201思いがけず利他
思いがけず利他 ~中島岳志~
「利他」という問題を考える際、核心にせまっていると考える落語がある。「文七元結」
主人公長兵衛は腕の良い左官屋だが博打にはまって仕事が疎かになり、妻娘に貧乏をさせる。ある日家に帰ると娘が昨晩から見つからないと言う。あちこち探しても見つからずにいると吉原の番頭がやってきて「うちへ来てますよ」と言う。吉原に向かうと店の女将の説教が始まる。せっかく腕が良いのに博打ばかりして、娘は吉原に「身を沈める」ことでお金を作ろうとしている。「長兵衛さん悪いと思わないのかね?」そして女将は一つの提案をする。今から50両貸すので真面目に働いて来年の大晦日までに返しにくること。それまでは娘は自分が預かり、用事を手伝ってもらう。もし、約束を守れず、50両を期日までに返せなければ、娘は店に出す。長兵衛は女将と約束をし、50両を受取り、女将と娘に礼を言う。これまで威張っていた父が、自己の不甲斐なさを突きつけられ、娘に頭を下げるこの場面は落語家にとって腕の見せ所である。
店を出た長兵衛は帰り道を急ぐ。そしてある橋に差し掛かったところで、一人の若者が川に身投げしてしようとしていることに気付く。慌てて若者を抱きかかえると、若者は涙ながらに「どうぞ、助けると思って死なせてください」と懇願。聞くと取引先から預かった50両を道で盗まれたと言い、店の主人に申し訳が立たないと話す。長兵衛は苦しむ。懐には先ほど借りたばかりの50両がある。これを渡せば彼の命は救うことができる。しかしこのお金は娘が作ってくれたもので、手放してしまうと借金返済は不可能になる。どうするべきか。
長兵衛は悩みぬいた末、50両を差し出す。そして自分が大金を持っている事情も話し、「娘が客を取って悪い病気にでもかからないように金毘羅様にでも拝んでくれ。」と言い、50両を投げつけてその場を立ち去ってしまう。
若者の名は文七。彼はもらった50両を手に店に戻ると、盗まれたと思っていたお金が届いており、取引先に置き忘れていたことがわかる。動揺した文七だが事情を打ち明けると主人は長兵衛に感銘を受け、番頭を使って探し出す。やっとのことで家を突き止め、文七とともに届けに行く。
主人はお金の返却の後「表に声をかけてくれ」と言う。すると、そこにはきれいに着飾った長兵衛の娘が立っていた。50両を吉原にも返し、着物を買い与えて娘を連れてきたのだ。その後文七と長兵衛の娘は結婚し「文七元結」という小間物屋を開く。
これが噺のあらすじで、人情噺の代表作とされている。
ポイントは50両と共に起動する「利他」であり、根っからの善人でもない長兵衛が大切な50両を、たまたま出会っただけの若者にあげてしまう。しかも名前も告げずに去ってしまう。その動機は何なのか。この噺の勘所であり、最大の謎である。
解釈A・・文七への共感。文七の主への忠義に感じ入ったこと、文七の正直さ、まっすぐな生き方に心を動かされたというもの。
解釈B・・江戸っ子気質。なかなか説明がつかないが、あえて明確な理由を提示しない語り手が多い。「俺も江戸っ子だ」「見殺しにしては目覚めが悪い」などの言い回しで、行動のあり方から「江戸っ子」の気風の良さを表現しようとするもの。
古今亭志ん朝はA、Bを重層的に使い分けるが、立川談志は明確に解釈Bで押す。談志曰く「世の中、美談と称し、長兵衛の如く生きなければならない・・・などと喋る手合いがゴロゴロしてケツカル。大きなお世話だ。」
では長兵衛の行為はどう捉えているのか。ここが贈与を考える重要なポイントだと思っている。
共感には危うさがある。頑張っているから助けてあげよう、そんな気持ちが援助や支援の動機付けになると、例えば思い障害のある人はこう思うはずだ。「共感されるような人間でなければ助けてもらえない。」人間は多様で複雑だからそういったことが苦手な人もいる。だとすると問題は深刻だ。「こんな夜更けにバナナかよ」大泉洋さんが主演した映画だ。主人公は進行性筋ジストロフィーを抱えており、一人では体を動かせない。しかし彼はできるだけ自立性を好み、強烈な生きる意志を持ち、ボランティアとぶつかりながら生活する。深夜にボランティアを起こし、「腹が減ったからバナナ食う」と言い出し、ボランティアも腹が立つ。しかしそんな衝突の中から相互理解が生まれていくというストーリーだ。
話を戻すと、実は晩年まで談志も答えが出ていない。落語とは「人間の業」の肯定だとし、人間眠くなれば寝るし、分別ある大人が若い娘に惚れることもあれば、飲んではいけないとわかっていても酒を飲む。それが人間なのだと。従って忠臣蔵では討ち入った四十七士はお呼びでなく、逃げた残りの人物が主題となるのだ。そういった平凡の非凡を抱きしめ、人間の愚かさから良識や両親の重要性があぶりだされるのが落語だとしている。
だとすると長兵衛の行為は何なのか?
