バス停にて
雨の降る日のバス停で自分の乗るべきバスを待っているとき、私はいつもあの頃、そしてあの人を思い出す。その時私は高校二年生で、十七歳だった。その人はある日突然姿を現し、そして、突然姿を消した。彼女を初めて見たのはその年の五月のことで、私はいつものように通学のためにバスを待っていた。その日は早くから雨が降り注いだ、静かな朝だった。彼女はバス停のベンチに腰掛け、一人本を読んでいた。第一印象をはっきりとは覚えていない。というのも、バス停のベンチで本を読むこと自体特別なことではないし、特段気を留めるような格好をしていたわけでもなかったからだ。しかし、彼女が来るバスに乗らなかったとき(そのバス停に停まるバスは一つしかなかった。)、私はやや不思議がって乗車したのを覚えている。それからちょうど二週間が経ち、彼女は再び私の前に姿を現した。その日も朝から雨が降っていて、前と同じようにベンチに腰掛け、本を読んでいた。その時も彼女はバスには乗車せず、私は車窓から彼女の姿が後ろに遠ざかる様を眺めていた。彼女の腕はうっすらとして細く、長い髪が背中辺りまで伸びていた。その日の後にも何度か雨の日があったが、彼女は雨の日毎に姿を現したわけではなかった。三度目に姿を現したのは六月になってからのことで、その日も以前と変わらず一人で本を読んでいた。勿論雨は降っていて、バスには乗らなかった。しかし、私は彼女の三度目の登場のまさにその次の日、彼女が現れる規則について思い当たったのだ。その日も前日のように雨が降っていた。しかし、その日はバス停に彼女の姿はなかった。そう、彼女は何日も雨が続く日の、最初の日に姿を現すのだ。以前の三度の出現は例外なくそうであって、晴れ間の狭間に不意に雨が降る日には姿を見せなかった。その時、私は携帯の天気予報を確認して、次の長雨はいつだろうかと確認した。何か大きな難問を解いた気がして、密かに喜んだ。どうやら三日後から雨が降るようだった。
私は、彼女との四回目の邂逅の時、意を決して、彼女に話しかけることにした。雨の日の朝に、屋根の付いたそのバス停にいるのは、私と彼女のほかに誰もなかった。
「こんにちは。本をお読みのところ、すみません。」
彼女は視線を読みものから私に移した。その目は透き通っていて、私の目の奥の何かを見透かしているようだった。
「初めまして。いつもここから乗っている学生さんね。」
「あの…どうして長雨の最初の日にここで本を読んでいるのですか。」私は思っていたことを率直に尋ねた。まるで秘宝の在処の答え合わせをするように。
「あら、どうしてそのことが分かったの。あなた、賢いのね。」
「雨の日に、それも不定期にあなたがここにいるので気になったんです。そうしたら、このことが頭に浮かびました。」
「そう。私は何も天気予報をちゃんと確認して、わざわざ雨が連日降る日の初日に来てるわけじゃないのよ。そんなことをしても何の得にもならないしね。でも、私には分かるの。ああ、これから何日間か雨が降るんだなって。そう思うと、自然と足が外に向いてしまうの。この地域だと、ここが一番落ち着くわ。」
「どうしてわざわざ雨の日に出かけるんですか。濡れてしまうし、なんだか色々と不都合ではありませんか。」
「そうね、私も確固たる信念があってここに来ているわけではないの。でもね、私は雨が好きなのよ。雨の日は静かだけれど、周りの木々や植物たちが喜んでいるのが感じられる。天からの恵みをそのからだいっぱいに浴びているようでね。それから、雨の日だと人と関わる機会が少ないからそれも私にとってはすごくありがたいわ。」
私は彼女の言葉について考えた。そして、彼女に返すべき言葉を探しているとき、私の乗るべきバスが到着した。私は彼女に「すみません、失礼します。」といってバスに乗り込んだ。彼女は私に手を振って見送ってくれた。その指には銀色の指輪がはめられていた。それから、学校へ向かうバスの中で、私は彼女の言葉について考えた。しかし、今一つ彼女の真意を理解することができなかった。天気予報によれば、次の雨は一週間後だった。
「どうして長雨の初日に現れるんですか。雨が好きならば、雨の日が来るたびにここへ来ればよいのに。」私は前回聞けなかったことを単刀直入に尋ねた。ちょうど今日から梅雨入りで、朝から雨が降っていた。彼女がいるので、明日も雨が降るに違いなかった。
彼女は読みかけの本を閉じて私の方を見つめた。それから手招きして自分の隣に座るように合図した。私は傘をたたんでその隣に腰を下ろした。
「あなたの率直な物言い、嫌いじゃないわ。素直なのね。」彼女は微笑む。そして続けた、
「私はね、雨が好きだけれど、それ以上に雨によってもたらされる、状態の変化が好きなの。物事が次の層に移行する過程が好きなの。そして、その変化は長く雨が続くことで少しずつ引き起こされる。それで、その最初の過程を見届けて、後は想像したいのよ。雨によってこの世界がどう変わるかってね。少しでも変わっていればいいな、ってね。バカみたいでしょ。結局雨が終わってしまって何日かするとすべては元に戻ってしまう。そんなことを何年も繰り返しているのよ。」
私は、やはり彼女の言葉を完全に理解することはできなかった。しかし、彼女がどういう人間であるか、ほんの少しだけ解ったような気がした。同時に私は、彼女が私に対して必死に何かを訴えているように感じた。不意に彼女の孤独が思い当たった。
「雨による変化って、例えばどんなものですか。」私は彼女の真意の糸口を見つけたかった。
「そうね、勿論目に見える変化もあるけれど―――葉が滴るとか、土が流れ出るとか。でもそれ以上に目に見えないものの変化を想像するの。山間に降り注ぐ雨、やがて海に流れ出るまでの道中、どれほどの変化が生まれるだろう、てね。それを目に見えるもの、耳で聞こえるもの、心で感じるもの、それらを総動員して思い巡らすの。私は臆病だから、ただ想像するだけ。実際どうなるかを見届けるのはすごく怖いの。」
彼女の言葉に耳を傾けていると、初めバスが目の前に停まっていることに気が付かなかった。運転手が声をかけてくれて、私は我に返った。そして、彼女に礼を言って立ち上がった。立ち上がる時、唐突に何か違和感を感じた。何かが失われて、同時に何かが足された違和感だった。彼女の首筋に青紫に滲んだ痣があった。
結局、彼女との奇妙な交流はそれで最後だった。長雨はその日以来何日もあったが、ついぞ彼女がそのバス停に姿を現すことはなかった。それ以来、私の心には何か掴みどころのないような不吉な塊が漂っている。彼女は何者で、私に何を訴えていたのか。左手の指輪、そして首筋の痣。
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