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支援級希望の葛藤

「何故支援級希望なのか」
「支援級希望のキモ」
「支援級を希望する理由」

そんな仮題ばかりを増やしながら、
数週間が経ちました。
本当は、
明確に自信をもって書きたかったんです。
でも、全然書けなかった。
ということは、
わたしの中に明確な答えがないということなのでしょう。

長男の就学相談では、
支援級を希望しています。

でも
本当に長男にとって
最善の選択なのかは
数年後振り返ってみないと
わからないのだろうと思います。


療育通いのジレンマ


長男が療育通いを始めてから、
幾度となく思ったことがあります。

それは、
「どうかこの子がいじめられませんように」
ということ。

わたし自身の偏見

療育に通うということは
まったくもって悪いことではないし、
むしろ良いことがたくさんありました。

家庭と保育園以外に
信頼できる大人がいること、
安心できる場所があること。

それに、
定型発達であったとしても
療育を受けることで
マイナスになることはありません。

だから、療育に行ったことに
一切の後悔はありません。

けれども、
やっぱり療育を受ける子は
少数派です。

そのせいか
わたしは「療育に通っている」と、
声を大にしては言えません。
本来は、「スイミングに行ってる」と
同じテンションで言ったっていいはずなのに。

「療育が必要な子」という負い目

療育に行っていることで、
他のご家庭から嫌がられるのではないか。
あの子はおかしいと思われるのではないか。
保育園の先生も
本当はうちの子を嫌がっているんじゃないか。

そんな疑心暗鬼に苛まれながら、
長男を育ててきました。

もちろん、
療育を理由に差別するような輩は
こちらから願い下げです。

とはいえ、簡単に割り切れない部分もあります。

長男に療育が必要なことは事実で、
彼が誰かに迷惑をかけているのではないか
クラスに悪い影響を及ぼしていないか
先生に必要以上の負担を強いているのではないか
そんな心配が常にあります。

「療育を受けている」というレッテル

長男はとても良い子です。
優しくて、好奇心旺盛で、物知りで。
わたしよりずっと賢いし、
アイデアマンで、交渉上手です。

そんな彼の良いところが、
「療育に行っている」という
たった1枚のレッテルによって、
隠れてしまうのではないか。

実際の彼の姿ではなく
「障害」というものへの思い込みで、
彼を判断されるのではないか。

そんな不安が常にあります。

支援級への不安

支援級に入級することへの不安も、
恐らく根源的には同じだと思います。

お友達からの視線

保育園以上に
自他の違いを意識し始める年代において、
普通級と支援級は明確に別の部屋です。
小学校では、
「学校生活の上で
お手伝いが必要な子が過ごす部屋」と
説明するそうですが、
実際、子どもたちがどのように受け止めているのかはわかりません。

子どもには子どもの社会があるし、
単純に思ったことが口から出やすい年ごろでもあります。

いじめのつもりがなくとも、
「お前障害なんだろ。支援級行ってるんだから」
と言われる日は、
遅かれ早かれ来るだろうと思っています。

本人の理解と受容

長男自身は小学校をとても楽しみにしています。
「お勉強が楽しみなんだ」と目を輝かせる彼は、
恐らくドラえもんや妖怪ウォッチで見たような
教室に並んだ30程度の机のひとつに
自分がいることを思い描いているでしょう。

ところが、実際入学してみたら
自分だけ違う部屋で勉強することになる。

そこに疑問を抱くのは当然でしょう。

そして、
「ぼくは他の子とは違うのか」と思い至るのも
当然の流れだと思います。

その時、
親の立場から、どう声をかけていくべきなのか。

認知のゆがみを助長しないか

例え普通級で入学したとしても、
テストの点数や足の速さで
自他を比較することはあるでしょう。

そして、上には上がいて
自信を失うこともあるかもしれません。

そういう経験の中で、
自分自身を知り、認めていくことが
成長していくことだと思います。

でも、支援級に入ることで、
自尊心を傷つけたり
劣等感を感じるような機会を
積極的に作ることになるのではないか
という不安があります。

学校の決まりと合理的配慮の矛盾

学校の決まり

支援を受けるには、
規定の半分の時間を支援級で過ごすことが条件です。

学校からは、
「国語と算数は比較的個人的な学習であり、
生活科や音楽などは同級生と一緒に活動する場面が多い。
できるだけ影響を少なくしながら
半分の時間を確保するという観点から
国語と算数で抽出する」と、
説明を受けました。

