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被害者というナラティブがもたらす課題 : メタファー:リファンタジオについて

はじめに

メタファー:リファンタジオ」は、種族間差別を作品世界の基幹的要素の一つとして位置づけ、キャラクターの動機形成や世界観の精緻化に寄与させようと試みていた。このような差別描写は創作に奥行きをもたらし、現実社会の諸問題を反映する重要な契機となり得る。

 しかしながら、本作の描写には課題が残されており、社会批評的なメッセージ性を目指した作品としては片手落ちとの印象を受けた。
 それは、本作の語り口が被害者側の視点に著しく偏っていることが物語を通して悪い形で際立っていることによるものだ。


"被害者主義"の物語

 本作は主人公だけでなく、宿敵であるルイもエルダ族だったことが終盤に明かされる。これによって本作の物語の軸足が抑圧されていた当事者であることで一貫しているのは分かりやすく、主人公とルイの差というものは平等主義の根幹思想へのアプローチの違いとしてて描いていた。
 博愛主義的な主人公の影響は概ね被害者の発奮による変化へと接続しており、全体を通してのみならず、他の種族に焦点が当たったセクションでも同様の働きをしていたのは分かりやすい。「被害者」とカテゴライズされている傾向のあるムッタリ族やパリパス族は一定の尺を割いて描かれているからだ。

 この被害者にフォーカスを当てた設計は、その反面、クレマール族やルサント族のような主流派や、イシュキア族やローグ族のような既得権益層、つまり加害者的に描かれている立場への言及は極端に乏しくなってしまっている。特に後者は当該種族であるフォーデンやレラが物語の負の側面を一身に背負うことになってしまったのも余計に印象を損ねている。

 本編で掘り下げきれない部分への補完的なフォロワーエピソードに関してもこの点は同様だ。ストロールやヒュルケンベルグは個人的な課題を克服する物語であり、ハイザメやキャゼリナのエピソードのように種族の抱える宿痾も含めて乗り越えるような形としては成立していない。

いいエピソードではあるんだけどね。

 それ故に、本作は差別を題材の一つとしておきながら掘り下げられる種族」と「掘り下げられない種族」が峻別されるような構造になってしまっている。これは被害者偏重的な物語がもたらしている食い合わせの悪さであり、明確な弊害だろう。

 もう一つ、このナラティブによる大きな課題は主人公たちの行動や認識については、作中で批判的な検討がほとんどなされず、物語全体を通じて無窮に肯定される構造が構築されてしまっていた部分にまで伝染している点だ。こちらはプロットの作り込みの甘さだけでなく、現代の社会課題を暗喩的に描く物語全体の目的があったのだとすれば、よろしくないと言わざるを得ないだろう。

その手段を肯定していいのか

 為政者が後継者の選定プロセスを血縁関係やクーデターに起因する実効支配ではなく、民主主義的な手法で選び出そうとした導入から開始した本作の物語に対し、主人公たちが対立候補を暗殺することで目的を達成しようとする選択に疑問が提示されないのはまさしくその実例だろう。
 ポピュリズム的な形で人気を獲得しているルイに対し、主人公たちは血縁関係を持つ王子を正当な王位後継者として据える手段として対抗勢力の暗殺というイリーガルな手段を行使することを選ぶ。ルイもフォーデンに対して同様の手段を実行するが、作中での言及の温度差は説明するまでもないだろう。
 こうした主人公たちの行為は流離を経て帰還した王子を担ぎ上げて、民主制に移行しようとしている国家に旧態依然とした政治体制を再構築しようと試みた縁故主義者の肯定と解釈した方が自然だ。にも関わらずこのような主人公たちの選択に対しては作中で疑問と、説得力を持った回答が提示されることはなく、被害者側からの抵抗なのだからと免責的に処理されてしまう為、物語の中で如実な違和感となってしまった。
 そして、このような対立勢力に対して誠実さに欠ける作劇課題は精神的な前作とも言える「ペルソナ5」から引き続き、というのも本作のストーリーに厳しい評価を与えている要因だ。(ロイヤルで多少の改善は見られたが)

