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病気にならない世界を生きる


#創作大賞2024 #エッセイ部門


「病気にならない世界を生きる」という題で書いてみようと思います。何と大外たことを…と自分でも思いますが…
健康な高齢者を身近なところで介護し看取った経験がありまして、そこで感じたことや思ったことを書きました。
読んでいただければ幸いです。



私は在宅介護の経験があります。母が99歳の時から介護が始まり看取りをしたのは103歳で、4年間の介護生活でした。それまでの母は身体の動きが少し不自由というくらいで、精神的にも肉体的にも自立に近い状態でした。

母は病気とは無縁で健康でしたから、世間一般の介護生活とは違っているかもしれません。生きている人は皆、死に向かって歩いていますし、高齢化社会の現在、高齢という梯子に足をかけている人は多いです。母の介護を通して様々な場面を体験し、生きるということに本気で向き合ったように思います。


世間では、生きていれば病気になるのは当然のことであるとされ、病気になることを前提とした話がいろいろと聞かれますね。いわゆるマスコミでもほとんどのメディアは、生きていれば病気になるというスタンスで報道をしているように感じられ、友人知人と話しをしていても、死を迎えるには何か病気にならなくてはいけないと病気になることを受け入れ、覚悟を決めているように見えるのですが、私はそこにちょっとした違和感を覚えるのです。

80代後半になった母を我が家に連れてきて一緒に住み始めました。母は長生きしましたので思いがけず長い同居生活になりましたが、健康な母は、93歳までお箏のレッスンに通い、プールで歩行訓練をし、図書館も好きで、初めて図書館で本を借りた時にはカウンターで「おいくらですか?」と聞いた話は家族みんなの笑い話です。母の誕生日にはひ孫たちのハッピーバースデーソングの後、ケーキのろうそくを吹き消そうと胸を膨らませて一気に吹いていたのを思い出しますね。力強かったです。

母を近くで見ていると、この世には病気にならない生き方があるのだとわかり、病気にならないで死ぬことが出来ることも知りました。病気でなければ死ぬときに苦しみはありません。



骨の髄まで神道に染まっていた母が、どのような考えを持ち、どのような世界に住んでいたかを、大まかなところではわかっていました。神道ですから神様に感謝が基本ですが、それは今流行りのスピリチュアルにも近く、でも、もっと深くて私の知らないこともあり、母はそれを信じる強さをもって考え、言葉を選んでいましたね。
世間一般で言われている「思考は現実化する」ことを母は以前から知っていたようなのです。

「思考は現実化する」という言葉はよく聞かれますが、先日、AI(Copilot GPT-4)にこのように聞いてみました。
「思考が現実化するということを、二重スリット実験を例に挙げて説明してください」と。
以下はAIの回答のほんの一部ですが、載せておきますね。
「これは、観察者の存在(つまり、観察者の「思考」または「意識」)が物理的な現象に直接影響を与えるという、量子力学の奇妙な現象を示しています。つまり、観察者の意識が現実を形成するという考え方を支持しています。」
AIはネット上のあらゆる情報に通じていますから、何を聞いてもしっかりと応えてくれて頼りになりますね。


99歳の母が何かの拍子に倒れてひざを痛め、歩くのが困難になり、そこから在宅介護が始まりました。介護をスムーズにするためにケアマネさんから教えていただき、毎日朝と夕方、一日2回のヘルパーさん、週に2回の訪問リハビリ、月に2回の往診(終末医療が専門の女医さん)などの体制が組まれました。母はボケも病気もなく、歩けない以外は健康でしたので、人の出入りの多い賑やかで明るい介護生活でしたよ。

私はヘルパーさんに「1日に1度は母を笑わせてください」とお願いしましたので、母とヘルパーさんの笑い声がキッチンにいる私の耳に聞こえてきて嬉しかったですね。母とヘルパーさんの笑い声が朝と夕方に聞こえてくるのですよ… それも毎日です。笑う門には何とやらですから、ヘルパーさんたちには感謝の気持ちでいっぱいです。今日は何の話をしようかなどと、話題を考えながら我が家に来られたヘルパーさんたち、面倒なことだったでしょうが、母とヘルパーさんたちは共に楽しいひと時を過ごしたと思います。今でもその笑い声を思い出すと微笑んでしまいますね。
在宅介護の元気な高齢者として、母は101歳の時にNHKに少しですが顔を出しています。二度出ているのですよ。

このような母を見ていたおかげで、高齢になっても病気に縁のない生き方があるのだということ、そして、そのような生き方は自然なことであると同時に魅力的でもあり、私もそのように病気にならない高齢者として生きていきたいと考えるようになりました。今ではその思いは強くなっていて、そのように生きている自分の姿がしっかりと見えていて、そう生きることを自分で決めているのです。



病気知らずの高齢者であっても、あるときになれば身体は死を意識し始めて、徐々にではありますが身体は死に向かって舵を切り替えます。その身体のシフトは人によって異なるでしょうが、そのシフトはちょっとした体調不良のようなもので、身体は小さな異変を幾度か起こし、健康であれば高齢者本人はその体調の変化に気づくのです。

身体がだるいと母が言ったときも、身体がだるくて身の置き場がないような感じがすると話したときも、身体は死を意識したシフトダウンをしていたようで、母は身体のちょっとした変化を感じとっていたのでしょう。自分の身体の状態を常に意識していれば体調の小さな異変に気づくことが出来るのですね。

