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ビリーフにもヒエラルキーがある。最も上位のビリーフを手放すと、人生は圧倒的に楽になる

小静ちゃん、サンへ。

さそり座の考察を続けたかったけど、個人的にすごく大きな気づきがあって、共有したくて書いてる。(さそり座の考察はまた今度!)

最近さ。
「トラウマは一生終わらない」を不動の前提に生きてる人。
「ねばならない」へのアレルギーがめっちゃ強いのに、膨大な社会批判の中に生きてる人(つまり当の本人もまた「ねばならない」がめっちゃ強い)。

こんな感じの人に、よく遭遇したんだよね。
「永遠に終わることのない修行」を、自ら設定して生きている人。そして、彼らと別れた後も、妙にモヤモヤが残るの。

そしたらふと、自分の中にも「終わらない修行」設定があるって、気づいたんだよね。

手放したはずのビリーフ(硬い決め事)が、しばらくすると、また稼働している。根っこのトラウマに、深く深く寄り添って、痛みは柔らかく溶け込み、ほとんどザワザワしなくなったのに、しばらくするとまた同じサイズ感でうずく。

そして、その痛みに誰かが不用意に触れると、イライラしたり、その人をなじりたくなったりする。

ビリーフ(硬い決め事)を手放したばかりの瞬間は、あれほど軽やかに、自分も他者も、ゆるせていたはずなのに。また、しばらくすると、同じビリーフが機能し、同じ痛みが同じサイズ感で胸の中にある。

そんな「堂々巡り」に気がついたのよ。
わたし固有の「終わらない修行」設定にね。
愕然としたよね。

もう10年近く、トラウマの癒しとビリーフの手放しをやってきた。そのくり返しを100回も1000回も続けてきたんだ。

それなのに、しばらくすると、また似たようなビリーフを、新たに見つけたつもりになって、よく似た痛みに寄り添って、くり返し、くり返し、癒しと手放しをやっていたんだ。

わたしはお話会で、「この世に堂々巡りと八方ふさがりは存在しない。それが起こるのは、名なき者が目をふさいでいるときだ」と言った。
(名なき者とは、未成仏の霊のこと。人間の負の感情がご飯だから、それを食べるために、人を、痛みとビリーフの中に留まらせる)

その通りなんだけど。
厳密に言うと、名なき者が目をふさぐためには、それが可能な、その人固有のトラウマやビリーフが必要だ。「堂々巡り」を自ら許可するような、強いビリーフがね。

それを、ついに見つけてしまったんだよね。

実はわたしには、「このビリーフだけは手放す気はない」と、自覚的に思っているビリーフがあったんだ。

それは「誰かのトラウマや、動植物の嘆きに、無関心にはならない」と言うビリーフだった。その決め事が強すぎる信念だと、わたしは知っていた。けれど、痛みを抱えた人や動植物の嘆きに、まったく無関心の人たちに幾度も傷つけられてきたから、どうしてもこの誓いを手放せないでいた。そして、「それでいい」と思っていたんだ。

もっと掘り下げて自分の内側を見ていくと、わたしがゆるせないでいるのは、「トラウマ体験が少ない人たち」だった。

親の暴力とか、いじめとか、凌辱とか、命の危険を感じるような痛い体験をしたことがない。ゆえに、彼らの痛みが分からない。
(わたし自身は凌辱の体験はないのだが、何故かそれがものすごく恐ろしく、この世に凌辱と言う行為が存在することが、強烈な痛みだった)

こういうタイプの人たちが「それって子どもの頃の話でしょ?なんで未だにくよくよしてるの?」なんて口走ろうものなら、腹わたが煮えくり返るような怒りを覚えた。

この怒りのために、わたしはどうやら無意識に、大きな誓いを立てたようだった。

それが、「わたしは、トラウマに無知な者にはなりません。そのために、どんな犠牲を払っても、自分のトラウマを完璧には癒さないことを誓います。」
と言うものだった。

トラウマを隅々まで癒してしまうと「痛みを抱えた人の気持ち」がまったく分からなくなるかもしれない。そうなれば「トラウマに無知な人たち」のように、誰かを傷つける。それが嫌で、いつしかこの誓いを握りしめていたんだな。

これが、堂々巡りの原因だった。
どんなにトラウマを癒しても、膨大なビリーフ(硬い決め事)を手放しても、また同じサイズ感で戻ってくる。このサイクルを引き起こす、もっとも「上位のビリーフ」だったんだ。