長兵衛がお金を差し出した時点では長兵衛は未来を予知するすべはなく、未来への投資ではない。文七に「金毘羅様にでも拝んでくれ」としか言えないほど無力だった。拝むこと、祈ること。長兵衛に宿ったものは何なのか。無力の長兵衛には自分の力を超えた「他力」の存在がある。
著者は外語大出身なのだが、ヒンディー語には与格構文というものがあり、例えば「私は嬉しい」と言う場合、ヒンディー語では「私には嬉しさが留まっている」という言い方になり、「風邪をひいた」も同様で「私に風邪が留まっている」という言い方をする。すべてがこの言い回しなのではなく、「私は会社員です」などの場合は主格構文になる。自分の意思や力が及ばない現象については「与格」が使われるとされている。「私はあなたを愛している」という主格もあれば「私にあなたへの愛がやって来て留まっている」という言い方をすることもある。
この「与格」のあり方は多くの名人、達人にさりげなく語られている。彼らの多くは技の極意を問われると、自己の能力を語るのではなく、「やってくる力」を語る。染色家で人間国宝の志村ふくみ氏は繰り返し「色をいただく」という言い方をする。色を染めたいと思ってこの草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にならなかった、本に書いてある通りにしたのにと。私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから、どんな色が出るか、それは草木任せである。ただ私たちは草木の持っている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのだ。美しさを求めても逃げていくから、正直にやるべきことをしっかり守って、淡々と仕事をする、すると結果的に美しいものができるあがる。このように与格的な主体の在り方を表現している。
では「利他」と与格の構造はどのようにかかわっているのか。たとえばボランティアの本質を考えた時、ボランティア従事者たちがしばしば「身が動く」という言葉を使うことにヒントがある。彼らは災害が起こると、何か考える前に身体が反応するという。ボランティアに行っちゃうとう表現の方が近いかもしれない。そこには意義や価値などを考える間もなく、良くも悪くも「情動」によるものであり、「意義」などを先行させることは非ボランティア的で、考えれば考えるほど褒められたい、認められたいという動機がせり出してくる。
そうなってくるとその行為が利他的に見えても、本質的には利己的である。最終的な目的は、その行為を通じて得られる承認にあるからだ。文七元結での長兵衛はいずれ自分に幸福が訪れることなど夢にも思わず50両をふいに渡しちゃうのだ。この行動は与格的であり、意思の外部によって引き起こされた衝動、業としか言いようがない。
ここで利他と利己のパラドクスについても触れたい。この言葉は反対語、そう認識されている。しかしどうだろう。例えばある人が評価を得たいと考えて、利他的なことを行っていたとすると、行為自体は利他でも目的は利己であり、端々にいい人と思われたいという下心が見え隠れし、「あの人、褒められたくてやってるだけだな」と途端に胡散臭く見えるわけだ。
近年、大手企業から社会貢献、SDGsという言葉を耳にするが、この取組を見て「なんと利他的な素晴らしい企業なのだろう」と思うだろうか。もちろん活動自体は素晴らしいが、しかしどこかで結局は企業のイメージアップのために行っているだけで、それって企業の利潤追求の一環だよね、という冷めた見方につながってしまう。
他にもありがたくない利他がある。潰瘍性大腸炎の人が食べたいものはたくさんあれど食べると激しい腹痛や下痢になる、そんな状態で外食に行き相手が「これおいしいですよ」と勧めてくる、でも食べれないので断る。しばらくすると「少しくらい大丈夫なんじゃないですか?」「いや、申し訳ありません」(相手が病気のことが知っている場合でもこんなことはある。)だんだん変な雰囲気になってしまう。相手は本当においしいから食べてほしいと思ってはいるのだろうが、受け手にとっては迷惑なのだ。そして相手は自分の思いが届かず次第に気分を害し、徐々に利他の中に潜んでいた利己が顔を出してくる。なんならなんとかおいしいと言わせたいと。
このエピソードは利他が支配に変わる危険性を示している。GIFTという単語には「毒」という意味がある国もあるようで、例えば高価なプレゼントをもらった際に、こんなにいいものをくれるなんて!という喜びのしばらく後に、こんなに良いものをもらったのだから何かお返しをしないと、という気持ちが湧いてくるものだ。しかしその時に金銭的な余裕がなく十分なお返しができないと、それがプレッシャーとなり自分の中の負い目となり、なぜかそれが負債のような感覚になってしまう。これは与えた側がもらった側に対して優位に立つという現象であり、ギフトの毒だ。