つまり、
たとえ国語と算数の授業を
何の問題もなく受けられたとしても、
その時間は支援級で過ごさなければならないのです。

長男のニーズ

長男の困難を想定しているのは、体育です。
ですが体育の授業の際、
支援級の先生が必ず配置される約束はありません。
補助員の先生になる場合もあると聞いています。

国語と算数を犠牲にして
支援級に入っているにも関わらず
一番困る場面に、
信頼関係がある支援の先生が
必ず来てくれるわけでもない。

果たしてこれを
合理的配慮と言えるのでしょうか?

合理的配慮の矛盾

「体育の時間が苦手だから
誰かわからないけど別の先生に来てもらう為に、
国語と算数を別室で受けるんだよ」と
説明されて、納得いくでしょうか。

わたしは納得できません。

視力が低い人が
「メガネを使うなら、ヘルメットもかぶりなさい」
と言われているのと同じくらい、
おかしな話だと思います。

社会で暮らしていくための妥協点

ただ、いくら合理的配慮が権利でも、
学校にだって
出来ることと出来ないことがあるのは当然です。

先生の数は限られているし、
支援が必要なのはうちの子だけではありません。
支援を求めるということは、
要求がすべて叶うという意味ではないのです。

足が不自由な人のために
駅には必ずエレベーターがありますが、
駅によって場所が違ったり、
ホームの端っこの方にあったりするのは
構造上どうしようもない場合もあります。
だからと言って、
ホームに何機もエレベーターを設置したら、
人の流れを阻害したり
ホームの面積を圧迫してしまう。
それはそれで問題ですから、
「最低でも1台は設置する」というところで
手を打っているわけです。

納得できなくても、
提示された条件を天秤にかけて
選択していくしかないのです。

それが人と一緒に
社会で暮らしていくということだから。

それでも、支援級を希望する

いじめや本人の受容の問題、
合理的配慮への不条理感を抱えながら、
それでもわたしが支援級を希望するのは、
いくつかの理由があります。

個別対応の必要性

まず大前提として、
長男には個別対応が必要だと考えるからです。

長男は
保育園でのダンスやリトミック、
運動会などへの参加を嫌がります。
ですが、運動能力がないわけではありません。
家で放っておくと
ひとりで歌ったり踊ったり、
でんぐり返ししていることもあります。

でも、
「みんなと一緒に」や
「誰かが見ている前で」ということが苦手です。

しかも、
シュンとするならまだしも、
にこにこしながら
「やりたくない」とか
「恥ずかしい」とか言うので、
サボってるとか、
手を抜いていると誤解されやすい。

先生にはそこを理解していてほしいのです。

彼はやりたくないと思ったことはやりません。
正確に言えば、やれません。
サボっているのではなくて、
どうしてもできないんです。

加えて、わたしとしては、
どうしても嫌なのなら、
無理にやる必要はないと思っています。
それよりも、
やらないで済むように回避する技術の方が
ずっと大切だと思います。

だから、
先生には
「やらなくてもいいよ」
というカードを持った状態で
交渉して欲しいし、

長男には
「やりたくないから見学していていいですか」と
相談する力をつけていってほしい。

その上で、
やる、やらないの
妥協点をすり合わせていってほしい。

でも、そういう対応は
個別に丁寧にやり取りをする必要があります。
クラス全体を見なければならない担任ひとりでは難しいでしょう。
だから、支援の先生が必要なのです。

学校を好きになって欲しい

ふたつ目に、
長男には学校を好きになって欲しいと思っています。
学校が安心して楽しく過ごせる場所であってほしい。
それは、これまでの不登園の経験から思うことです。

