
令和の御大典に思う
私たち日本人が、当たり前に日本語を話すのと同じように、日本と天皇は不可分であり、天皇と神道は一体です。
切り離すことは、あり得ません。
神道は、「いわゆる宗教」ではありません。
なぜなら、神道には教祖・教典・教義・戒律など、宗教の基本要素が無いからです。
敢えて申せば、神道は、大自然が私たちに与え賜う恩恵への深く厚い感謝の念と、厳しく容赦ない試練への平伏すべき畏怖の念とを体現する、「祈りという行ない」であり、換言すれば、がむしゃらに生かせていただくことと、刻々と死にゆくこと、それらそのものです。
神道の源流を遡れば、遥か縄文時代にあったと思われ、弥生時代から古墳時代にかけ、神道は、時の移ろいとともに、自ずと然るべく、ただただ、ゆっくりと形成されてきたのであリましょう。
神道は、日本人の精神と文化の基底に拡がる、言わば素地=グラウンドであり、その全面に、天皇という有りて在わす御方の光明が、遍く照り亘っています。
この機構そのものが日本という「文明体」であり、結果的に、いわゆる「(日本という)国」を形成しているのです。
古来、大陸や半島を経由して輸入された様々な「文化」そして「仏教」、西洋あるいはその他の地域からもたらされた「文明」や「学問」、近代において本格導入された「キリスト教」や西洋由来の「民主主義」「社会制度」「価値観」、ごくごく近来においては「多様性」など、もろもろの「新しいフォーマット」の数々を、一切まさに渾然一体、秀でたものを優れたものとして進んで受容してこられたのも、前段に述べた『日本という「文明体」』ならではの快挙です。
私たち日本人の、大いなる誇りと申せましょう。
日本を「和」と称することの意味が、そこにあるのです。