拒食気味から過食症、なんとかなるまでの8年くらい-前編
注意喚起
先に注意喚起を。これからの文章には、拒食/過食症状、自傷行為、攻撃的な発言、親との不和、認知と価値観の歪み、等の内容が含まれます。少しでも嫌だと思ったら、すぐに読むのをやめてほしい。特に、あなたが摂食まわりで何かしらの苦しさを抱えている場合は。これは自分の経験だけど、同時にあなたを傷つけるかもしれない。後述(次の記事で)するけど、自分も他の人の摂食まわりのことを見たり聞いたりして苦しくなったことがあるから、どうか、あなたにとってのそうはなりたくないんだ。きつかったら、すぐにここから離れてほしい。
あと、本当はこの一本の記事で完結させるつもりだったけど予想以上に長くなって分けたので、この記事の中では「なんとかなるまで」に辿り着いていません。好転してないです。全編暗いです。多分読んでいて気持ちのいいものじゃないです。それは本当に御免なさい。
これはほとんど自分のための、記録としての文章。治療の一環みたいな振り返り。過去の吐き出し。同じような経験で苦しんだりしている人の役に立つ、まではいかなくても、事例提供程度になればと思って公開する。
現在
はじめましての人もいるだろうから、軽い自己紹介。狐塚空、大学生、ノンバイナリー。最近疎かだけど短歌を読んだり文を書いたりする人間。ここんとこは主にパレスチナのことでブチ切れてる。そんなとこ。
摂食行動下手っぴ歴約8年。ざっくり拒食気味→混合→過食→現状って感じ。最近は相当症状が改善して、授業にもそれなりに出て、チューイングもほぼなく、断食もしないで済んでいる。未だに波はあって、お腹が満ちた感じになったり朝昼兼食で炭水化物を摂るのが怖い時期とか、食べ過ぎ気味が続いたり、ちょっと過食やらチューイングやらがある時期もある。でも、これが生活だよなって思えるくらいの状態ではある。そんなとこ。
発端/中学時代
早速だけど系統立てて認識するために、こっからは時系列で洗いざらいぶちまけてく。
いっちゃんの始まりは、中学校のころ。元々食は細かったからそんなに食べる方でもなかったから、こんときで体重40キロ。ちょっと軽めかなくらいだったと思う。ただ、筋肉がマジで皆無。ぽっこりお腹。父方由来の丸顔。体重の割にふっくらしてたと思う。
中1が終わるあたりだっけな。お正月に甘納豆を食べ過ぎて体重増えた……みたいな話をしていた記憶がある。このときの41キロが、以降5、6年の中で一番の体重だった。
そのちょっと後だったかな、季節は定かじゃないけれど、合気道やっててバチクソ力が強い幼馴染の1人が友人たちを持ち上げていて、自分の番になったとき、「お前重くなったなー」って言われた。別に、特段毒のある言葉じゃなかった。今考えてみれば、親が子どもを持ち上げて言うような、そういうふざけで言ったんじゃないかなと思う。でもなんか、そこで、「重いのか自分」と思ってしまった。多分起点はここ。言い添えておくが、その友人に恨み言を言う気はまっっっっったくない。どうせ自分の状態だったら、どっかで始まっていたことだという確信があるし、最終的に全部自分で自分を縛っていたことだから。これを読むことはないとは思うけど某f、君のせいじゃ、絶対にないからな。今でもずっと、大事な大事な友人だからな。
まあそんなこんなで、食べる量を減らし始めた。39キロ、お腹が引っ込んだ。小学校の頃から幼児体型を気にしていた自分、歓喜。そっか、ただ太り過ぎてただけか、って。身体もちょっと軽いし。でも残念なことに、ちょっとしたら体重は変わらないのにまたお腹が出始めた。あれ、まだ足りないのかな。もっと減らそう。これの繰り返し。次第に、体重が減ることが楽しくなっていった。痩せていて悪いことはないんだし、痩せているだけで一つのアドバンテージだし、と。無論、実際そんなことはないが。
