続・津軽日記(2)
前回の津軽旅行記の続きとなります。第二弾。ええ、第一弾から二か月も間が空いてしまいました。そして、直近の投稿からも一か月。。。
気を取り直して投稿頑張ります。。
さて、前回は外ヶ浜のキャンプ場で一夜を過ごしたところまでだったので、その続き、2日目からになります。
9月26日 6:30朝日が昇ると同時に一同目を覚まし、さっそくテントを引き払って次の場所へ。前日に引き続きひたすら北上。そしてとうとう本州の最北へ。龍飛崎。
「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである。」(太宰治「津軽」、新潮文庫、p118より)
近くには、「津軽海峡冬景色」の歌謡碑もあり、ボタンを押すと曲が流れる仕組みになっていた。午前七時半。我ら一行の他にほとんど客も見られない中、必要以上に大きい「津軽海峡冬景色」が流れるのであった。(しかも一度ボタンを押したら三番まで止まずに流れ続ける。。。)
太宰も記しているように、龍飛崎は津軽半島の最北に位置する。その先は津軽海峡を隔てて函館の位置する渡島半島がある。陸の果てまでやってきた。感慨深いものである。
9:30今度は津軽半島を西に下っていく。小泊へ。小説「津軽」は彼の生まれ育った津軽の魅力が、太宰特有の軽快な語りによって全面に描かれており、紀行文としても大変すばらしいものとなっているが、この作品が「小説」として、そして「名作」として語り継がれるのは、やはり最後の場面、かつての女中・越野たけとの数十年来の邂逅があってこそであろう。ここにおいて小説「津軽」は真の意味で完結し、文学作品に昇華するのである。
小泊にはまさしくこの「津軽」を記念して建てられた資料館がある。小説「津軽」の像記念館。我々はそこへと足を運ぶ。
太宰は小泊については以下のように記している。
「ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入りがあり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮伯することになっていたという」(太宰治、「津軽」、新潮文庫、p196より)
小説「津軽」の像記念館には越野たけさんについての資料や、太宰の長女・園子さんへのインタビュー、その他二人にまつわる深い愛情が見て取れる資料が多く展示されており、とても満足のいくものであった。同時に太宰の人物像がずっと身近に感じられ、改めて彼の人生について思いを巡らせるのであった。
そこで購入した、太宰が描いたたけさんの似顔絵(小説の冒頭にも載せられている)のポストカードは今でも家で大事に保管しております。
12:30一行はさらに南下を続け、ついに太宰の生地・金木に到る。そしてようやく待ち望んだ斜陽館を目にする。
「金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どうやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。」(太宰治、「津軽」、新潮文庫、p5)
まずはその立派な屋敷の造りに驚かされる。所謂和洋折衷の造りになっていて、そこにはたくさんの人々が生活していたという。太宰は11人兄弟の10番目。父親は地元の大金持ち(当時、青森で四番目の富豪だったという)で貴族院議員。使用人や召使も大勢そこに暮らしていた。何となく、太宰の居心地の悪さ、反抗精神などが理解できたような気がした。そこから逃げ出したくなるような気持ち。その分、必要な教養と愛情はたけからもらった。やはり彼の生い立ちを理解するうえで、それは訪れなければならない場所であったと改めて実感した。
14:30そのまましばらく金木を散策することに。近くに芦野公園があったので入ってみると、そこには太宰治の銅像が立っていて、近くには小説「葉」からの一節「選ばれてあることの、恍惚と不安と、二つわれにあり」が書かれた石碑もたてられていた。太宰治自身の像はこれが初めてである。
15:30ぱらぱらと雨が降り始める中、太宰巡業最後の建物へと足を踏み入れる。金木の旧津島家新座敷という建物。これは太宰が第二次大戦中に東京で罹災したのちに疎開先として避難していた場所であるという。実はこの座敷にて後に多くの作品を執筆することになる。代表的な作品は「パンドラの箱」、「親友交歓」などで、特に後者はまさしくそこで起こった出来事を基に執筆されたという。
これにて小説「津軽」を巡る旅は大体において完結する。我々一行はさらに南下し、下宿先の十和田市へと直行する。以下、3日目の記録を簡単に掲載しておく。
まずは十和田湖。朝いちばん(とわいえ大分昼に近い時間だったが)に散策し、ただただのんびりと時間を過ごす。水の深さはどれくらいだろうかと議論する。湖の形について考える。
続けて奥入瀬渓流へと向かう。川沿いを歩いていく道があったが、我々は遠くまではいかず、滝や新鮮な水を眺めていた。本当に透き通った、美しい流れで、いわゆる「マイナスイオン」を全身に浴びる。
そして最終的に弘前へと帰ってくる。これが午後の四時。初日に来たときは朝が早くて城内には入れなかったため、初めて天守閣と相対することになる。小説「津軽」でも弘前城について述べた箇所がある。
「けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深いため息をもらしたのである。万葉集などによく出てくる「隠沼」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。」(太宰治、「津軽」、新潮文庫、p28)
眼前に町が広がっていた、ただそれだけである。しかし、そこに美意識を見出すのは流石太宰といったところ。子供の頃の純粋な驚きである。
これにて太宰治の小説「津軽」を巡る旅は完結する。振り返ってみて、いい旅だったなと改めて実感する。太宰治について、小説「津軽」について、そして何より津軽半島の豊かな自然と、そこにある人々の営みについて深く知ることができた。機会があれば、またこのような旅企画をぜひとも続けたいものである。
「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」
(続・津軽日記 完)