こがね虫から始まったピアノ
わたしは、3歳から約10年ほどピアノを習っていた。
3歳の時、家のそばの個人ピアノ教室に初めて行った日のことを今でも覚えている。
ドキドキしながらピアノに触った。
ぼんやりと見える鍵盤。
「これを押すと音が出るの?」
おそるおそる指先で触れてみると、小さく音が鳴った。
綺麗な音色。
家族以外の人に初めて教わるドキドキ感。
ぼんやりと覚えているその日の光景は、ドキドキして、恥ずかしくて、でも嬉しくて…そんな優しい記憶のなかにある。
歌が好きだったわたし。
ピアノを習い始めるとすぐに、「まずはピアノではなく、子どもの歌のコンクールに出たら?」という先生の提案で【こがね虫】という歌を練習してコンクールに応募した。
この歌のセレクトは先生。当時3歳のわたしの声質とこの歌が合っていると感じたことが、この歌に決まった理由だったそうだ。
短い歌詞だけれど、毎日たくさん歌って、練習して、カセットテープに録音した。
【こがね虫】を歌うたび、母はわたしにご褒美のようにみずあめを食べさせたものだから、わたしはすっかりみずあめが大好きになった。
賞をもらうとかはできなかったけれど、【こがね虫】を歌った日々、甘いみずあめ、カセットテープへの録音・・・そのどれもが楽しくて、わたしはあっという間に歌やピアノ、音楽が好きになっていった。
すぐにピアノの練習をしたい気持ちをぐっとこらえて、歌で遊ぶことを楽しんだ。こうゆう楽しみ方をすることで、音楽の楽しさを肌で感じ、甘い記憶と共に大切な想い出になったのだ。
【こがね虫】で音楽とピアノ教室の先生が好きになった後、いよいよピアノの練習が始まった。
わたしは弱視で目が見えづらいから、練習するときには母の協力と、練習する際の工夫が必要だった。
ピアノの楽譜は小さい。コピーすると五線の間隔が広がるし、とても見えづらくなる。
そこで母は、わたしがピアノを習っていた10年間ほとんどの楽譜を手書きで大きく書いてくれたのだ。
10年も習っていたら楽譜の数はすごい量だったはずだ。
発表会の楽譜をもらったらすぐに、長い曲の楽譜も大きく書き写してくれた。
母は、ピアノの楽譜のときもそうだが、他の【赤毛のアン】のような児童書も、文字だけでなく絵も丁寧に書き写してくれた。文字だけや楽譜だけだとシンプルになるけれど、可愛く色鉛筆を使って絵も描いてくれたから、ぬくもりを感じることができて、それがすごく嬉しかった。
その母が大きく書き写してくれた楽譜を受け取るところから、わたしの練習は始まった。
まず、わたしは楽譜を手に取って覚えられるところまで覚える。
覚えたら楽譜を前に立てかけて弾いてみる。何度も何度も弾いて、楽譜を見なくてもいいくらい弾いてみる。
それからまた楽譜を手に取って覚えて弾いてみる。その繰り返しをして、最後まで楽譜を見ないで弾けるようになるまで、ときには泣きそうになりながら練習した。
目が見える人ができる、楽譜を見ながら弾く、ということがわたしにはできないから、最初に集中して覚えてから弾く、という方法をとるしかなかった。
教室に行って、先生に教えてもらうときも、楽譜を見るときは手に取って教えてもらうようにした。
簡単な曲ならすぐに覚えられたけれど、ピアノを続けるうちにだんだんと難しくなるので、発表会の曲などは長くてとても大変だった。
嫌々ながら練習したこともあった。もうやめてしまおうかと何度思っただろう。
でも、綺麗な音色になったときの喜び、一曲を思ったように弾けたときの喜び、発表会で沢山のお客様の前で弾けたときの喜びが大きくて、10年続けることができた。
ピアノを弾くのは楽しいばかりではなく、泣きながら練習した思い出もあるけれど、見えづらくても一生懸命に練習を重ねれば、それなりに綺麗に弾けるようになったことが、わたしにとって大きな自信につながった。
楽譜を覚えて、時間をかけて、一曲を弾けるように努力したことで、暗記力がついた。
発表会で楽譜に頼ることのできない状況でピアノを披露したこと、またぼんやりと客席が見えるだけのステージに一人で立ったことで、人前で何かを披露することに対する度胸がついた。
おそらくはっきりとは会場の人が見えないだけでなく、シャイな性格だったわたしだから、ピアノの発表会の経験がなく成長していたら、大勢の人前で何かをすることは怖くてとてもできなかったのではないかと思う。
ピアノは特別上手ではないけれど、何か成果あったかなと考えた時、やっぱりピアノを続けていたおかげで、その後の人生で経験できたことも多かったと思っている。
習ったものが特別上手になったとか、表彰されたとか、そういう目に見える華やかな成果じゃくても。
小さいときに頑張ったことは、きっと人生のどこかで役に立っている。
わたしは目が見えづらかったり、耳が聞こえづらかったり、何かしらハンデがある子どもにこそ、色んな経験や挑戦をさせてあげてほしいと思う。
色んな経験をすることで、なんでもやってみようという気持ちを持てるようになると思うし、その後の人生で何がプラスになるかわからないからだ。
大変だったけれど、ピアノを続けてよかった。
心からそう思える。
そしていま、息子もピアノを弾いている。
赤ちゃんの時から、歌ったり、ピアノを触ったりすることが好きな息子。
3歳のころ、幼稚園の先生がピアノを弾くのを見て、自分からぼくもピアノを弾きたい!と言ってきた。
去年は初めての発表会で、先生と一緒に【たなばたさま】と【ちょうちょ】を弾いた。
今年は、初めて一人でステージに立った。誕生日の日。息子が生まれたその時間に、彼はピアノを弾いていた。
「来年も発表会出たい?」
わたしの問いかけに、息子は元気よく答えた。
「絶対出る!」
見えづらい子どものピアノをサポートしてくれた母との練習の日々を思い出しながら。
今度は見えづらい母であるわたしが、息子のピアノの応援団になろうと思う。