毎朝体重計に乗っていたのが、そのうち朝晩2回になった。テレビで「水太り」という言葉を聞き、「水を飲んでも太るのか」と、極力水を飲まなくなった。むくみのことで、実際に太っているわけではないというのも、見ていたはずなんだけどね。兎に角、なんにせよ体重が増えるのが、嫌だった。
1日に何回も体重計に乗るようになった。朝食前、朝食後、入浴前、入浴後、夕食前、夕食後、時にはお手洗いの前後まで。うちの体重計は0.2キロ刻みで、食事の前後で+0.2キロ以内が理想だった。+0.4はよくない。それ以上は絶対駄目。こんな感じ。
体型も気にしていたから、コルセットが欲しいと親に言ってみた。親の答えは、「今からダイエットやらコルセットなんてしたら、あんたの食事作らないからね」。仕方がないので、家にあるもので代用することにした。具体的には、ベルトでお腹を締め上げた。寝るとき以外の家にいる時間はずっと縛っていた。もう捨ててしまったから正確な長さはわからないけれど、まともに穴を通したら腰回り1.2〜1.5周くらいになるベルトで、2周回るところまで締めていた。無理に締めているから、合皮の編みベルトは当然変形した。お腹にベルトの跡が赤いのが、いつものことだった。
「出されたものは残さない」これは小さい頃から徹底して教えられていたから、食事までにお腹が空かないのが怖くなった。出されたら全部食べなくてはいけないので、食べた後にずっと自分を責めていた。食べること自体、体重が増えるから怖かった。食事が済むと、2度とお腹が空かないのではと怖くなった。給食をほとんど食べなくなった。大体のものを減らしていた。時々本当に食べられない、食べたくないときには、よそってもらったものの9〜10割を食べる前に食缶に戻していた。
空腹の状態で1時間弱そのままにしておけば逆に空腹感が消えるから、これを車のエアコンに喩えて「内気循環に変わった」と呼んでいた。この「内気循環」のときには、摂取カロリーを燃やし終わって身体についた脂肪が燃焼されていると思っていたから、これが来たら内心よしよしと思っていた。実際、起こっていることは遠くはないのかもしれない。
汚い話だけど、生まれたときからお腹の調子がよくなかったから、常に便秘薬を飲んでいた。これを、食べ過ぎたら多めに飲むようになった。そうだ、食べた分は出してしまえばいいじゃないか、と。少ない量じゃ効かなくなって、その度増やした。とはいえ、多分ギリ正常な範囲内の量だったと思う。のちに拒食症の「排出行動」のひとつで下剤を飲むというものがあると知って、これじゃんとなった。
あと、燃やすために運動もしなきゃ、と、ラジオ体操の簡易版みたいなのを毎朝やるようになった。休日、雨だったりで外に出られない日は、部屋で日がな一日体操みたいなことをしていた。ソファの上で走ったりも。スプリングには非常に悪いことをした。
これでも、多分中学校の頃は36〜7くらいはあったと思う。身体測定のときは、あまりにもひどい数字を叩き出したら親に何か言われると思って、体操着のポッケに鉄球でも入れていけないかと本気で思案していた。なんだかんだ平気で済んだ。高校前に1回どっかの健康診断で親に見られて、「あんた何してんのこの体重」と怒られはしたけど。
この頃の食事の摂り方例。この頃、朝食はありがたいことに親が用意してくれていたから、目玉焼きとちょっとの野菜と味噌汁に、仏さんにあげるくらいの(近所の個人店で外食したときに言われた形容だが、あまりにもわかりやすいのでよく使っている)ご飯。
