あの塾では木綿豆腐に寝技をかける
いくらかマシなウレタンマットはなかったのだろうか。今朝からほうぼうまわってみたが、凛としたものしかない。中学が二、三個と、盃と、にんげんもくるまへんもおんなじで、騒がしくなって、粛々として、いやはや全体が罹患しているようです。似非、似非。どれもモグワイには勝てぬので、贔屓ですけどね。
Mogwaiは同じ年齢の女と一緒に観た。もとは女のほうが熱心なファンで「マイブラはバイブル、モグワイは十戒」という韻を1日に数回は唱えるような爆音フリーク。「よっしゃノルウェーね。グラスゴーだよ。グラスゴーに行くんだよ我々は」と半狂乱で叫ぶこともあった。その矢先にヤツらが日本に来ることが分かったもんだから、私はシャツの襟を掴まれながらライブに参加することになったわけで「グラスゴーはスコットランド。Mogwaiはスコットランドのバンドなんだよ」とは、とうとう言えなかった。
「白いノイズだよ白いノイズ。わしゃしゃーんってねぇ。あれを生で聞いたら、たぶん私は失禁をします」
だからオムツを履いてきました、という彼女にあいづちを打ちながら、早足でライブ会場まで歩いた。当日は大遅刻。とうに開場時間は過ぎており開演に間に合うか否かという瀬戸際だったのだ。
「オムツって走りづらい」とニコニコ話す彼女の隣で私は「クリスマスステップス」のことばかり考えていた。じゃっじゃじゃっじゃじゃじゃじゃっじゃじゃ……のリフが40小節ほど流れたあとの、破滅的なギターを生で聴きたい。
到着するも、当然ライブハウスの前には誰もいない。音も聞こえない。急いでキャッシャーにチケットを渡し、ドリンクチケットを受け取って場内に入る。聞き覚えのあるフレーズが鳴っていた。
(クリスマスステップスだ)
彼女は口パクで私にそう伝えると、キリストに祈るように十指を組んだ。この世の終わりみたいに陰惨なフレーズが繰り返される。何度も何度も何度も。客は燃える実家を見るかのごとき無表情で棒立ちになる。隣を見るとすでに人ではなくマネキンだった。反対もそう。腰に手を当てて、薄く口角を上げている。私も足先から徐々に固まりはじめる。はじまりからすでに終わりの様相で、もう本日のバッドエンドは間違いなかった。
ふと我に帰ったのは、次第に低音が鳴り出したころ。ダダ、ダダ、ダ、と不穏なフレーズが先頭に立ちはじめ、ギターが鳴り出す。リズムが生まれる。ああ、ああ、あのドラムのフィルインが聴こえる。隣の彼が右手を挙げる。いつのまにか、人間に戻っていた。会場中がやっと呼吸を取り戻して、歓声が沸きおこる。頭がだんだんとはたらきだす。人間が人間たる様で音楽をたのしみだした途端、聴いたことのないボリュームでギターが鳴りはじめた。
ベロシティもくそもねえ。異常なほどに破滅的なひずみ。なにをしたんだろうか。耳ではなく脳で聴こえる。内臓で聴こえる。細胞で聴こえる。はじめて、バンドから殺気を感じた。殺しにきている。Mogwaiは確実に我々を殺しにきている。オーバードライブとかディストーションとかファズとか、凝り固まった既成概念を粉々にするギターの音。確実に足元が揺れた。壁に貼られたビニールが小刻みに波打っている。女がよろめいてこちらにもたれかかってくる。振動で前歯が震えている。抜けはしないものの少し欠けた。鼓膜が危機感を感じる。すると内耳の内側から綿があふれてきた。モコモコモコモコ。どうやら他の客も同じみたいで、誰の耳からも綿があふれて震えている。ほんの10秒の間に人類は進化した。
アンプから煙が立ちのぼるのが見えた。しかしMogwaiは演奏をやめない。ただじっと足下を見ながら戦争みたいな音を出しつづける。もはや何を弾いているのかまったくわからん。「開放弦でも同じだろうがこのやろう」と腹の底からありったけの声で叫んだが、おそらく隣の人間にすら聴こえていない。アンプから出る真っ白な煙は徐々に室内を埋め尽くす。すでにステージ上は見えない。前方もそう。すっかり煙に隠された。中盤ではリードが際立つ。高音のギターに合わせて、濃い煙の中を白い光線が突き抜けていく。
煙がすっかり充満して、もはや視界は真っ白になり、いよいよなにも見えなくなった。ああ死んだのかと思ったが、ぼんやりとラストのアルペジオが聴こえてくる。ラストといっても4分ほどかけてやっと終わるのが、クリスマスステップスの哀愁。ゆっくり、ゆっくりと煙が薄まってゆく。もやが晴れてゆく。景色が変わった。人がすっかりいなくなっている。薄暗いライブハウスではなく、私は、なぜだか真昼の図書館にいた。両腕に横光利一の小説を山ほどかかえて、ボーッと突っ立っていた。立ち尽くす私を、司書が怪訝そうな顔で見ている。ゆったりとしたアルペジオは、なおも聴こえている。曲が終わる。曲が終わる。さみしくて耳を塞ごうとしたが、あふれかえった綿が邪魔だ。引き抜こうとするが、鼓膜に接着されていて抜けない。ああ、曲が終わる。もうすぐ、あとほんの数秒で、クリスマスステップスが終わってしまう。
#シュルレアリスム #シュルレアリスム小説 #小説 #短編小説 #シュルレアリスム文学 #文学 #シュルレアリスム作家 #音楽 #バンド #ライター #自動筆記 #詩