インタビュー記事:柴田有理
2022年12月、岩手県盛岡市にて嵐の如く展開されたアンデパンダン展「金の板展」の主催者、柴田有理さんにこれまでの生活と活動について話を聞きました。
えー、まずは、生まれのあたりからお話をお聞きしたいです。
1981年、一関市に生まれました。それから何日かで親の転勤にともない盛岡に来て、それからずっと盛岡にいます。
高校は不来方高校で、進学した理由は小さい頃から図画工作の教室に通っていて、それを続けようと思いまして美術コースのある学校に進みました。不来方の時は絵画を専攻していました。専攻といってもその時の不来方高校は、一度決めた専攻がやっぱり合わないなと思った時には違う専攻に移って良いような、色々試して良い雰囲気でした。高文祭(高校文化祭)に作品を出すときも色々なジャンルに出して良いような縛りのない感じでした。
高校卒業後の進路は、他のみんなは美大芸大に進むような進路が普通だったのですが、高校時代の私は気力・体力共に乏しくてですね。全然大学進学どころの話ではなく、高校卒業するのにやっとのギリギリでした。それで、出席日を学校側に設けていただいて、とにかく学校にいくという日を重ねて出席日数を稼ぎ、卒業させていただきました。なので全然進学、就職の雰囲気ではなくてとにかく卒業を目指したよね(笑)
卒業後は少し体調が良くなってきた頃からアルバイトをしていましたね。
その傍ら制作などをしていたような感じですか?
高校卒業した時には、一度目のぱったり作らなくなるスランプみたいなのがきてまして、全然作ってなかったんだけど、人と雑談してる時に高校で美術系でしたみたいな話になると「じゃあ作れば良いじゃん」と言われて、なんとなく作ってないことにその時引っかかっていたので本当に素描とも言えない何か落書き的なものを書いてみたり。それを知り合いとかに見せてみてなんかイマイチな反応だともうちょっと頑張ってみたりしてました。
そんな時ちょうどよく自閉症の方がかく作品をみる機会がありまして。電信柱の絵を描く子がいて、それがものすごく枯れた絵を描く方で、それをみてやっぱり良い、自分も描けるようになりたいと思えるようになって、なるべく小さくても良いから作品を作りためましたね。
その電信柱の子の展示繋がりで美術家の橋場あやさんと知り合いました。現代の県内におけるアール・ブリュットを紹介し始めた走りみたいな人です。その時期ちょうど「ギャラリーla vie」という場所が盛んに展示をやっていて、 橋場あやさんがギャラリーと繋がりがあり会場とそこにいる人が良いと紹介されて通うようになりました。
のちにla vieで最初の個展をすることになるんだけど、それがもともと橋場あやさんが会場を借りてた時期で「自分はやんなくて良いから、柴田さんやりなさい」と急に放り投げられてやることになりました(笑)その時はとりあえずためていた小さな作品を出しました。
有理さんは短歌も詠まれていますが、それはどのあたりからになりますか?
短歌は確か、高校をでてバイトをしていた時期にテレビで枡野浩一さんをみて驚いてそれからですね。だから2000年頃からだと思います。
それこそ最初の個展でまずまずできたなと思う短歌を一つ出しましたね。短歌じゃないけど、やっぱり文字は貼ってました。
その時とてもキャプションにこだわりたくて、花巻にあるルンビニー苑という障害がある人が作業したりする施設があり、そこにいた下田さんっていう「いくらパジャマ」という名作を作った人がいるんですけど、その方が袋文字を書くのがうまくて、その方にキャプションを書いてもらいました。その時から文字や言葉に興味がありましたね。
小さい頃から絵を描くのが好きだったんですけど、タイトル付けをすごい頑張る子供でした。自分なりにああじゃないこうじゃないと。だからタイトルに出てきた言葉も前面に出したい!という気持ちがあったのも今の短歌につながっていると思います。
普段はどういう作品を制作されていますか?
