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六本木ヒルズ 森美術館で開催された「カタストロフと美術のちから展」のレポート

近々、日本は天災大国だとあらためて思う。
地震や台風、豪雨などは年々顕著になり、その度に幾人がいのちを落とす。しかし「誰が悪い」なんて議論はできない。殺人や交通事故と違って、そこに一切の悪意が働かない。それぞれの遺族は、きっと悲しみのやり場に困ってしまうだろう。それが天災である。たまたま日本に生まれて、たまたま宮城や熊本に生まれて、たまたま地震があった。たまたま古い家に住んでいて、たまたま倒壊し、下敷きになってしまった。

美術のちからはカタストロフを包めるのか

現在、六本木ヒルズ52階のスカイビューで催されている「カタストロフと美術のちから展」では、カタストロフ(悲劇的な結末・破滅)に関する美術作品がずらりと揃えられた。

特に震災についての作品が多い。阪神・淡路大震災や東日本大地震、熊本地震と日本全国を悲しみで包んだ大震災の惨状をあらためて突きつけてくれる。

美術のちからは、破局の悲しみを包み込めるのか。ささくれをフラットにしてくれるのか。希望を見つける手段となりうるのか。

展示のレポート

入館して、まず眼前に飛び込んできたのは崩壊した家屋のレプリカである。5、6メートルはあろうか。巨大な建物が無残にも崩れている。いきなり圧倒された。

トーマス・ヒルシュホーン作「目の前に広がる驚愕の光景」だ。「瓦礫」という言葉は震災のあとに必ずメディアを席巻する。がれきはカタストロフと近い存在だと感じた。終わったあとにしか現れないモノ。はじまりを待つモノ。がれきを横目に進むと、写真が展示されている。

東日本大地震の惨状を写した一枚だ。異世界感。たった一度の地質の揺れだけなんて。文字通り「あっ」という間に破滅を迎えた街は、独特な色合いを醸している。だいだいや濃紺は「終わり」を想起させる。これは夕暮れや夜半のイメージからだろうか。

作品のそれぞれから発されるエネルギーに気圧されながら歩むと、阪神・淡路大震災のときに描かれた絵画があった。額ではなくダンボール。素朴な悲しみが如実にあらわれる。崩壊した神戸の情景を描いた作品だが、そこにはあるはずのない「青」や「赤」などビビッドな色もある。ただの風景画ではない心象画である。あのころ、グロテスクが残像になって街を歩いていたのだろう。画家の焦りや悲しみが街を彩っている。

コーナーを曲がって目をひいたのは、こちらの作品だ。108つの円は、遠くから見ると"圧勝のオセロ"のように見えるかもしれない。しかし近づいてみて驚いた。それぞれの円には男たちの肖像写真がある。108人の表情がある。

彼らは原発作業員だ。高濃度の放射能を浴びながら防護服に身を包み、必死に働いていた者たちだ。彼らがいなければ、東北は、フクシマは、二度と立ち直れなかっただろう。ある種、自殺に近い決心を固めて仕事に取り組んだ作業員たちの上からは黒い塗料が塗られている。そこにこそ暴力的なまでの表現欲求がある。隣で見ていたヨーロッパ系のご婦人は右手で口を覆ってその場から動けなくなってしまった。

その他、震災以外のカタストロフに関する作品も多数展示

もちろんカタストロフという言葉は災害に関係ないものも含まれる。

たとえばジリアン・ウェアリングの「誰かがあなたに言わせたがっていることじゃなくて、あなたが彼らに言わせてみたいことのサイン」。街ゆく人に紙を渡して「あなたの心の中を支配していることを教えて」と質問し回答してもらう。
わたしが個人的に惹かれたのは右側の男性だ。スーツを着こなし、柔和な笑みを浮かべながらも「絶望している」というメッセージ。言葉を見てから表情を見返すと、なんとなく困っているようにも見えるのが不思議だった。

また個人的に大好きなストリート・アーティスト、スウーンの「メディア」という作品にも注目したい。
彼女の家族は"終わって"いる。一家中が薬物に侵され、互いをかばうこともなく、破滅してしまった。この作品ではタランチュラや悪魔など、さまざまなモチーフで暗澹たる家族の風景を描いている。受話器を取れば、呪いのような音声が聴こえる。巨大な不安の塊のように思えた。これもまた、甚大なカタストロフの一片である。

アートに何ができるか?ではなく アートで何をするか!である。

歩いているうちに感じたのは作品の背景にある。「カタストロフ」への畏れだった。作品のエネルギーが増すほどに、創作のきっかけになった喪失や惨状がありありと顕れてくるのだ。
「果たして美術のちからはカタストロフを和らげることができるのか」。
そう考えながら進んでいたときに、あるメッセージを目にした。

「アートに何ができるか?ではなく アートで何をするか!である。」
アートプロデューサーの高橋雅子さんの言葉である。
彼女は東日本大震災や熊本地震で負った傷をアートで癒そうとしている。とても勇気があり、生産的で前向きな活動であり「ARTS for HOPE」はたびたびメディアにも露出していた。

アーティストという存在は元来、能動的で自分勝手で、爆発的である。元来、自分に向けた作品を発表する。自分の救済がいつの間にか他人にまで影響を及ぼす。それがアーティストたる姿なのだ。しかしそこに縛られていてはいけないのも確かだ。アート^は常に自由でなくてはいけない。

しかし自分に向けたにしろ、他人に向けたにしろ、変わらずにそこに流れているのは、きっと「能動」であろう。「行動」であろう。高橋さんの言葉は「カタストロフ」に対するアートのポジションを、端的に言い表している。

ラストにはオノ・ヨーコの作品も

癒せるかどうかではない。
伝わるかどうかでもない。
まず、創ってみる。立ち向かってみる。

「カタストロフ」はもちろん個人にも起こる。
外的要因だけではなく、内的要因によっても発生する。

そこで絵画や造形、映像などを創って救われる人間がいるだろう。創作によってカタストロフを綺麗に保管することはできないかもしれない。しかし、立ち向かうことはできる。

逆にいうとカタストロフがなかったら発生しなかった美術作品がこの世には山ほどある。「カタストロフ」と「アート」は相互補完をし合っている側面もあるのだ。
この2つの関係性について知るにはうってつけの展示会なので、ぜひ足を運んでいただきたい。

最後にはオノヨーコが難民問題を解決するために手がけた作品がある。

青いクレヨンで誰でも手を加えられるので、ぜひ参加していただきたい。オノヨーコと作品を作れるなんて経験はそうないし、難民たちのことをより深く知ってみようという気になるだろう。

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