昼食・給食。かやくごはんのかやくの部分、にんじんとこんにゃくと油揚げと、とかを各種1個ずつ。お米はかやくと合わせて仏さんくらい。かき玉スープは卵ほんのちょっととわかめ2枚と申し訳程度の汁。鰆の西京焼きはひと切れの4分の1〜5分の1くらい。おひたしは小松菜、にんじん、油揚げ、もやし各1本ずつ。牛乳はパック開けずに返却。みかんはちゃんと1個食べる。因みにうちの自治体の給食はめちゃくちゃ美味しいと評判だった。実際美味しかった。本当、給食費を無駄にしてしまって親には申し訳なかったと思うし、勿体ないことをした。
夕食、大皿炒め物と各人ご飯。肉野菜炒めの肉1枚、にんじん1枚、ピーマン1枚、玉ねぎ1枚、キャベツはカロリーが低いから2枚許す。ご飯なし。終了。こんな感じだった。
かつ、食事は太りやすくなると聞いた21時までには意地でも終わらせた。終わらせられないときのストレスは酷かった。ただ、親も疲労していてどんどん食事の開始時間が遅くなっていった。正直、これがとんでもないストレスだった。自分で作ればよかったじゃないか、とも思うけれど、それを言っても親は「やるからいいよ」とさせてくれなかったし、慣れない自分が作ってもひどく遅いのはわかっていた。でもこの頃、親にご飯の時間を早くして欲しいとか、早くご飯作ってなんてのは、割と冗談抜きで死んでも言えなかった。小さい頃、自分の弟の育児で疲れ果てて荒れていた親の記憶があるから、親に家事の要望をするなど、何があってもしてはいけないと思っていた。催促するくらいなら全部自分でやれ、と。養ってもらっている分際でそんなことを言うなんて許されないと。
思ったより長くなったな……まあ、こんなのが中学時代だった。
臨界/高校時代
高校時代編、あんまりにも長くなったから3つに分ける。流石に。
晴れて高校入学! この頃で体重は35くらいだった。だからといって特段困ることはない。ただ、中学とは違って高校はお弁当を作ってもらっていたから、それが悩みの種だった。親がわざわざ自分のために作ってくれたお弁当。食材の命を殺して作られたお弁当。当然、捨てるなんて死んでもできない。だから、どんどんお弁当箱を小さくしてもらった。用量300mlとかのお弁当箱の、汁漏れするようなおかずを入れる小さい方の仕切りにご飯を入れてもらって、あとはわずかなおかず。おむすびを作ってもらった日には、「食べ切れないから」とクラスの運動部の子にあげていた。
この頃顕著になったもののひとつとして、水分摂取が苦手になったことが挙げられる。まず、これは中学の頃からあったにはあったけど、冷たいものが飲めない。常に喉がつかえている感じがしていて、それがひどいときには水も固形物も通るものじゃない。ひどくないときでも、冷たいものはひどく突っかえて飲めない。コンビニで買った野菜ジュースが冷たくて飲めず、ただ公立高校に電子レンジなんてないため、窓の日差しのあたるところに1〜4限で置きっぱにして、ささやかに温度を上げるくらいしかできなかった。
あと、水分の量が飲めない。太るから、と思っていることもあるけれど、つかえているから、も大きい。体育がある日でも、120mlの水筒をほぼ満杯で家に帰ったりしていた。
休みで家に居る日は、必ずと言っていいほど突発的に走りに行っていた。40分で往復6km走って戻ってくる、なんてのをよくやっていた。
走りといえば、この頃はどんなに運動しても、寒い中で身体が温まるという経験をしたことがなかった。冬の体育の時間、半袖体育着で外に出されて、さぁ寒いが走ればあったまるぞーなんて言われて長距離走終えて、何言っとんじゃ走ってあったまりなどせぬわ心臓が痛くて息がゼイゼイするだけでずっと寒いわボケェ(※決して体育教師への罵倒ではありません)とずっと思っていた。今、走れば全然あったまる。あの頃の自分、筋肉も脂肪も無さすぎて生成される熱自体が僅かだったんでは、とか思う。
