『A4サイズのセンチメンタル Review』 ココロの処方箋⑶
一時期、予備校バブルと呼ばれた時代がありました。世間から少し遅れて、1990年代後半から、2000年代初頭くらい。ごく短い期間でしたが、予備校講師の多くが、高級外車を乗り回し、毎夜、酒池肉林の贅沢三昧。僕も例外ではなく、当時は飲食費だけで、日に10万円以上ということもザラでした。そんな時代が長く続くはずもなく、急激な少子化の影響で、大半の予備校が雇用人員(講師)を削減。単価(概ね時間給です)も右肩下がりで、多くの予備校講師が緊縮財政を余儀なくされました。中には、当時の感覚が忘れられず、生活そのものが破綻した講師たちもいます。
幸いなことに、僕は渡りに船の如く、こんな僕でも使って戴ける中小規模の予備校に恵まれましたので、何とかギリギリの体で生き長らえることができました。僕にとってのそんな救いの神のひとつに、小規模ながら、堅実に経営を続ける京葉学院という予備校がありました。千葉の外房線というスーパーローカル線に乗って二時間強。茂原(確か、小倉優子さんの地元です)という、片田舎の駅前のテナントビルの最上階に教室がありました。
そこにいたのが秀ちゃん(仮名)という男の子です。ジャニーズ系を彷彿とさせる色白のイケメンで、何より生来的なやさしさが顔面からも、話す言葉からも伝わって来る、抜群の好青年でした。
彼には中学2年生の妹さんがいましたが、白血病を抱えて、入退院を繰り返したためか、学校も休みがちで、「最近、特に元気がない」と、僕が秀ちゃんから聞かされたのが、夏期講習も後半に差し掛かった頃でした。
ほどなく彼や、彼のご両親に、最も辛い未来予想が伝えられます。医師の口から。「余命、半年」の宣告でした。
「どうすればいいでしょうか?」
「僕は妹に、どんなことをしてあげればいいでしょうか?」。
秀ちゃんが僕に向けた質問は、あまりにも難しいものでした。
元々、兄妹仲もよく、特に妹さんはイケメンで、やさしいお兄ちゃんのことが大好きだったようで、周りの友達からも、よく羨ましがられていたそうです。その分、秀ちゃんの妹さんに対する想いも格別なものがあったでしょう。
重い病気を抱えて、一日中、自宅で過ごすことの多い妹さんにしてあげられることって何だ?僕も、秀ちゃんも毎週のように相談し、案を出し合いました。
僕の発案は、とにかく楽しい話を聞かせてあげること。「学校でこんなことがあった」とか、「予備校にこんな変なヤツがいる」とか、あるいは授業中に僕が提供する余談をそのままリピートするのも良し、と。「でも、ちゃんと話のオチをつけることを忘れないで。とにかく笑わせることが、最大ミッションだからね。」と、秀ちゃんに提案しました。
併行して、当時はまだネット環境が今ほど充実していなかった時代でしたので、「キレイな景色を見せてあげようよ」と、僕は代々木ゼミナール兼、早稲田塾 世界史講師であった盟友、山城静吾が自費出版していた「永遠の藍(あお)」というタイトルの写真集をプレゼントしました。
追記めいた話になりますが、偉大なる男、山城静吾を紹介させて下さい。山城は世界史講師を務める傍らで、世界各国の海辺の写真を撮り貯めて、その挙句、写真集にして出版するという変わり者でしたが、僕の三十余年の予備校講師生活の中で、僕が最も敬愛した人物で、それは今も変わりません。業界トップの位置に君臨しながら。「モノを教える人間が、モノを作れないとは何事だ!」と、突然、その恵まれた立場と職を捨てて、長野県に土地を購入し、農家としての道を歩み始めます。お互い同郷で、且つ、同い年の照れからか、直に連絡を取り合うこともなく、結果、その後の消息、動向についても知り得ませんが、とにかく偉大な男であって、そんな彼が撮った写真ですから、これが一枚残らず、素晴らしいものだったのです。正直、心が洗われるような写真集でした。だからこそ、部屋に閉じこもり気味の秀ちゃんの妹さんには、喜んでもらえるんじゃないかという、僕の勝算からの提案でした。
成果のほどを僕が直に見届けたわけではありませんが、妹さんは、相当、喜んでくれたようで、「お兄ちゃん、ここ行きたい!」「ああ、モルディブね。いいね。キレイだよね。」と、未来時制の話も弾んだようです。写真という間接的な媒体ですが、きっと大いなる自然には、人の心を浄化する力や、人に希望を取り戻させる力があるのでしょう。僕と秀ちゃんの「妹を笑顔にする計画(プロジェクト)」第一弾は、見事、成功を収めたようでした。
