入ると止まらなる気質だったらしい。「スポーン」を見ていると、何日かに1度訪れる和子からの嫌がらせの小言が始まった。それは「トイレの電気を消し忘れとる!」だったかもしれないし、「食べ終わった皿を片付けてない!」だったのかもしれない。詳細は覚えてないが、母が夜勤でいないタイミングで定期的にやってくる和子の小言に対して、まさにその夜父の堪忍袋の緒がスポーンと切れてしまったのだと思う。無言で立ち上がって階段の上に立つと、和子に向かって「お前いまから上がって来い! ここから突き落として殺したる!」と言い放ったのだった。泥酔しながらも殺気立つ父親にぼくは身震いし、恐らく隣室で寝ていた兄も飛び起きたはずだ。和子は「アンタいまなに言うた! 殺したるやと? ほな殺してみい!」と父を煽る。「早く上がって来い!」と怒鳴る父の声を聞きつけて祖父がすぐに姿を現すが、いつもと違って祖父は父に敵意を向けていた。「おい、いまなんて言うたんや!」と祖父も怒声を発する。「殺したる言うたんや!」と返す父に対して、祖父の背後から和子が「はよ殺してみい!」と煽り続ける。父は和子と祖父を順番に指差して、「お前も殺して、お前も殺す!」とバーサーカーそのものである。激昂した祖父が「なんやとコラ、誰にお前って抜かしとるねん!」と階段を登り始め、まさにぼくの目の前で胸倉の掴み合いが始まる。「お前にお前って言うとるんや!」「殺すなんかふざけたこと抜かすなよ!」。狭い階段の踊り場である。父が少し押せば、階段を背にした祖父は転げ落ちて死んでしまうだろう。飛び出てきた兄とぼく、ふたりの万力で父を引き剥がそうとして、父も少し冷静になったのか胸倉を掴んだ手をようやっと離す気になったらしい。ひと先ず掴み合うのを止めると、祖父は冷静に「仮にも親にお前やら殺すやら言うな。もう出ていけ、二度とウチの敷居は跨がせへんぞ」と告げると、父はまだ興奮の治まらない様子で「おう、出て行ったるわいこんな家!」と言い返すと、お互いに踵を返して部屋に返っていった。ぼくは寝室に戻り、声を上げずに号泣しながらスポーンの続きを見ていると、父はただ「ごめんなあ」と言いながらぼくの頭を撫でたのだった。元来、父も祖父も寡黙にして穏やかな性分である。父と祖父はどちらかといえば折り合いも良かったはずで、災いの火種を巻き散らす和子という存在がなければ、このような惨事に見舞われることはなかったはずだったのだ。
「この家で生活していくのにはもう限界がある」というのは、ぼくや兄以上に母と父が強く感じていたのだろう。子どもは転校しなくていいようにと、その冬中には同じ校区の違う町に賃貸を借りて、4人での生活が始まった。のちに聞いたところによると、母曰く「このまま一緒に生活してたら、わしはお前の母を殺してしまうかもしれん」と父から相談を受けていたらしい。そこにきてあの事件だったので、結果的に無事だったが、新聞に載るような事件の水際まで迫っていたのかもしれない。と考えるとゾゾゾである。新しい家での生活はとても穏やかな日々であった。和子と別の家で暮らし始めてすぐ、洗脳が解けたかのように祖母に対する愛情のようなものがぼくの心から消え失せた。全ての諍いは和子の存在によってもたらされたものだったのだと認識してから、幼いぼくの心を傷付けられた分だけ、和子への目線は白けたものに変わっていった。祖父母は年金暮らしなので経済的な支援は行っていただろうし、新しい住居も実家から車で5分程度のところだったので、母はしばしば祖父母の面倒を見に行っていた。帰ってくるたびに「またふたりでパチンコに行って負けてきたみたいやわ」とため息をついていたが、お金には代えられない平和がある。