んで、何だろ。この辺り、高校入ったあたりから、「頑張れなくなった」。中学の頃の自分はテスト前の追い込みをしっかりしていて、2週間で授業外の勉強100時間を義務付け、強迫観念じみたものを意図的に生成して勉強に励んでいた。2教科以上で満点を取れないのは人間のクズだ、それすら出来ずに生きている資格なんてない、みたいなのを勉強しながらずっと言い聞かせていた。でも、ちゃんと芯の部分では「そんなことはない」とは分かっていた。だから、本物の強迫観念には遠く及ばないものだった。因みに学区割の公立中学校とはいえ、1回のテストで2教科以上満点なんて、結局とれずに卒業した。
高校受験のとき、塾とかを絶対拒否している割には偏差値は低くなかったため、自校作成問題やグループ作成問題の高校も視野に入れていた。お馴染みの強迫観念もどきと勉強して、夏休み。どっかの自校作高校の英語の入試問題を解いた。
結果、2点。100点満点中の、2点。なんか、ここでプツン、って、何かが切れた。ド下手の体育以外で劣等の烙印を押されることが常に怖くて、「優等生」から外れることが怖くて仕方がなくて、それでやってきたのに、2点。笑い転げながら泣いた。なんだ、自分、こんなに馬鹿で、クズで、出来の悪い人間だったのか、って。こんなに頑張ったつもりでも、遠く及ばないのかって。
結局、自校作でもグループ作でもない高校に入った。でもここで自分が心の底から大好きだといえる文芸部に入って、大好きな部員たちに出会って、そのために動いて、あと明らかに様子のおかしい(ハロウィンに自作の仮面ライダーのコスプレをしてきたりしていた。主材料が段ボールとは信じられぬ超高クオリティだった)美大志望の友人と出会ったりして、幸せという言葉を使うのに躊躇いのない時間を過ごせたから、一片の後悔もない。人生を高校受験からやり直すとしても、自分はまたあの母校を選ぶだろう。
脱線脱線。まあそんなこんなで、プツン、から、「頑張れなくなった」。定期テストの勉強の仕方がわからない。1週間前すら切っているのに、何もできない。やっと3日前になって、腕を引っ掻きながら勉強を始める。こんなのが、常態化していた。自分の色んなものがガラガラと崩れているのを感じていた。もう駄目だ、といつも思っていた。ドロップアウト、という言葉が常に頭の隅にあった。
高校1年の冬、文芸部の同期と一緒に帰った日のことを覚えている。なんか頑張れなくてさ、とか、成績落ちててさ、とか、期末テスト無くなんないかな、とか、そんなこと話をしていた。
本当に期末テストがなくなるなんて、思わなかった。
コロナだった。新型コロナウイルスの感染拡大が、世界的に起こっていた。期末テストが無くなった、と聞いて、長いこと追われていたものが突然立ち消えてしまったような、呆然とした気持ちだった。壊れた安堵は、後からやってきた。
この前後、いや多分前かな。臨界点がやってきた。食事を減らせば下がっていた体重が、勝手に下がり始めた。この頃で体重は33近く。特段、これ以上減らそうとして食べていなかった訳ではない(当時の基準では)。それなのに、食べているのに、減り続ける。
恐怖だった。曲がりなりにも、これまでは全部意図的にやっていたから。食べないのは自己制御だから、正直いつでもやめられるしという気があった。体重が思ったように落ちないのは仕方ない、更に食べる量を減らすだけのこと。でも逆に、意図していないのに落ちるというのは、考えてもみなかった。初めての制御不能。怖かった。少しだけ、食べる量を増やした。戻らない。どころか、更に減っていく。32キロを切りそうになった。恐怖が限界に達した。
初めて、親に泣きついた。食べているのに増えない、ずっと減っていっている、どうしよう、怖い、と。親は、少しずつでも食べられるように協力すると言ってくれた。メイバランスとかの、栄養補助飲料とかも買ってくれた。カロリーが200もあるのに食物繊維もタンパク質もほぼ無い、つまり直接的に糖質が取り込まれるじゃんって、結局ほぼ飲めなかったけど。あとあれら、めっちゃ甘ったるいし。因みに1番軽い頃だと、31キロ台に食い込んでたんじゃないかという記憶がある。
