夜明けと死とネガティヴィティ
僕は根っからの悲観主義者、ネガティヴ思考なので人生に関しても負の感情の方が印象に残っているし、負の感情の方がよっぽど好きだ。
ポジティブな人間がいると、「無理をしているのかな」とか考えてしまうくらいだ。
自分と他人は違うと分かっているはずなのに、自分自身としてしか生きてこなかったのでそういう思考になるのだと思う。
そんな僕でも、時々とても自分の「ポジティブに生きようとする人間の性」みたいなものを感じる時があって、それが「他者理解」に一役買っている気もするし僕をますますネガティヴにしているとも言える。
僕がもがいて必死に何かやろうとしている横で、サラッとなんでもこなしていく人間がいる。
もしかしたらその人間も裏で血反吐を吐くようなとんでもない努力をしているのかもしれないし、していないかもしれない。結局人間は目に見える範囲でしか判断ができない。
ネガティヴ思考で良かった事がある。それは自分自身があまり傷つかなくて済むということだ。
常に傷つくこと、傷つかれることを考えているので敏感なのである。
自分が傷つくことには特に敏感だ。人を傷つけていないとは言い切れないのでそこは自信がない。
傷つく前兆や傷つけられそうな人間をまあまあ早く見抜いて、離れる事ができる。
予防線を張れるというか、もし傷つけられても「まあ仕方ない」という逃げの姿勢を取れるからとも言えよう。
基本的にポジティブとネガティヴは分かり合えないと思う。考えの根本が違うのだ。違う宗教の人たちが分かり合えないのと一緒で、一つのものに対する見方が180度違う。
ネガティヴだった事しかないのでネガティヴ側からの意見ばかりになるのだが、ポジティブな人を見ると「生きにくそうだな」と思う。だからと言って何をするでも何を言うでもなく、ただ「そういう人もいる」と納得するだけの作業だ。
色々な人がいる。きっとポジティブにはポジティブなりの大変な事があるんだろうけれど、でも少しだけ羨ましくなるときがある。
あんな風に自分を肯定できたら生きやすかっただろうな、とか。
そういうことを考えるときだけ妙に優しいとも言えない風が吹く感覚になるのが不思議だ。この感情は何という名前なんだろう。
人生は矛盾だらけだし、不平等だ。
そういう風に世界はできている。
昔は、「嬉しいことと哀しいことは半分ずつだよ」という言葉を鵜呑みにして生きていたが、そんな純粋な感情はもうとっくの昔にどこかへ失くしてしまった。
嬉しいことが無いわけじゃない。細かいことを挙げていけばたくさんあるのだろうけれど、それでもやっぱり哀しいことの方が多い。
自分の存在意義についてばかり考えている。
なぜ生まれたのか、なぜここにいるのか。そういうとき、行きつく答えはいつも一緒だ。
「死ぬために生きている」
僕は死ぬために生きている。
みんなと違う考えだということに、気づいてはいた。みんなは楽しむために、生きるために生きている。でも自分は?
「死」に憧れを抱いている。ほのかな恋にも似た感情かもしれない。
偏った思想だということは理解している。
命を大事にしろ、とか、生きたい人に失礼だろう、という意見が投げられることも予想できる。
生きることに権利があって、なぜ死ぬことには権利が無いのだろう。
生と同様に誰にでも平等に訪れるはずの死をなぜ怯えるのだろうか。
僕にとっては、生きていて来るかもわからない幸せを求めるよりも必ず来る死の方がよっぽど信頼できるものであって、安心できる存在なんだと思う。そこで、みんなとの認識がずれてしまう。
悲観主義にも色々な種類があると思うが、僕は本当に悲観主義者なのだろうか。死に対して悲観的かと言われたらそうでもない。むしろポジティブだ。人生という長いものを見た場合にはネガティヴに分類されると思うが。
そんなことをぐるぐると考えていたら、いつの間にか夜が明けた。