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曲を人にみたてることとインタラクションについて

表現とはなんだろうか。
こんなところでぼんやり問うてみたところで、むろん容易に答えはでない。

気がつけば、音楽を教え始めてから10年の月日が経過している。ど素人の状態から始めたレッスンがここまで長く(もちろん、か細くではあるとしても)続くとは当時のわたしも予想していたんだかしていなかったんだか、どうにも思い出せないが、とにかく、当初から変わらぬポリシーとして持っているのは"講師は仲人である"(そして仲人に過ぎない)という姿勢だ。

音楽を教え始めた時、わたしは専門機関で声の訓練を受けたことがないどころか音楽のことを何も知らない、ど真ん中直球ストレートのど素人だった。
なぜそんなど素人が音楽を教えることになったのか、その成り行きについてはまた別のところでお話するとして、理論、具体的なテクニック、解剖学的正当性、世の中の音楽の流行、そのいずれにも疎かったわたしは、"曲と生徒さんとの仲介役"を買って出た。

なぜ仲介役というスタンスを選択したのか。
グループレッスンを指導していたところから、ソロの指導や個人レッスンに切り替えていく段階で顕著になっていったのは、原曲のアーティストやイメージに縛られている人の多さだ。

素晴らしい楽曲やパフォーマーに感銘を受ける、自分でもそれを歌いたいと思う、ここまではいい。しかし、いざ声を出すときも、歌うのは自分自身だというのに、脳内で再生されている(であろう)原曲に忠誠を誓ったまま、違和感を感じつつもその場から身動きがとれない人が多いように感じた。曲を、原曲のパフォーマーから切り離し、生徒さんと曲、という関係性に立ち返ってもらう必要があった。
わたしに歌を習った人ならば一度は聞いたことがあるセリフだと思うが、歌を聴いてくれる人は、原曲とあなたの歌を逐一比較しながら聴くわけではない。むしろ原曲を知らない人だっているわけで、"原曲に忠実にやろうとするがあまり苦しんでいるあなた"は、原曲を知らないその人たちからみれば"なぜかわからないけどやたら苦しそうに歌っている人"となる。

わたしには、好きな歌手がいない。好きな曲はたくさんあるけれど、それはそのパフォーマーが好きというよりは、曲そのものの構造や言葉に惹かれている場合がほとんどだ。よって、原曲を踏襲、再現しなければというような責任感や義務感がハナから薄かった。それが功を奏した。Mariah Careyを技術で凌駕せずとも、教えられる、と思っていた。曲をよく知り、生徒さんの声を、声にならない声も含めて、よく聴けばいい。

曲は人ではない。何をそんなバナナは果物であるみたいな話を、と思うかもれないが(あんがい調べてみると実は野菜だったりして)、曲は人ではなく、歌い手は人なのだ。素晴らしい曲であろうがなかろうが、表現するのは人。人あっての曲なのだから、こちらの心に寄り添ってもらえばいい。
こんな歌詞、今のわたしには高らかに歌えない、と思うなら、高らかに響かない声や音に変えればいい。コードの流れが不自然に感じて歌いにくいなら少し手を加えよう。べつに腹式呼吸なんてしなくていい。胸式呼吸でしか伝わらない表現もある。音程だって必ずしもとらなくてもいいではないか。低めにとったほうが素敵な場合だってあるじゃない。大切なのは、コントローラブルであるか否か。正確なリズムやピッチの追究はボーカロイドに任せよう。わたしたちは人間にしかできない表現を目指そう。

こうして、何も正解のない、一見何でもありなレッスンが始まった。
模範とすべきものがなく、講師も答えを持たないので、自ずと、生徒さん自身が"決断"を重ねていかざるを得ない。
この曲のどこが好きなのか、なぜ好きなのか、どこが嫌いなのか、なぜ嫌いなのか。どうしたらありのままでいられるのか、自由になれるのか。初めはそんなこと聞かれましても…という顔をしていても、問いを重ねていくうちにおもしろいことが起きる。無意識下に追いやられていた希望や嗜好が、曲を鏡にして立ち上がってくるのだ。へえ、この音からあなたはそんなイメージを想起するんだね。どうしてなんだろうね。同じ音なのに、捉え方が人によってほんとうに違う。

