【カワシの掌編小説】「10倍粥」
YouTubeチャンネル「Kくんの純文学読書会」の企画「小説を書いて公募に送ってみた」で書いた小説をアップいたします。
コンテストのテーマは「もの食う話」で、規定枚数は原稿用紙5枚でした。
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「10倍粥」
作:カワシ
自由が丘にお店を構えて4年。俺は生き延びてきた。
中学卒業と同時に弟子入りしたイタリアンレストランから、主席卒業と免許皆伝をもらい独立した俺は、自分の感性とイタリアンの哲学と日本の食材を、現代美術の壁画のように爆発させるべく店を作った。
独立の勢いそのままに編み出した、「鰻と瀬戸内レモンのアラビアータ」を有名なフードライターに取り上げてもらい評判となったので、オープンして1年目から客も取材も絶えなかった。
当然モテた、が、俺の中身よりも俺の名を先に知ってから寄ってきた女を信用するなんてことはしない。
中学からの知り合いで、俺の修行時代から店に来ては飯を食ってくれたりと何かと応援してくれた園子。
この女性となら、と俺の店「ら・俺」開店3周年記念の翌日に入籍した。
店で忙しくしている分、園子には寂しい思いをさせている自覚はあるが、概ね幸せな毎日を過ごせているはずだ。
来シーズンに出す新作や上手くいった試作品は必ず園子の口に入るように意識している。
毎回お決まりのように「うむ。美味しいぞよ。」と謎のお爺さん言葉でリアクションをする。
園子と俺との間に、花音が生まれたのは半年前だ。
昼も夜も自宅マンションを空けることが多い俺は、仕方がないことだが、花音の成長を見逃すことが多い。
初めてのゲップ、初めての寝返り、初めておばあちゃんが作った手編み靴下を履かせてみせたときも、見たのはすべてスマホの画像越しだった。
さみしいと言いたいわけではない。
でも自分が不在の中で何かが変化し前に進んでいくことは初めての経験だった。
家族というチームの一員のはずなのだけれど、俺だけがはぐれた牧羊犬のような気分だった。
園子は、子供を母乳で育てることに熱心で、自分の体から抽出される栄養分で乳児を育てることに大きな責任感とプライドを感じているようだった。
花音が生まれてすぐはあまり母乳が出なかったことを気にしているのかもしれない。
母乳マッサージに通い毎日の食事にも神経を使っている。
一度、まだ母乳が出づらい時期に、園子が絞り出した母乳を俺が誤って捨ててしまったことがある。
ダイニングテーブルの上に哺乳瓶が置いてあり、いかにも残り物のようなオーラをまとっていたので、花音が残したものだろうと勘違いした。
俺はそれを流しに捨て、哺乳瓶を洗い、消毒用の桶に他の哺乳瓶と同じように沈めた。
なんとか確保した母乳が下水に流されてしまったことに気づいた時の園子の顔と声と怒りようは尋常ではなく、人間は本気で怒るとこんな顔になるのかと、怒られている時は、妙に冷静だったが、時間が経つにつれ、ミスの大きさが自分の中でぐんぐんと肥大した。
思い出しただだけで心臓と肺が潰れていく感覚を覚える。
花音が生まれてから俺は何かの役に立ったことがあるのだろうか。
むし邪魔者なのではないだろうか。
おむつを変えたことは一度もないし、花音が夜泣きする時も一晩中抱っこしているのは園子だ。
代わろうかと一度言ってみたことはあるが、明日仕事でしょうむしろ寝てくれた方が助かるよ、と言われ、それからは目をさますこともない。
自分の子供に対して、衣も食も提供できない俺に父親としての存在価値はあるのだろうか。
ーーー
「おかゆ作ってくれない?10倍ね、10倍。薄くするんだよ?育児サイトに書いてあったから。塩とか柚子とかトリュフとか余計な工夫はいらないぞよ。」休業日で自宅にいた俺に園子はオーダーをしてきた。
昨日、花音は生後半年を迎えていた。
このタイミングで離乳食を始めようと園子は決めていたらしい。
「あーあ、また成長しちゃったな。ママはさみしいアンドうれしいだなー花音ちゃん」
「また」成長したという感覚がいまいち掴めないではいたが、俺は台所に向かった。
ボウルに大さじ2杯分の白米を計量し、水道水で軽く水洗いをする。
ザルはどこだ、シンクの下か。
米の水を切り、ソースパンに米をいれ、300ccの水を注ぎ入れる。
このコンロはどうやって火をつけるんだ?
自動調理モードなんていらないだろ。
火をつけ、中火に調節する。
ゴムベラが欲しい、慣れないキッチンで料理なんてするもんじゃない。
沸騰するのを待ちながらゆっくりかき混ぜる。
待ってろよ花音、俺が最高の10倍粥を作ってやる。
ミシュラン審査員もびっくりのとろとろとしたおかゆだ。
きっと君の人生で最高のおかゆになる。
そうか、花子が初めて食べるおかゆなのか。
そうか、初めて食べる料理なのか。
そうか、園子はこの機会を俺にくれたのか。
お湯が沸騰してきた。火を弱めよう。
(了)