彼は保育園を何週間も休んだある日、
「〇〇先生に会いたいな」と言って
突然登園しました。

保育園を年少から不登園になるような人ですから、
小学校だって、不登校になることは
当然あるだろうと思っています。

その時に、
「行きたいな」と思える場所、
「会いたいな」と思える先生がひとりでもいれば、
戻っていける力のある子です。

だから、
彼の居場所のひとつとして、
ゆっくりと学校に慣れていくこと。

そして、
安心できる場所を見つけることを
最優先したいと思っています。

普通級スタートと支援級スタート

「迷われているなら、
まずは普通級から始めて、
あとから支援級へ移行することもできますよ」と
学校の先生からは提案されました。

これに対しては
きっぱりと「NO」の姿勢です。

何故なら、
普通級でしんどくなった時点で、
「学校はしんどい場所」と
インプットされてしまうからです。

例えば、
1年生は支援級で楽しく過ごせて、
2年生で普通級に移った後しんどくなったとしたら、
3年生から戻れる可能性はあるかもしれません。

でも、
1年生が普通級でしんどかったら、
2年生で支援級になって学校に行けるでしょうか?
一度しんどい思いをさせられた場所に、
「安心して過ごせる場所にしたよ」と言われたからと言って、
そう簡単に行けるとは思えません。

加えて、長男の脳の特性か、
ネガティブな情報の方が
ポジティブな情報よりも
鮮明に引き出される傾向があります。
数か月前、数年前のケンカでさえ、
つい昨日の出来事のように話し始めることがあります。

だから、最初に良いインプットをするためにも、
1年生は支援級から始めたいのです。

学校に行く意義

実際のところ、
無理してまで学校に行く必要はないと思っています。

学校時代と大人時代のギャップ

学校というのは本当に特殊な空間です。

去年何度も見かけた運動会の練習風景は、
どう見たって軍隊でした。

長男には絶対できないと頭を抱えましたが、
一方で、やる必要も感じませんでした。

何故なら、
等間隔に並んで
笛の合図に合わせて動かなければいけない場面が
大人になってどれほどあるでしょうか。

少なくともわたしにはそういう機会はないし、
あったとしても
回避する術を持っています。

お勉強は学校じゃなくてもできる

お勉強だって、
好きなことをやっていれば
いつか点と点が線で繋がる瞬間が来ます。

例えば、恐竜が好きなら
名前を憶えているうちにカタカナの練習になるし
肉食と草食の違いに気付いたり
生息地から地図や気候に気付いたり
海外の論文を読むために
外国語が必要になる場合もあります。

好きというモチベーションで続けていけたら、
いつかは包括的につながっていくはずなのです。

学校教育の上では、合理的にやっていくために
教科を分けたりテストをしたりする必要があるのでしょうが、
詰め込み教育は面白くないし、
どうせすぐ忘れます。

もちろん
知っていてマイナスになることはないし、
基礎はとても大切です。

教科ごとに丁寧に教えることで
いつか点と点がつながった時に、
より深い理解になることもあるでしょう。
だから、学校教育に意味がないとは思いません。

でも、学校だけに学習を依存する必要もない
とも思っています。

学校には行けたら行ってほしい

親のメリット

それでも学校に行ってほしいのは、
ひとつはわたしが長男と離れる時間が必要だからです。

親子と言っても、
ずっと一緒にいるのは息が詰まります。
仕事だって進まないし、
ぼーっとする時間も取れません。

学校に行ってくれれば、
とりあえず居場所はわかっているし
お昼ごはんも食べてきてくれます。

物理的に長男と離れることは
わたし自身がヘルシーに子育てするためにも必要です。

本人のメリット

学校に行くことで
長男自身にメリットがあるとしたら、
家庭以上の知識や情報、
面白い人と出会うチャンスがあることでしょう。

夫とわたしの持っているリソースなんて
たいしたものではありません。
ふたりとも人体については多少詳しいですが、
知らないことの方が圧倒的に多いです。

外に出ていくことで
新しいものに触れられるし、
色んな人と知り合うこともできます。

親としては、
大人になるための修業として
人間関係のいざこざであるとか、
うまいかわし方であるとか、
そういうことも経験してきてくれるといいなとは思っています。

学校は義務ではない

とは言え、
学校に行くことは
義務ではありません。

長男は教育を受ける権利がありますが、
=学校へ行く義務ではないし、

わたしは長男に
教育を受けさせる義務はありますが、
=学校へ行かせなければならない
ということではありません。

わたしは彼に教育を受ける
手段や方法を探し続ける義務がありますが、
それを受けるかどうか
選ぶ権利は彼にあるのです。

お勉強についても
色々な経験についても、
学校はその選択肢のひとつでしかない。

そのことは、
ずっと念頭に置いておきたいと思っています。

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