それからも毎週のように、僕と秀ちゃんのプロジェクトは続きました。突然、脈絡もなくデビュー当時のXジャパンのメンバーのパイナップル状に逆立てた髪型(予備校の講師室をVO5のスパーハードスプレー臭でいっぱいにして。僕も秀ちゃんも、予備校の責任者に思いっ切り怒られました。)で妹さんを驚かせたり、バリバリのギャルメイクに、女友達の制服を借りて、女装で帰宅(秀ちゃんは自転車通学でしたので、電車に乗って、周囲の好機の目に晒されながら帰るリスクはありません)させたりと、毎週、それこそ笑いのデパートメントストアさながらに、僕も秀ちゃんも真剣にそのプロジェクトに取り組みました。
そして、いよいよクリスマス時期がやって来ます。もちろん、衣装は定番のサンタクロース。なぜか背中にトナカイのぬいぐるみを背負って、右手にはクリスマスケーキ。キャンドルの火を消さないように、極力、顔をケーキから遠ざけて、「ホワイトクリスマス」を歌いながら部屋に入る。左手には、これまた定番の赤い包み紙のラッピングに、サテンっぽい光沢の緑色のリボンをあしらったクリスマスプレゼント。中身はスケッチブックと、ソニプラで売っていたイギリス製の36色のクレヨンです。元々、妹さんは絵が得意だと聞いていたので、論議の紛糾もなく、すんなりと決定しました。
でも、「その日」は来なかったのです。妹さんはクリスマスを目前に控えた12月18日の夜。幼い14年間の生涯を静かに終えたのでした。
翌日、予備校の方に欠席連絡と、事情説明の体で、お母さんから電話があったそうです。別の予備校の出講日だった僕は、京葉学院の責任者から電話でそのことを知らされました。秀ちゃんの悲しみがどれほど深いものであるか、想像することが怖くて、僕は途方に暮れました。ただ、確実に「妹を笑顔にする計画(プロジェクト)」の話し合いが、もう二度と行われないであろうことだけを、僕は噛みしめる他ありませんでした。
年が明け、いよいよ受験臨戦状態に入る1月半ば。秀ちゃんは予備校に戻って来ました。普段と特段、変わった様子もないような表情で、普通に授業を受けてから秀ちゃんは講師室にやって来ました。その時の話題の中心は受験校のスケジューリング。第一志望は法政大学。そこからトップダウン的に第二志望、滑り止め、と詳細に日程を決めて、秀ちゃんも一安心したような表情でした。
それでも、秀ちゃんは僕が、もう一つの話題に触れることを待っていたようでした。僕は、敢えてその核心に触れないように、「クリスマス大作戦(勝手に名称を付けました)、残念だったね」と。秀ちゃんも、その趣旨を汲んで、「百回くらい練習して、歌詞も完璧に覚えたんですよ」と答えました。いや、秀ちゃんが求めているのは、そんな他愛もない会話じゃない。僕の役目である秀ちゃんの感情にスイッチを入れることを、僕は避けることはできませんでした。「泣いていいんだよ、秀ちゃん。秀ちゃんは、立派なお兄ちゃん、できたと思うよ」。予想に違わず、この言葉が起爆剤となって、秀ちゃんは泣きました。時間にして2、3分もあったでしょうか。その間、僕から秀ちゃんに掛ける言葉はありませんでした。何も思い付くことができなくて。
存分に泣けたのか、秀ちゃんは最後に「ありがとうございました」と言って、講師室を出て行きました。その後ろ姿を僕は見送る他なく、誰かが誰かを守るなんて、やっぱりできやしない、って確認するのが精一杯でした。
受験シーズンを終え、京葉学院主催の合格祝賀会が開催されると、そこに秀ちゃんは来ていました。受験前とはまた違う、少し大人びた表情で、「妹の分まで毎日を大切に生きます」と言い切った表情は、まだ拭い切れない哀しみに満ちていました。それでも、歯を食いしばって前を向こうとしている秀ちゃん。そして、「妹のことは絶対に忘れません」と宣言してくれた秀ちゃんを、僕は心から愛おしく思いました。
その後、秀ちゃんがどんな大学生活を送って、どんな仕事に就いているか、僕は知り得ません。それでも、もし、秀ちゃんが既に結婚して、家庭を築いていたなら、そこは、あたたかい団欒と笑顔に満ち溢れているに違いないなんて、勝手な確信を僕は抱いています。そして、僕もそんな秀ちゃんと懸命に取り組んだプロジェクトの一員であったことを、僕は何より誇らしく思っています。哀しみの中の、ほんの少しだけの救いの欠片(カケラ)として。
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