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ポジティブで何が悪い

改めて自分ポジティブ寄りだなと思った。
落ち込むよ、恥ずかしい思いした時に記憶から消えてくれとか沈むときあるよ、あるけど最終、いい経験だったな、おもろネタやなってなるのよ。

でも人生で本当に辛い経験ってしていないんだよね私。家族とか学校とか恋愛とかでそこまで悩んでこなかった。
辛くて落ち込む経験なんてないに越したことはないんだろうけど、それを乗り越えた人たちの、人としての厚みがうらやましいと思ってしまう。(ごめんなさいの気持ち有り)

友人4人で、ちょうど2:2でこの経験値の違いが現れているなと、最近気づいた。
2人は言葉では現れないものの、人を真っ向から純粋には信じていなさそうな、良いとも悪いとも受け取れる事象を穿って*悪く捉える感じとか、なんか言葉で表現しづらいけどそういうスタンス。
私ともう1人は出来事や物事を捉えるとき、"ましょうがない次がんばろ"とか"楽しそうやね、やってみよっ"とか最終明るい方向に話が着地することが多い。多分人に裏切られたこともなく、別に大きな失敗もしてなく、後悔することもそんなになく、っていう生き方だから、わざわざひねくれて捉える必要もないというか。

どちらとも良さがある。
日常的に会話する場合は後者がいい。
絶対ポジティブな方向を見れる人といる方が気持ちが楽だし、結局がんばろうってなれる。
ただ、何か落ち込むこと悩むことがあった時に、深く寄り添ってくれそうなのが、比較してみると前者なんだよね。人の痛みやどん底が分かっているから、その頼れる芯みたいなのが形成されているイメージ。それがあるかないかで、トラブルが起きた時のどっしり構える感、安心感が違う気がする。

そして何より、この前者から見た私たち後者が、"能天気"と思われていそうで辛いっていうのもある。多分それなのかもしれないな、この劣等感みたいなもやもやは。
どうせ上手く人生まわしてきたんでしょ、周りに優しくされてきたんでしょ、自分の思い通りにならないことなんてなかったんでしょ、って。被害妄想すぎるかもしれないけど。
あとその辛さを味わった人たちの本当の心の痛みには寄り添えないのと、寄り添おうと必死になる自分もダサいなって悲しくなったことがある。ほんと、その差って埋められないんだなぁって思った。

ポジティブで悪いことないはずなのに、こういう引け目に感じる部分で、自分人として何か足りないんじゃないかって劣等感になって、変な悩みを持っている私です。
ただ、これから本当に何があるか分からないわけだし、盛大にやらかす可能性もあるわけだし、今が幸せなら幸せで全然良いんだよ。人生一度きりで"辛い思い経験しないと"って思うのも変な方向の目標なんよ。いいんだよ自分落ち着け。

いや、でもまって。自分の夢を叶えるために具体的に行動したり、人とぶつからないようにコミュニケーションとったり害を与えないよう注意したり、ちょっと悲しいことも笑い話にして自分で自分を落とさないようにしたり、しているんだよ。
周りにいる人や偶然の出来事でトラウマみたいな経験する可能性も全然ある。たまたま私には今のところそんなに深い傷を負うことなくここまでこられているだけ。みな平等に可能性はあると思っている。
または、ネガティブに捉えるハードルの高さが、私は低い可能性もある。逆になぜこの出来事をわざわざ悲しいように、めんどくさそうに、嫌そうに受け取る?と思う時もある。捉え方次第では?と思う瞬間全然ある。(ま、その捉え方が、それまでの経験則に基づいているのだから、話がループしてしまうのだが。)
私はこれからもポジティブ変換していく。全部してやる。最後自分を守るのは自分なのだ。

*穿つの意味が"物事の本質を的確に言い表す、らしい。(ネガティブ思考寄りと言って良いのか分からないが)その友人2人は、物事や人の良いところしか見ない私たちポジティブ人間に対して、負の部分もちゃんと教えてくれる、こういう悪い可能性もある、というように、ふわふわ浮いてしまう楽観的思考を現実に引き戻してくれる感覚がある。
そういう意味では、物事の本質をよく見抜いているなと驚かされる時が多い。そのあたりでも、やっぱり頼れる安心感はあるよね。
負すぎて引っ張られたくない時もあるし、そもそも価値観が違うから会話が噛み合わない時も多いけれども。^^
ま、どちらの良さもあるんだから補い合えば良いだけなんだよな。

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