 かの作品では社会的な問題を正義の名のもとに打破しようとする主人公たちの行動は自己満足的な私的制裁を行っているだけでないかという倫理的な内省を行う過程をスポイルした挙句、最終的には大衆からの「支持」「不支持」という他人軸の構造に落とし込んでしまった。これはトリックスターをロールモデルにしていた作品としては明確な失敗だろう。
 その結果、加害者とされる人物の背景や事情に対する洞察の機会も排除され、パレスの主が持つ社会問題の暗喩としての意味合いはキャラクター個人の悪辣さにシュリンクされることで棄損されてしまい(祐介とのコープはこの部分の補完的な側面があったので素晴らしかった)、ペルソナ4のマヨナカテレビで提示されていたような大衆の習合的な"悪意"に対する回答も、怠惰という単純な結論で提示されるに留まっていた。

宿痾から抜け出そう

 しかしながら、このような被害者側に偏重した描写であるとの課題は本作に限った話ではなく、差別を題材に組み込んだ作品、特にプレイヤーと主人公の主体性が不可分になりがちなビデオゲームでは陥りがちな落とし穴だろう。比較的最近の作品で具体例を挙げると「FINAL FANTASY XVI」はまさしくだ。

 当該作品は本作のような階調的な差別ではなく「差別されるベアラー」とそれ以外の二種類にしてしまったことで、この課題はより明確な形で露呈してしまった。かの物語の中では自身があの世界の社会構造の中で差別の加害者でも被害者でもあったという複雑な事実への向き合い方が他人の思想の借用で済まされてしまい、高度な内的葛藤が描かれることがなかった。他にも課題が多い作品ではあるが、この部分は特にクライヴ・ロズフィールドというキャラクターを描く物語の中で看過できない瑕疵となっていたのは否めない。

 しかし、一方で極めて主観的な物語でありながら、被害者的ナラティブを皮肉交じりに描いていた「MOUSEWASHING」のような作品が現れているのは頼もしく思っている。

 比較的新しいストーリードリブンな作品であるため、ここでは物語の内容の詳細な言及は控えるが、タイトルの意味から我々ユーザーから主人公へ向けられる感想までもをひっくるめた一つのシニカルな応答として捉えることができるだろう。

おわりに

 本作のように説得力の弱い勧善懲悪的な物語の中では差別の要因をスライドさせることによる相対化を行った所で、現実社会の課題を客観視させようという段階には手は届いていない。ゲームというカルチャーの中で社会批評的な目標を掲げたことは伺えるが、本作のストーリーはそれを成し遂げるには詰めが甘かったというのが私の感じたところである。

 手厳しい意見を述べたが、本作はインターフェースを含めたルックの部分や目黒将司のサウンドのようなよく出来ている部分を当たり前のように受け止めているからこそ、物足りない部分が目立ってしまっている。ゲーム的なメカニクスについてもこの点は同様だ。

 主人公のカスタマイズ性に特化している3以降のペルソナと異なり、仲間にも流動的にアーキタイプを付け替えることでより深い戦略性を持たせようとのゲームデザインを採用している。しかし、このアーキタイプを個別にレベルを上げることを求められるため、強敵に対しての試行錯誤の前段階にカロリーの高い作業を要求されることや、その過程がボスと戦う為のリソースを奪い合うような構図になってしまっている。

 本作はペルソナシリーズからカレンダーシステムを踏襲していることで他のRPGと異なり「補給して出直す」行為へのペナルティが非常に重たいのも悪い方向に相乗効果を働かせてしまった。加えて、戦闘自体もプレスターンシステムの完成度には異論が無いが、同時にもはや新鮮味というものは存在しないと言ってしまっても語弊はないだろう。真3が出たのはもう20年前だ。アクションバトルも含め、改めて長時間のレベル上げ作業に耐えうるかという点では厳しいところがある。

 そして、ストーリーも上述したような課題以外にも、本作はペルソナ4の真犯人当てやペルソナ5のイゴールの声優変更をメタ的に活用したギミックのような大掛かりな仕掛けが不在だったのが惜しまれる。このスタジオにはそのような手法を期待しており、プレイヤーの本名を入力させることもどこかで大きく活用するだろうと期待していただけに肩透かしのような気持になってしまった。

 強いて挙げるのであればモアの真相解明が上述した部分の類型なのかもしれないが、ジェイドみたいな見た目で桐生冬芽のような話し方をしてくる輩はどうみても胡散臭いわけで、彼やナレーションの正体の種明かしも、数十時間費やす物語に期待するような驚きには欠けていたというのが率直なところだ。



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柮
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