完結しないことで、完結する
2011年だから今から10年以上も前になるけど、日光東照宮の陽明門について記したメモがあった。タイトルは…「陽明門の『魔除けの逆柱』」。何かの映画のタイトルみたい!?なかった?そういうの?
それでは、原文のまま、どうぞ。
今日、生まれて初めて日光東照宮に行ってきた。
ちょうど、ガイド付きの修学旅行生一行と同じようなタイミングでまわっていて、別に盗み聞きをしていたわけではないが、ボーっと建物など見ていたら、自然に説明が耳に入ってくることがあった。
まあ、ほとんどが、右から左に流れていくだけなんだけど…。
そういう中、唯一、耳をダンボにして聞いた説明があった。
それは、陽明門でのこと。
陽明門の12本の柱には、グリ紋と呼ばれる渦巻状の地紋が彫られている。ただし、その中で1つだけグリの紋が逆向きになっている柱がある。もちろん、間違ったわけではない。「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、わざと未完成の状態にしてある、という。
なんでか知らないが、心に響いた。単なる未完成の柱の話に過ぎないんだけどね。なんでだろう?
言われれば当たり前だけど、「『完成』って相対的なものなんだな」って、気付かされる。その人が、完成と思えば、完成。でも、絶対的なものではない。Aさんの完成も、Bさんにとっては未完成ということもある。
プライベートの時間なのに、こんなこと考えるのはためらわれるが、仕事においては、社員教育、ブランディング、各種プロジェクト…色々なことにあてはめることが出来るだろう。
なーんて、ことを言うと、仕事においては、意図的にやり残す部分をつくれ、みたいなことになるが、そんなことはない…っていうか、そんなことしちゃ、ダメでしょう。肝心なことは、やり終えたと思った段階で、99%の出来である、ことを認識することではないか。「ここまで出来たけど、よく見ると改善の余地はありそうだな…」みたいな。「まあ、納期があるから、これで見切りをつけよう」みたいな。これを、「一世一代の完璧な仕上がりだ」、なんて思うと、崩壊が始まっちゃうわけです。
陽明門は、ある意味99%完璧なつくりなのに、その残り1%の原因がどこにあるのか分かっているのに、敢えてそれを放置してある。でも、もしかしたら、その不完全さは、それを見る人に与える教訓の効果を考慮した場合、100%の完璧さ以上に完璧さなのかもしれない。100%の完璧さなんて、「アー、キレイだな」とか、「すごいな」だけで終わるんだから。
なんちゃって。
最後の締めが「なんちゃって」という、衒いなさ気に振る舞っているところいじらしい。
前回、営業においては準備が大事だ、ということを述べた。
その通り。その通りなのだが、最近は、例えば資料は全部揃えないことにしている。ある資料は、わかっていても敢えて持っていかない。
「あっと、そうだ。よかったら、〇〇の資料もあとでメールで送りますよ。メールに書いてあるアドレスでいいですか?」
といった具合に、約束をしてクロージングとしている。もちろん、後日、約束通り資料はメールに添付して。
それに対して先方の返答があればなおさらだが、そこから会話が広がることもあるし、何なら新しい情報提供も、参考までに、ということで、容易にすることができる。
完成を目指すことで、関係が途絶えてしまうことがある。
やり残しをあえて作っておくことで、関係が続くこともある。
営業の場合、直感に反するセオリーがまだまだ点在しており、それを正しく利用するだけでも、アドバンテージを広げることがまだまだ可能だと思われる。
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