柿の木も高齢者かな
毎朝、家の柿の木に小鳥が集まり、ふたりのニャンコがうるさい。
この柿の木、65年前にこの地に越してきた時に植えたものだ。当時は下水施設も無く、工場で大量の水を使い、それを吸い込ませるための穴を掘り、その横に植えた。その時から、ある程度の大きさがあったと記憶してる。この柿の木の下で、数羽のアヒルが休んでいた。
まだ田舎に暮らしていた頃、父の実家の庭に太くて大きな蜂屋柿の木があった。大きな砲弾型の渋柿だが、この渋を抜くとトロリとして甘くて、食べ物の中ではもっとも好きなものだ。田舎のジイチャンが柿が好きだからと、ここに来る前の所にも小さな実の生る渋柿の木を植えてくれた。子供の頃に頭に吹き出物が出ていたので、ドクダミ(十薬)も一緒に植えてあった。
ここに来た時に、直ぐに食べられるようにと甘い富有柿を植えた。もちろんドクダミも一緒に。ドクダミは雑草として、塀に沿って一面に拡がった。この柿の木、蜂屋柿の渋抜きに比べると甘柿だが味が落ちてた。成長と共に実の数はしだいに増えていった。
23歳の時に母が47歳で亡くなり、その年から渋柿に変わった。近所の人も取りに来ていた甘い柿だったのに、その年から渋柿に変わり渋抜きをしないと食べられなくなった。柿に詳しい人が、別の種類の渋柿を持ってきて植えた。残念ながら、渋柿を植えても甘くならなかった。
70リットルの大きなビニール袋に半分くらい入れて、空気を抜いてから工場で使用していた炭酸ガスを入れると、1週間くらいで固いまま甘くなる。木の上に鳥用に30個程度残し、それでも毎年300個以上の柿がなって、大勢に配っては喜ばれていた。渋抜き後の柿は、店の物よりも甘くてサッパリした味だった。
ちょうど母親の33回忌の頃から、元の余り美味くもない甘柿に戻ってきた。甘くなると、渋抜きをした物に比べ、甘さが足りなくて食べなくなった。
そろそろ身の回りの整理にと、数年前に柿の木とビワの木を人の背丈ほどに切り詰めた。その後、両方共にグイグイと枝を伸ばし始め、元気づいてきた。柿の木は枯れてしまうかもと言われたが、元の木に戻ったように枝を伸ばしてきた。
柿の木もビワの木も、ほぼ自分と同じ歳で、一緒に高齢者になったようで、実の数は少ない。実は少ないが、大きくて甘くなった。この地に来て60年以上も一緒に過ごしたが、人はこの世を去ったあと、柿の木はどうなってしまうのだろうか、などと考えることがある。
かつて分家した叔父が亡くなった後、見事な仏壇に位牌が置かれた。落ち着いた暗い茶色の肌合いの色に、黒い筋模様が通った見事な物だった。仏壇屋が言うには、直系が1m近い柿の木から作られた物で、黒檀や紫檀よりも珍しい、木の渋が独特な模様に仕上がるそうだ。
我が家の柿の木はまだ40cmくらいな物だ。いったいあと何年かかれば1mの太さになるのだろう。
父の実家の横に、3人でも抱えられないほどの太いカヤの木が
あった。江戸時代に入り、家の堀の水を抜き、田にした時には既に太いカヤの木が有ったと記録されていたそうだ。それほど長く生きていても、人が家を建て替える時には、わずか1日で切られてしまう。
太くて高いカヤの木と、太くて広く枝を広げた蜂屋柿、その周りを鶏や犬や猫や馬と遊んだ頃が懐かしい。