自分ではよくわかっていないのですが、よく人から言われるのは「私小説なんだね」と言われますね。自画像も多いし、あとは自分に起こった日記のようなことを作品にしていますね。実際に小説などを読んでいても、「自分がああでこうで、こういう風にダメだった~」という内容が好きな方です。だから割と他人へのメッセージみたいなものは希薄で、自分に起こったことを説明している感じですね。このスタイルは割と最初の個展の時から変わってません。
制作でいうと、橋場あやさんに展示をやらせてもらって弾みがついて、いっぱいコンスタントに作品が作れるようになっていったんですけど、2003〜4年にかけて「2004杯、イカを描く」という活動をしていました。それも自閉症者アートの影響でした。同じモチーフを繰り返し描くというのが得意な人たちがいて、なんかすごい楽しそうで自分にも向いていると思ったし、それをやっていれば何を迷わなくて良いと思い、ぜひやりたいと。立体、平面、大小合わせて描き切りました。
なぜイカだったんですか。。。
姿がかっこいいよね。中でもヤリイカとか、シュッとなっているものが好きなんですけどやっぱりフォルムかな。動機はなんだったか忘れたな。
イカの前にアスパラガスを100本描いていたりもしたから、やっぱりスピード感のある、ロケット的な、投げたら飛びそうなものが良かったよね。それを西暦の数作りました。サイズも技法も変えながら、停電した時も描いてたり、とにかく夢中になってやってましたね。
それらのイカは大阪で展示しました。そのあたりから展示を県外で行ったり活動をしていく楽しさを感じていましたね。その間も短歌はじわじわ続けてました。悔しがりなのでじわじわと。
大阪の他にも、青森だったり、福岡だったりで展示しました。福岡のは別府温泉の美術コンクールで作品を20分プレゼンテーションして競うような形のがあって、そこで2位になってしまい、自分で展示場所を探さなくてはいけなくなり、福岡の古い建物の良いギャラリーを見つけて、そこを借りて展示しました。
福岡では短歌をメインとした展示で、その時は卒塔婆を30本くらい買って、それに原稿用紙の枡目を描いて短歌を書く作品を発表しましたね。それがちょうど2011年で震災の年だったんです。
震災の年に岩手で卒塔婆で作品を作っていたら、震災のことをやっているんじゃないかと思われてやりずらさを感じていたんですよ。いや、それが沿岸の人を弔っているようなのであればまぁ良いんでしょうけど、全く自分の事だけの短歌を書いていたので、ちょっと遠方で飾りたいと思い福岡で展示しましたね。
そうやって続けている最中に、時々、パタっと作品を作らない時期があるんですよ。さっぱり作る気持ちもないし、自分の部屋の絵具を置いている所とかにも行くこともなくなるみたいな、生活の中から一瞬なくなることがありますね。でもその作ってない期間に、やっぱり作ってないとダメだよなと思ってまた自然と作りだす感じで再開するね。
話を聞いていると橋場あやさんとの繋がりがありさんにとって大きかったんだと感じます。
橋場あやさんがいなかったら展示を見ることはあっただろうけど、展示をするということはなかったかもしれないよね。一回ギャラリーを借りるのに5万円必要だったら、あの当時の5万円って用意できなかったので(笑)
橋場あやさんは当時、いろんな面白い絵を描く、しかもちょっと変わった子を発掘しては展示してあげる(させる)ってことをやっていて、多分私がみた電信柱の子もそうだったんだと思う。つまり私もつまみ上げられた一人なんだけど(笑)
「なんか柴田さんも良いかもしれない」みたいな感じで、拾われ、放たれ(笑)
すごい良い活動ですよね。拾われた方はわからないですけど、プレッシャーが凄そう。けど拾いに来てくれるのは嬉しい人もいますよね。人攫いみたいだけど、、なんか良いですよね。
最後に今後の目標などはありますか?
去年、短歌と写真の展覧会をしたんですけど、それを本にまとめたいというのが目標ですね。まだ全然手がつけられてないんですけど、福岡での展示の際にあったブックデザインができる、現代詩も書けるデザイナーさんがいて、その方に協力してもらって短歌と写真の本を作りたいです。
それともしかしたら年末に公募形式の短歌展なんかもやりたいですね。
次はゲリラ的に短歌展が開催されてみたりするのも楽しそうですね。
お答えくださりありがとうございました。美術家の柴田有理さんでした。
おまけ:柴田有理さんのおすすめ本
小島信夫 著
『殉教・微笑』から「微笑」
『別れる理由』
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?