漢方医のお世話になるようになった。……このとき、精神的な根本治療ができていれば、正直、自分は過食で苦しむこともなかったのではと思っている。心療内科、精神科に掛るべきだった。かつて胃腸関連でいくつも病院を回ったけどよくならなかった件によって、病院に行ったって何になる、という諦めがあったせいもあり、心療内科の提案すらしなかったと思うんだけど。でもあのとき、自分の今の状態と認知の歪み、恐怖の正体、予後の危険──具体的に言えば、過食に転じる可能性とその防止策──などが知れていれば、自分は、拒食だけで終われたのかもしれないって、ずっと思っている。
漢方も今の自分の身体を良くするのに役立ってくれているのかもしれないけれど、体質改善も大きいんだろうけれど、正直ほぼ対症療法だったし、効果は見えにくかった。色んな薬を飲んだ。当帰芍薬散、六君子湯、半夏厚朴湯、他多数。1番まずかったのはえぐみの強い桂枝加芍薬大黄湯で、1番おいしかったのは生姜せんべいみたいな生姜湯。高校の間は大体飲んでいたと思うんだけど、いつから行かなくなったんだっけ。
あ、逆に効果が見えやすかったものでいえば、親に連れていってもらったカイロプラティックがある。身体の歪みを治して自然治癒力を高める、といったものなのだが、足とかをゆらゆら揺らしたり背中のあたりを押したりするだけで、あり得ないくらい身体が軽くなって、息がしやすくなった。ふわふわしているように感じたくらいだ。今でも身体が重くなると「あ、あそこ行こう」と通っている。初めの方は2〜3週に1回くらいは通っていたが、今では2〜3ヶ月に1回で済むようになった。
転換/高校時代
コロナ禍に入って、学校がなくなった。外に出られなくなった。家に閉じ込められた。外を歩くのすらやめた方がいいとされ、マスクは必至、部屋の窓を開けるかどうかすら考える日々。息苦しいにも程があった。しかもよくなかったのは、家には、ずっと何かしらの食べ物があるということだった。学校にいるときは食べ物の存在をシャットアウトしやすかったのに、家だとそれも出来ない。また、うちの親はほっとけば何かしらつまんでいる人だったから、3食以外に常に食べ物の可能性があった。
これまで、制限に制限、自制に自制を重ねていた人間が、突然紀律のない空間に放り込まれ、四六時中を過ごさねばならないとなったら、どうなる?
自分の拒食は、過食に転じた。常に何かを食べている。摂食がインスタントな刺激だと知った。刺激のない、サザエさん時空のように停滞した世界。兎に角、なんでもいいから刺激が欲しかった。これまで避け続けていたそれは、手軽でいくらでも得られる刺激だった。
親は喜んだ。これまでひどく食べなかった人間が食べ出したら、そりゃまあ喜ぶよね。おかしいとは、思ってくれなかったのかな。
何かにつけてはものを口に入れて、冷蔵庫の前で何かしらをずっと食べ続けて、ときには砂糖をそのまま食べたりして。自分でも、なんだか訳がわからなかった。毎度お腹が丸くなるまで食べて、胃痛で苦しんで、吐き気すらして、それでもまた食べて。よくわからないのに、ただ刺激が欲しくて、その繰り返し。甘いものに、食べること自体に嫌気が差しても、兎に角刺激が欲しくて食べ続ける。あるとき胃痛でいつものように横たわっていると、親が消化薬系の胃薬をくれた。人生で初めての胃薬。こんなに痛みがさっと引くことがあるのかと、衝撃だった。苦しくなっても薬を飲めばいいし、と思うようになった。常用に近づいていった。