父が酒を飲みすぎて、母と小競り合いをすることはしばしばあった。だが、和子が介在しない喧嘩なんていうものは、豆腐を投げ合う戦争ぐらいゆるやかで安全なものである。ただし、一度だけ大きな喧嘩があった。ぼくも中学生か高校生になって喧嘩の仲裁も小慣れてきており、階下で言い合いが聞こえるたびに駆け下りて「まあまあ」となだめていれば何事もなく治まっていた。けれどもある晩、いつもより少し長めの言い合いが聞こえたので「またか」という気持ちで降りていくと、父が母の胸倉を掴んで締め上げていたのだった。家族に手を上げたことが一度たりとてないはずの父の異常な姿を見て、ぼくは慌てて引き離しに掛かるが、物凄い力である。泥酔した父がぶつぶつ言いながら母を締め上げているので耳を傾けると、「和子……和子……」と呟いているのである。ぼくは父の耳元で「よう見てみい! それ和子やなくておかんやがな!」と怒鳴りつけると、父はハッとした表情で我に返り手を緩めた。「すまん……、なんでか知らんけど和子に見えた……」と急にしおらしく謝って、父はひとり寝室に消えた。ぼくも泥酔して知人と知らない人を見まがうことがたまにあるので、なんとなく気持ちは理解できる。父の心の奥底まで和子の呪いが侵食していたのだろう。生霊という概念も、その正体は案外そんなものなのかもしれない。
ぼくは年に1度か2度くらいしか祖父母に会いに行かなくなった。
ある年に和子は自転車に乗って転倒した。一応見舞いにいくと酷く青い痣が顔に出来ていた。母にかぼちゃで殴られたときよりもずっと酷い痣だった。「怪我するからもう自転車には乗らんとき」と母は以後口酸っぱく言い聞かせていたようだが、また自転車に乗って転倒し、大腿骨を骨折してからは半ば寝たきりに近い生活になった。見るからに憔悴して、かつて厄災として猛威を揮っていたあの威勢は完全に消え去っていた。会うたびに「いまでもアンタが孫の中でいちばん可愛いねん」と和子は口にするが、ぼくはもう彼女の呪縛から解き放たれており、「何をぬけぬけと」と心の中で毒づくだけだった。かつて親しみを込めて「ままちゃん」と呼んでいたのも、敢えてよそよそしく「おばあさん」と呼ぶように成っていた。もはや心身ともに朽ち果てる目前になっても、祖父とパチンコ屋に行っては年金を目減りさせて母の頭を悩ませていたが、母は止めなかった。死を目前に控える最後の慈悲めいた気持ちがあったのだろう。高校生になってアルバイトを始めたぼくは、和子に金の無心をされた。どこまでいっても和子は和子である。財布の中の千円札を全部貸し付けたが、当然そのまま返ってくることはなかった。見る見る衰弱していった和子は、しばらく会わないうちにひょっこりと亡くなった。母からは「もうそろそろかもね」と聞いていたが、何の感慨もなく「ふーん」と聞き流していた。「亡くなったで」と聞いたときも「ふーん」である。和子の葬儀で母だけは泣いた。厳粛な雰囲気ではあったが、ぼくは終始白けた気持ちで成り行きを見守っていた。出棺前、和子の死骸を見たときも「ふーん」だったし、皆が最後に頬や額に触れるときも、ぼくは遠巻きに「貸したお金が返ってきてないなあ」ぐらいの感想しか持てなかった。元から返ってくるとも思ってはいないが。三途の川を渡る舟代にでもなればと思ったが、きっとそれまでにどこかで使い果たしてしまって、川を這々の体で歩いて渡ることになっただろう。和子とはそういう人間だ。和子が亡くなってから、祖父と父の関係も急速的に改善された。ぼくが社会人になって独り暮らしを始めてからのことではあるが、父・母・兄の3人は生まれ育った家に戻って、祖父と4人で暮らし始めた。家族関係は良好そのものだったらしい。ハートフルストーリーである。和子が存命のとき、最後に会ったのがいつでどのような会話をしたのか、全く思い出せない。幼少期の和子についてはこんなに深々と思い出すことができるのにだ。そういう意味で、ぼくにとっての和子は「傷」みたいなものなんだろうと思う。怪我をした時の痛みや直後の辛さは感覚的に思い出されるけれど、治るにつれて意識もしなくなるし、ふと見たときにはもう痕跡すら皮膚細胞の代謝によって消え去っている。
過去を振り返りながら和子について書いてみたが、最初に書いた笑える不幸話というよりも、溜まった膿を押し出すようなテイストになってしまっていると思うので、そこはお読みいただいている皆様に深々と頭を下げるお気持ちでいっぱいです。そして今回ももう腰痛が限界なので、推敲はしません。毎度ながら誤字脱字乱文の数々お詫び申し上げます。それではみなさんさようなら。