では理想的な利他とはどのようなものなのか。ここでNHKのど自慢の伴奏を見てみたいと思う。のど自慢には時々音程もリズムもばらばらな高齢者が登場する。もちろん不合格なのだが、なぜかほっこりした気持ちになる。この場面の主役はもちろん歌い手なのだが、伴奏者に注目してほしい。バックミュージシャンたちは歌い手を支配しようとしない。リズムが狂っていてもその人のリズムに合わせるように演奏し、イントロも歌いだしが早くなってしまったらその歌詞の部分まで瞬時に追いかけて演奏をしている。この「沿う」伴奏こそ利他的なのだと思う。そう、利他は時に目立たないのだ。利他において重要なのは支配、統御から距離を取りつつ、相手の個性に沿うことで主体性や潜在能力を引き出すあり方なのではないだろうか。
さきほどの食事の例はあきらかなありがた迷惑なのであって、与え手が利他だと思った行為も、受け手にとってネガティブな行為であれば、それは利他とは言えず、むしろ暴力的な可能性もある。自分の行為の結果は所有できない。あらゆる未来は不確実で、そのため与え手はその行為が利他的であるか否かを決定することできないということだ。
あくまでもその行為が利他的なものと受け取られた時にこそ「利他」が成立するのだ。学校の先生が教え子に言った何気ない一言。それが数年、あるいは何十年経って教え子との再開で言われる「先生のあの時のあの言葉おかげで・・・!」まさにそういうやつである。時には発信者と受信者の間に長いタイムラグが生じることもある。しかしあくまでも利他は受け取られた時に初めて発動する、逆に言うと私たちは他者の行為を受け取ることで、相手の利他を主体に押し上げることができると言えよう。与えることで利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出すのだ。
つまり発信者にとって、利他は未来からやってくるものなのだ。行為をなした時点では、それが利他なのか否かはまだわからない。大切なのは、その行為がポジティブに受け取られることであり、発信者を利他の主体にするのはあくまでの受け手側であるということ。この意味において私たちは利他的なことを行うことはできない。一方受け手側にとっては時制が反転する。あの時の一言、のように利他は過去からやってくる。当然である、現在は過去の未来なのだから。
すると我々はあることに気付く。利他の発信者が場合によっては既に亡くなっているケースがあるということだ。そう考えると利他は死者(先人)からやってくるということに気付くことができ、弔うことこそが世界を利他で包むことになるのだ。
私が私であることの偶然性。ハーバード白熱教室で有名なマイケル・サンデルは「実力も運のうち-能力主義は正義か-」という本を出している。運も実力のうち、ではなく「実力も運のうち」としている。なぜか?
難関大学に合格した者は自力で頑張って入学したと考える。もちろんそうなのだが、その手助けをしてくれた両親、教師はどうだろうか?もっというと生まれもった才能、素質は?自分の生まれを自分で選択することはできず、たまたま裕福な家庭に生まれ環境が整えられたことだってある。サンデルはこの「所与性」への認識こそが自己への過信を改め、謙虚さを生み出すことにつながると言う。そしてそこに社会の共通善が生まれ、行き過ぎた格差を是正する「正義」が生まれると主張しているのだ。つまり私の存在の偶然性に目を向けることで、他社へと目が向き連帯意識の醸成につながるのだと。
そう考えると現在というのは「問題が未解決のままに眼前に投出された状態」と言える。極端な話こんなことをして何になるんだ、何も期待するなというのかとなってしまう。しかし「あの時の一言」を因果の物語としてとらえた時、現在的なる偶然性の生産的な意味は、未来から倒逆的にしか理解できず、「今」の意味は未来から贈与されるのであって、そのためには「今」を精一杯生きなければならない。偶然を受け止め、未来に投企していく。その無限の連続性が私たちが生きているということなのであろう。
長兵衛はあの日、あの時間にたまたま偶然にあの橋を渡ったのだ。この偶然性を全力で受け止めたことが50両を差し出すことにつながり、未来の幸福につながった。長兵衛はなぜ利他の循環を生み出すことができたのか。それは偶然通りかかった橋で、「身が動いた」からなのだ。
「考察」
「情けは人の為ならず」という言葉のちっぽけさ、さえ感じてしまう面白い内容でした。ただし後書きにもありましたが、おおくくりに他力本願というのは違うというのはおわかりいただけると思います。例えば「窯変」とは陶磁器を焼く際に炎の性質等により色彩光沢が予期しない色となることだそうですが、これは単なる偶然なのでしょうか。ずぶの素人が同じことをしたからと言って「窯変」にたどり着くことはないでしょう。つまり裸の偶然はないということです。自分を偶然を呼び込む器としてとらえ、その器に利他を呼び込む、そんな世界観なのでしょう。これはすなわち引き寄せの法則と通じるものがあると思います。今までは引き寄せ的なことを聞くと「うそつけ」と思っていましたが、この本をまとめ自分のレポート読み返すとなんとかなく理解でました。
先日イベントごとのバイトの学生さんにおいしい南魚沼のお米をプレゼントしたのですが、後日「おしかったです」と連絡があるかな、などと思ってしまった自分がいたのを大いに反省しています。
ご自身のお立場に置き換えて参考になるところがあれば幸いです。