たとえばコード一つとっても、話を聞いていくと十人十色のイメージが立ち上がる。sus4に海を感じる人、add9に群衆をみる人、M7の透明感にめろめろな人。

わたしは曲そのもののもつ構造や意図をじっくり分析して、翻訳する。音楽という言語でこいつはこう主張しているらしい、と。そしてその上で、あなたはどう思う?どうしたい?それはなぜ、を聞き出して、しっくりくるようマッチングさせていく。たまに、仲良くなれそう、と思ったのに意外と気の合わない曲もいるだろう。それもご愛嬌。
こういう曲があって、こんなところがあなたにぴったりだと思うんだけれどちょっと会ってみない?素敵だけど髪型がちょっと変?だったら少し変えてもらいましょう、と。まさに仲人だ。こうして、お節介な親戚のおばさんのように、曲と人とを結んできた。

ここまできたので。どこまで?という話だが、もう一つ、レッスン開始当初から貫いているスタンスについて書く。

世の中には歌のレッスン、と称して、アーティストの物真似の練習をさせる教室がたくさんある。録音されたトラックに歌を"乗っける"練習をさせる教室も。ど素人ということでまずはどのように教えるのかという市場調査を多少は行ったが、出会ったどの方法もピンと来なかった。
ど素人なりに、音楽の基礎を成すのはインタラクションに違いない、という直感があった。そして、"レッスン"はただの練習ではなく、"音楽"そのものであるべきだ、とも。

上記のようにCDに合わせて歌うレッスンは、言うまでもなく一方通行でインタラクティブではない。わたしにはその方法が"音楽"たり得るとは思えなかった。どんなに講師や生徒が一生懸命でも、CDは歌の人の呼吸を読んだり合わせたりしてくれない。虚しいというかむしろ滑稽に感じた。なぜ死んでいる音…というと言い過ぎか、焼き付けられて化石となった音に、生身の人間が一生懸命合わせなければならないのか。音楽は、もっともっと自由で気ままなものにもなり得るはずだ。
そういうわけで、弾けもしないけれど、歌を教えるならば絶対"ピアノの生伴奏"。これしか選択肢はなかった。

初めはしばらくピアニストの方に伴奏をお願いしていた。みなさん、わたしの無茶な注文にほんとうに一生懸命応えて下さった。でもやはり無茶な注文なので無理があった。あとは当時わたしの性格が今よりたいへんざっくりしていたことも関係あるかも知れない。譜面に忠実に弾けることの価値が、自由で気ままな表現を目指しているわたしにはいまいち理解できなかった。目の前で歌っている人がより自由になれるように、ときには譜面や原曲を踏みつけて欲しかったのだが当時はそのことを巧く伝えられなかった。

そんなこんなで、いよいよピアノが弾けもしないわたしが伴奏もするはめに…ことになった。音楽を知らない歌の先生兼ピアノの弾けない伴奏者の誕生だ。泣く子も黙るしかない。
コードも何もわからないところからスタートだった。譜面も線を数えないと読めない。なんともかなしい。歌えるけれど弾けない音が頭の中で鳴っており、声に出してみてから同じ音を鍵盤の中から探すという、できの悪い発掘作業のような伴奏が始まった。
ん〜とかあ〜あー♪とか歌いながら、同じ音を鍵盤のなかから必死で探した。仮にわたしが鍵盤に興味を示し始めた幼な子であったなら、これはたいへん微笑ましい光景であろう。しかし現実にはわたしは10代後半の音楽講師だった。関係者の皆さまにおかれましては軽い世紀末の到来である。その節は誠に申し訳ございませんでした。
四苦八苦しながらもなんとかたどたどしく伴奏ができるようになっていった。人間やればなんとかなるものだ、なってなかったけど。レッスンのなかで、ピアノがうまく弾けると拍手が起きた。ほんとうにいま思い返しても涙が出てくる。とにかく人には恵まれていた。

月日が経ち、さすがに少しはピアノが弾けるようになってきた。音源かコードさえあれば突然ふられても伴奏くらいはできるように。超絶ソロは無理だがへっぽこソロならおまかせください、と言っても果たしていいだろうか。

どんなに素晴らしい演奏でも、音源と人との間にインタラクションはない。
どんなにへっぽこでも、人と楽器と人である限りはインタラクションがある。
これが事実である限り、わたしはどんなにへっぽこでもピアノを弾く。

ピアノが下手だと、他にどうしようもないので歌の表現が豊かにならざるを得ない。ひとつずつ、友だちと呼べる曲、知り合いと呼べる曲が増えていき、曲を鏡にして自分の姿が見えてくる。どこにいるのか、これからどこに行きたいのかを一緒に考えていく。それがわたしの役割だと思うのだ。お節介な親戚のおばさんもどきとへっぽこピアノ。でもあなたにしかできない表現が必ずそこに立ち上がる。

#エッセイ #音楽家のエッセイ #レッスン #歌

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