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孤独という病

とても久しぶりにnoteを執筆している。Xでも包み隠さず話している通り、私は今うつ病を患っている。と言っても、中学の頃から鬱の傾向があり、高校では正式に診断された。ADHD起因の鬱だったこともあるので、ここでうつ病の話を深堀するつもりはない。私は私のうつ病しか分からない、というのがうつ病と10年以上付き合ってきた一人の人間の意見だ。

高校の頃、それこそ今でも思い出したくもない地獄のような虚無感、孤独、絶望を感じていた頃に何故私はこれほどの重い感情を抱えているのだろうかと考えた。私は両親がおり、兄弟がおり、ありがたいことに経済的にも困ったことはない。当時は親の脛を齧って海外留学中だった。進学校にも通わせてもらえたし、あまりにも恵まれていると感じた。もちろん毒親だったので、周囲からは不憫に思われたこともあるが、母親は毒親ではなかったので、頭の片隅で「自分が置かれた環境は絶望的ではない」と判断していたと思う。

うつ病は一時回復したのだが、どうしても切り離せないものがあった。それは孤独という病だった。何かに没頭すると消えるこの病は、ただ生きることに必死ではなく、(抽象的かつあいまいだが)恵まれた環境に置かれた私の前から消えては襲い掛かってきた。

それは私がプレイヤーからマネージャーへ転換した時、またプレイヤーへ戻った時、母になった時に襲ってきた。マネージャーになった時は現場との接点がなくなった気がした。新しい仕事の意義を自分の中で醸成するのも難しかった。いざ現場へ戻れば、マネージャー期間中に失った勘に嘆いた。子を産み母を生んだ時、私は広義の意味での外界の接点を失った気がした。乱暴ないい方をすると、日々過ごす理由、生きる大義名分、没頭できる何かが変化するたびに私は孤独に苛まれた。

孤独から解放されたとき、いや、正式には孤独を上回る熱が頭に上った時のトキメキは多くの人が知っていると思う。それは片思いで恋焦がれていた誰かと相思相愛になった時かもしれないし、追いかけていた案件を受注した時かもしれないし、子供の手術が成功した時かもしれない。それぞれそれは心躍る素晴らしい出来事だが、私はどこかでその血が上るような熱は今までの孤独の反動なのではと思う。

そして、退屈で暇を持て余すと孤独は襲い掛かってくる。この血が上る経験をした人間は、どこかで孤独を紛らわすために何か大義名分を見つけようとする気がする。意識的なのかそれとも無意識下での行動なのかは分からない。私も同じように生きている実感、生きる大義名分を求めている。私の場合はそれこそ大義名分の奴隷のようにさえ感じる。

子供の中学受験、高尚な思いや目標を掲げる(もしくはそう信じている)起業、もしくは継続的な課金が必要な趣味など、見え方は様々だが、孤独という病から逃げる一つの手段なのではと最近感じる。

そしてそれは決して恥ずかしいことではないのかもしれない。人間の歴史を振り返るとほとんどは遊動生活を行っており、定住することはなかった。定住とは作業の効率化、ルーチン化を必要とする。習慣化の先には暇と退屈がどうしても発生する。私たちはふと日々アンテナを張り、幅広い事案に目を向け、大脳を刺激し続けないと退屈の果てに生きる意味や実感について思いを巡らせ、そして孤独という不治の病を認識しないといけなくなる。

最近、本業とは違う仕事を始めてもう一つの軸にしているのだが、実はそれも一種の孤独から逃れる手段だったのだと思う。いかに退屈から逃れることで孤独と向き合わなくするのか、そして大脳に負荷をかけ続けることで何かに没頭する状況を作り出すのか。

どうして私はこの当たり前の弱さをもっと早い段階で認めれなかったのだろうか、と最近思う。そしてまた今日も孤独から逃げるために、外界に目を向けて刺激となる新しい分野に飛び込んでみようと思うのだ。

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坂口ジャス子
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