コロナ禍から学校が再開して、のところでどんな経過だったかは、正直あまり覚えていない。一度に通常の半分の生徒しか登校できなくなり、部活の体験入部をどうするかの話をしていた記憶くらいしかない。多分、それだけが生活で鮮やかなことだったから。
でもなんか、ここら辺でちょっとだけ落ち着いた気がする。落ち着いた? いや、ちょっと覚えていないかも。記憶がごっちゃになっていて、もしかしたらこの辺りでは、まだそこまで過食はひどくなかったかもしれない。
兎に角、学校は再開して、お弁当は自席で前を向いてだけ食べるようになって、あとこの頃人間関係で色々あって3年になるまでに爆病みするなどして、なんやかやで大学受験に入った。
因みに、コロナのあたりで勉強の進度がわからないのが怖くなって塾に通わせてもらっていたのだが、受験前あたりだろうか、数少ない拒食気味のせいではと思われる体調不良があった。
とはいっても非常に軽度ではあったのだが。塾塾までは家から歩いて15〜20分くらいの距離なのだが、その途中、異様なほどの身体の重さ、動悸もあったかもしれない、で動けなくなった。熱でも出たかと思った。が、授業に遅れてはことだし、塾の入り口で体温は測るし、そのときに熱があるようなら帰ろうと思っていた。50mもいかない毎にしゃがむか、座るかしないと歩けない。流石にこれはまずいんじゃないかと思ったが、平気な場合行くしかない。通常20分前後で行けるところが、3〜40分かかった。しかし、熱を測ればまあ平熱も平熱。次第にだるさも落ち着いてきたが、「もしかしてこれ、体重の少なさのせいか?」と流石に疑った一件だった。
悪化・受験期/高校時代
あと、今でも明確に覚えているのは、塾のお弁当のこと。自習室が閉まるまで勉強するためにお弁当を2つ作ってもらって昼と夜で食べるようにしてたんだけど、これが、食べるのを制御できなくなった初期事例のひとつ。具体的に言うと、昼にお弁当を両方食べてしまったり、勉強に行き詰まるとすぐ食べる方に逃げたりをするようになった。親に「食べるのをやめられない」と相談すると、「食べられないよりいいよ」と返ってくる。まあそうだよね、と諦めた。塾にいるときはまだ限りがあるのでなんとかなって(食べ物が無くなると髪を抜きだして指紋が削れるなどしていたので、今考えるとなかなか異常ではあったのだが)いたが、家にいるときは本当にもう駄目だった。
大皿料理で、他の人の食事が終わったあとの残りを全部食べる。ご飯を5杯近くもおかわりする。その後、家にあるお菓子や残り物を片っ端から食べる。冷蔵庫と食卓を何往復もする。気付けば、21時と思っていた食事終了時間は21時半に、22時に、22時半にと、どんどん遅くなっていった。食事時間に押しつぶされて、勉強時間が削れていった。
多分、受験のことで、多少精神もやられていたんだと思う。兎に角ご飯が食べたくて、ご飯が進むおかずがよくて、そうしたある日の夕飯、親がおでんを作ろうとしてくれていた。自分でふりかけでも用意すればよかったのに、出してもらったもの以外を持ってくるなんて失礼だと思っていたからそれもできず、でもなんだかあまりに「違う」が大きくて、親に、「おでんじゃなくて、ご飯が進む感じのおかずがいい、本当に御免なさい」と伝えた。親は一気に不機嫌になった。「全否定された気分だよ」その言葉に、ただでさえ親に家事に関する要請は絶対にしてはならないという規則を破って罪悪感でいっぱいだったのに、狂いそうになった。御免なさい、本当に御免なさい、おでんがいいです、おでんがいいです、申し訳ありません、否定する気なんて少しもなかったんです。泣いて謝ったけれど親は聞いてくれなくて、まあ自分が悪くはあるんだろうけど、煮物と、あと何かのおかずを作ってくれた。煮物のにんじんは、おでんに入れる用に切ったと思われる厚めの輪切りだった。