わたしは、いよいよ、この「上位のビリーフ」を、手放さなければならなくなった。同じ痛み、同じビリーフが、くり返し人生に舞い戻ってくるのは、もうたくさんだ。「終わらない修行」設定を、いいかげん終わらせる。

そのためにわたしは、2つのことを深く考えねばならなかった。

1つは、「本当にトラウマを隅々まで癒すと、『トラウマに無知な人たち』同様、まったく彼らの痛みを想像できなくなってしまうのか」と言うこと。
もう1つは、「『トラウマに無知な人たち』への怒りを、どうしたら鎮められるか」と言うことだった。

長くなるので、プロセスは割愛するけれど、わたしは「自分の中のトラウマが、すべて癒され、全く痛みを感じなくなっても、トラウマを持つ人に共感できる。その痛みを想像できる」と、気がついた。

自分はもう、その痛みを「リアル」には感じない。だけれど、その痛みを「想像」でき、「共感」できる。自らの選択で、それができる。
ならば「トラウマに無知な人たち」のように、無神経なふるまいをすることはなかろう。それなら完全に癒されたってかまやしない。そんな結論にたどり着いた。

後者はもっと難題だった。
「『トラウマに無知な人たち』への怒りを、どうしたら鎮められるか」これだ。
けれどこれも、癒しはちゃんとやってきた。

月アロマ浄のお風呂に入って、ぼーっとしているとき、ふいに昔見た、あるシーンを思い出したのだ。

小学2年生くらいの子どもが、道行く片足のないおじいさんを指さし、「あの人どうして足がないの?」と叫んだ。そばにいた親は慌てたけれど、指を刺されたおじいさんは、何故だか微笑んだ。
たぶんだけれど、その子どもがあまりに無邪気で、他意がなかったからだ。

子どもは何も知らなかった。片足のない人生の不自由さを。片足を失ったときの苦しみを。おじいさんの様々な痛みを知らないけれど、その「知らない」と言うことが、少なくともそこに居合わせたわたしの救いになった。そしてたぶん、微笑んだおじいさんの助けにも、なった気がした。

「そうだ。そう言うことってある」とわたしはつぶやいた。
痛みを経験したことのない人の鈍感さ。知らないことで、ただ無邪気に自由に生きていける人たち。彼らの、あきれるほどの明るさが、その存在が、わたし達の助けになることって、あるのだ。
わたしが忘れていただけだ。

そう思ったら「トラウマを知っている人たち」「トラウマを知らない人たち」も、その人だけの大切な役割があって、ただ真摯に自分の人生を歩んでいるだけなんだと思えた。
素直にそう思えた。

そうしたらやっと、わたし自身にも「トラウマに無知であること」を、ゆるすことができた。

わたしはスウッと深く呼吸をして、まずは
「トラウマに無知な者には絶対にならない」と決めこんだ誓いを解除した。続いて、「わたしは、『トラウマに無知な者』にならないために、どんな犠牲を払っても、自分のトラウマを完璧には癒さないことを誓います。」
そうハッキリ声に出すと、さらに明瞭に「この契約を、破棄します」と言った。

月アロマ浄のジェルを、胸と背中にたっぷりと塗る。そして、ビリーフとともに在った名なき者を、天使に変えて天へと還した。

じわっと身体がゆるんでいく。その感覚を十二分に味わったあと、穏やかな声でこう続けた。
「わたしは、トラウマを知っていることの尊さも、トラウマに無知であることの尊さも、知っています。この、知っているという感覚を祝福します」
身のうちを静けさが木霊する。
わたしは、霊と肉とハートを1つに整えるため、この後、しばし眠った。



恐らくわたしはもう、あらゆるトラウマを隅々まで癒すことができる。
そして、癒されたトラウマが、また同じサイズ感で戻ってくることもなかろう。ビリーフも同じく、一度機能を失ったものは、そのまま消え去っていくだろう。

今回のことでわたしは、「ビリーフにもヒエラルキーがあるんだな」と気がついた。そして、もっとも上位のビリーフは、その人の人生に「終わらない修行」設定となって君臨する。

この仕組みを頭の片隅みにひっかけておくだけで、誰もの人生に少しばかり、光明が差すような気がした。これはきっと、多くの人に役立つだろうと思って、まずは二人に贈ってみた。

どうだい?なかなか素敵な手紙だったろ?

モクより

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木星(モクちゃん)
魔法の占星術テキスト『モッくまくんの星のレッスン』の著者。書籍での独学は難しいと言われる西洋占星術を、知識0の状態から読み始め、「即日使える」レベルにまで習得できるマスター本です。moccuma.net では、第一章からすべてを試し読みいただけます。