ほとんどの人が病気になると言われている今の社会であっても、自分の意識一つで自分の思いに近づくことができ、病気とは縁のない暮らしができるかもしれないと分かれば、自分の思考や意識について見直していけば良いのです。今の大きな時代の変化に、この先の見えない時代の荒波を乗り切っていくには健康が土台になりますから、もし、少しでも身体の不調を感じているならば、考えや意識を見直せばよいだけです。

「私は健康である」と意識すれば良いことになりますね。私は意識に焦点を当てた考えをするようにしていまして、それは意識を意識しているようなことで、常にこれができているわけではありませんが、気が付いたときにはそのようにしているという程度のことで、自分の意識について思いを巡らしていると新鮮な感覚を覚え、なかなか気分が良いのです。



今のこの時代の地球上に住んでいる我々が共に生きているということは、私たちは同じ環境を共有していて、同じ世界に生きていて、今のこの社会構造という大きなドームの中に、みんなが一緒にいるようなものですね。

そして、その大きなドームの中には小さなドームがたくさんあって、一人一人が自分の小さなドームを作っていてその中にいるのです。自分専用の小さなドームを自分の思考で作り上げているのです。自分の思いや考えで私たちは自分の世界を作り上げていて、それを真実の世界だと信じ込んでいて、その世界に住んでいるのです。

家族で同じ家に住んでいても、考え方が違えば信じている世界が違いますから、家族といえども別の世界を生きているようなもので、何を考えているかによって、そして、何をどのように意識しているかによって、自分のドームが出来上がってくるのですよね。
思考や意識は、物事の物理的な影響においては決定的に大きな役割を果たしていると言われてもいます。




母の最期の時のことです。
普通の穏やかな呼吸がだんだんと激しい呼吸になっていき、その荒い呼吸がしばらく続いたら、今度はまただんだんと静かな呼吸へと変わっていきます。お箏のCDを大きな音でかけ、私もそれに合わせて歌ったりハミングをしたり、母の手を握り、胸や腕をさすっていろいろと話しかけると、母がそれを聴いているのが伝わって来て、私も全神経を集中させて話をする… そして、ある時ふと、「さあ、これからあの世に旅立っていくから… 今までありがとう」と、そのようなメッセージを母から受け取ったと感じ、今にして思えば、どうしてその時にそう思ったのかは謎ですが、母がそのように伝えているのだとわかりました。
テレパシーのようなものかもしれませんね。二人とも普通の状態ではありませんから、意識が拡張していたのかもしれません。

そして、母の呼吸が弱くなっていき、気が付くと息が止まっていました… そこで私は、「あら~、ちょっと早いわよ~ 105歳まで生きる予定でしょう~」と大きな声で言うと、再び母の呼吸が始まったのです… そうよ!その調子よ!と私は感無量でした。そして、何回か呼吸をした後で、母は大きく息を吸って終わりでした。最期は大きく息を吸うのです。息を引き取るとはこのことです。母は息を引き取りました。

今でもときどき母を思い出すことがあり、それは母の誕生日であったり命日であったり、嬉しいことがあったときや迷いが生じたとき、はたまた困ったときなどで、母を思い出すだけで私の直感が働き出して、「ああ、そうだったのね!そう考えれば良いのね!」と、瞬時に閃きが湧き上がってくるのです。不思議なことですが、今でも母に助けられていますね。


どのような時代に生まれてきたとしても、自分の意識や考え方で、ある程度は自分なりの生き方ができるのだと気が付いたのは、母を介護した4年間があってのことです。意識を常にニュートラルにしておく懐の深さ、ちょっと冷めた目線であると感じるくらいの平常心、それでもひ孫たちを相手にすると、はしゃいだり、時には上から目線の説教節で話をしたりと、母の親心が見え隠れしていて微笑ましかったですね。

身体の仕組みや生命のはたらきについてなどを、私は本当に何も知らなかったのですが、介護の4年間を通して、身体の微妙な働き、繊細さ、生命力の強さ、その素晴らしいバランス、思いや願いに身体が反応すること、身体は常にベストな調整をしていること、そして、その結果が今の健康状態であることなどを、体験として知ることができました。


在宅介護という言葉に良いイメージはありません。一般的にはすごく大変なことという認識で、できることならしたくないことのトップでしようね。それでも介護には宝が隠れているように思えるのです。生きている人は皆いずれ死を迎えるわけですが、高齢者は死までの距離が近く死と隣り合わせで体力の衰えもありますから、介護をしていると、死とか生命とか身体の仕組みについて考えることになります。
そこには普通の生活ではあまり考えないようなこと、気が付かなかったことなどが見えてきて、世界が広がっていくのです。考え方ひとつですが…

私はこれから健康な高齢者として自信を持って歩んでいこうと思います。病気にならない生き方をそばで見せてくれた母は、今でも天から私たちを見ていて、守ってくれていると信じています。そう信じることが母に対する感謝だと考えています。



noteを始めて2週間経ちました。
わからないことばかりで、どうすればよいのかとあちらこちらのページを見ていると、創作大賞という文字が見えて、締め切りが7月23日とあります。日数の余裕がまだあることと、7月23日という日にちを見て応募することにしました。
7月23日は母の誕生日です。



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