にんじんにも、「おでんになりたかった」と言われているようで、表面温度としては温いはずなのに、あんなに冷たいにんじんは食べたことがなかった。作ってくれたことにお礼と謝罪をして、家事も出来る限りやって、次はおでんが楽しみとか言って、その後も何度も何度も謝罪して機嫌を直してもらえるよう色んなことをして、それでも丸1週間、ほとんど口を聞いてもらえなかった。受験中、間違いなくこれが1番きつかった(正直、書くのでもここがダントツに精神にきている)し、しばらくおでんがトラウマになった。親との不和でトップレベルに苦しかったひとつである。
あと、今思い返せばだが、いわゆる「ドカ食い気絶」を、素でやっていた。爆睡の意図はなかったが、気付けば1時間ほど気を失っている、というのが何度もあった。
特に覚えているのが、滑り止め校のネット出願のとき。21時半頃、帰ってきた父親に「用意ができたら呼びに来て」と言われ、でも過食が止められなくて、そのまま居間で気を失っていた。気付いたときには23時近くになっていて、怒り狂った父親が居間に入ってきて、「人に物を頼んでおいてなんだその態度は!」と怒鳴り散らされた。胃の内容物と罪悪感や恐怖やで二重に吐きそうなのを押さえつけながら謝罪して、何度も謝って、腕を数回切り付けて後処理をしてから父の部屋を訪れて、謝りに謝って、そしてようやく出願を手伝ってもらった。自分の自傷行為は過食由来のものが多く、それもあって軽い傷の後処理は慣れたものだった。このときもいつもどおり傷をくっつけて血を止めて、水だかワセリンだかを塗ってラップで包んで処置した。いつもはこれで綺麗に治るのだがこのときの傷は随分治りが遅くて、微かなケロイド状になって今でも残ってしまった。
あとこの頃から、献血ができないかと目論んでいた。最低なんだけど、献血なら合法的に自傷行為ができると思っていた。ついでに誰かの役に立てるかもしれない。悪いことないじゃん、と。
献血ルームが定期圏内にあったから、そこに何度も行った。勿論、体重は基準の40キロを大きく下回っている。だからだぼっとした服の下に、ベルトを5本くらい巻いて重量を出そうとした。失敗。過食をした日に死ぬほど水を飲めばいけるのではないかと思った。失敗。なんかいけそうな雰囲気で行ってみればなんとかなるのではと思った。検査の直前で体重計に乗せられ、失敗。こんなんがしばらく続いた。最近ではわりかし献血ヘビーユーザーになりつつあるが、今は自傷行為なんて思わず、100%の「なんとなく」で行っている。
そんなこんな、よく駄目になりながらも、なんとか受験を乗り切った。過食については言語化がまだ出来ていなくて助けを求められなかったけど、そうでなくても人間、常に誰かに気にかけてもらえる、話せる人がいるってのは、相当大きいみたいで。このときはそれが塾の先生で、本当にメンタルケアをしてもらったと思う。超蛇足だけど、洋菓子店で財布の中身を確かめたりしていたら万引き犯と間違えられて詰められて謝られもしなかったようなことがこの辺りであったけど、これ塾の先生が怒ってくれて、やっと辛かったことがわかったっけ。あのときの先生、お元気かな。もうどこかの学校で担任持ってるのかな。
繋ぎ
予想の数倍長くなったため、一旦ここで切ろうと思う。好転まで辿り着けず、もしここまで読んでくれた人がいたら、全編暗くなって申し訳ない。でも、受け取ってくれてありがとう。
あと、親のことを相当悪く描写してしまっていて申し訳ないが、ごく稀な特に苦しかったことを抜き出しただけなので、普段は本当にいい親だしちょっかい掛け合ったり冗談を言ったりする家なので、安心してほしい。
明日か、明後日くらいには続きを出す。既に4割くらいは書けているので。そうしたら多少好転まではいきます。
続
《追記・2025.2.10》
続いた。しかも後編じゃなく、中編が。