科学と実在論

Github pagesからの転載です。こちらも論理展開が変ですがそのまま転載します。

私は、科学はその対象についての実在論を前提にしている、と主張したい。もう少し詳しくいうと、ここでは科学とは「それが実在を前提にしている対象についての合理的な探究」と主張する。たとえば物理学は物理的自然の合理的探究である。同じように古生物学は過去の生物の歴史についての合理的探究である。

みずからの研究対象が実在していると考えるのは、哲学的に問い詰められて変なモードに入りでもしない限り、科学者として当然の態度である。たとえばファインマンは繰り返し数学的な理論ではなく「物理」を理解することが重要である、と問いていた。これは、理論による現象の説明よりも、実在する物理的対象を理解することが重要だ、という主張と受け取れるだろう。ファインマンはファインマン物理学において、現象主義や実証主義を批判しているのである。

物理に比べると、数学の対象は実在しているとは考えにくいと一般には考えられるだろう。しかし数学においても多くの数学者は数学的対象が存在する(プラトニズム)というの立場をとっている。たとえばゲーデルや竹内外史、小平邦彦はプラトニズムの立場をはっきり主張しているのである。

逆に言えば、なにかが実在しないとされた時点で、それは研究対象から放棄される。たとえばエーテルやフロギストン、瘴気などもそうだし、絶対空間や確定した位置と運動量といったものもそうだろう。相対性理論や量子力学では、物理学者は現象を説明するための理論を変更しただけではなくて、なにが実在するか、という考えそのものを変えたのである。

ところでこれは「科学的実在論」ではない。ここでいう科学的実在論とは、科学が探究している、例えばグルーオンなどは実在する、という論である。しかし、私の主張は「科学はその対象が実在していることを前提にしている」というものであって、実際にそれが実在しているとは主張しない。私の主張は、たとえばフッサールのエポケーのように、科学をそこで考えられているものの実在を仮定せずに解釈することは、科学の適切な解釈ではない、ということである。したがって、私は、たとえば物理学が対象にしているものが実は実在しないかもしれない、という可能性を受け入れる。今の物理学理論がまちがっていて素粒子は存在しないかもしれない。あるいは、時間や空間そのものが存在しないかもしれない。物理学がそのような結論にいたることはあり得る。その場合は、時間や空間は存在しないと私は考えるだろう、物理学者自身そう考えるだろう。そうなったら物理学自体が今とは非常に違ったものになるに違いない。しかし、いまは時間や空間は実在すると物理学では考えらているし、だとすると物理学が言わんとすることを解釈するときに、時間や空間は実在するという主張を、あるいは世界そのものを、世界定立を停止して「括弧入れ」してしまっては、科学の解釈を適切に行うことはできない。フッサールは科学の対象があたりまえに実在すると仮定してしまうことは、科学の営みを理解することを阻むと考えているようであるが、全く逆なのである。

さて、このように考えてくると、分野ごとに科学の方法がことなり統一的な理解が難しいように思える理由が理解できる。科学の方法が分野ごとにことなるのは、対象としている実在の性質が異なっているからである。物理学が仮説→予測→検証の繰り返しで進む、とよく言われる。これは、それが科学的な態度であるからではなくて、物理学が物理的対象の普遍的な記述を目指すからである。普遍的な記述である以上、それはあらたにあらわれた物理的実在についても成り立たなければならない。逆に、分類学では理論の適切さは予測能力ではなく、既知の事実をより体系的に説明できることで測られるであろう。これは分類学の基準が物理学と異なるからではなくて、分類学が扱うのが現存の生物種だからである。このように分野間の基準の違いは扱う対象の違いとして説明できる。

私のような立場に立つと、パラダイム転換といわれる現象についてもより良い説明ができる。パラダイム転換は、その学問が前提にしている実在が変更されることである。例えば、特殊相対性理論はエーテルや絶対時間・空間の存在が不要であることを示した。するとエーテルなどの存在にもとづいていた過去の物理学理論は意味をなさなくなる。正確にいうと、意味があると見做されなくなる。というのも、それが語っていた対象が存在しないことがわかったからである。こう考えると、クーンのいう共約不可能性が生じる理由がわかる。過去の理論と新しい理論では語っている対象が違うのだから、翻訳しようがない。だからといって、パラダイム転換が不合理なプロセスになるわけではない。物理学者が合理的な議論によってこれまで物理学が語ってきた対象が存在しないことを発見した、ということに過ぎないのである。

この小論では、科学はその対象が実在することを前提としているし、その前提を排除して科学を適切に解釈することはできない、と主張した。だから、科学は実在論的に解釈するべきであって、いわゆる超越論的な解釈はどう転んでも成り立たないのである。

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