観光ではなく観影
沖縄に一度、旅行に行ったことがある。本土と渡嘉敷島に滞在したのだが、なんだかすごく「オキナワーッ! バカンスーッ!」って気分になれなかったことを覚えている。
なんとなく、沖縄の歴史からくる暗さ(みたいなもの)を勝手に感じてしまっていたのだと思う。そしてそれを沖縄の人は外に見せたがらない気がした。
実際に沖縄の人と話したわけではない。本土で話をした人のほとんどが県外から移住した人だったり、島の女の人はなんとなく島の男の人と比べて心を閉ざしているように感じた。
パリに来て沖縄のことを思い出したのはなぜなのだろう。私は実は20代の頃からパリに憧れていて、サルトルやボーヴォワールには実は実はすごくミーハーに影響を受けている。
でも今回、サルトルの墓参りをするとかそういうノリはない。ないのだが、自分の人生に確実に影響を与えている場所に初めて来て、憧れの答え合わせと同時に、パリの暗い面もちゃんと見てやろうという気持ちがある。たとえば、人種差別的な扱いをされることもあるだろうと覚悟しておくとか、キレイなところばかりじゃないだろう、とかそういうこと。
観光という言葉は「光を観る」と書くが、光だけでなく影も観てやろうというわけだ。しかし、そうするまでもなく、初めからパリは影を隠さずに見せてくれた。
ゴミ箱がちゃんと設置されてあるのに道路はゴミだらけ。犬の糞もけっこう見かける。そして電車の中や路上には浮浪者というか乞食というか(宿のホストはbeggarとはっきり言っていた)がいる。
これにはカルチャーショックを受けた。だが50年近くパリに住んでいる日本人女性に言わせると「すぐ慣れる」とのこと。慣れていいものなのか、私にはわからない。自分の自宅のある通りに人が寝ていることに、慣れていいのだろうか。
昨日、宿のホストが誘ってくれて、無料のコンサートに行った。電子音楽とサックス、チェロ、各種笛からなる実験的な構成。地元の家族連れが多く、小さい子の中には途中で飽きてしまって、親子で脱落する組もちらほら。それも許される雰囲気のコンサートだった。私は子どもと音楽の美を共有したいフランス人の親の気持ちを美しいなあと思った。子どもに美しいものを見せたいというその気持ちが。
そのコンサートは宿から20分くらい歩いた場所にあり、途中で城のある公園を通り抜けてきたのだが、もっと早くこの公園に行けばよかったと心から思ったくらい、美しい公園だった。大きな、大きな木がたくさん。緑の上にはチリ一つ落ちていない。朝9時から夕方18時まで開園している公園。その公園を出れば「私たちの街をきれいに保とう」とイラスト付きのメッセージが書いてある犬の糞専用のゴミ箱があり、その隣に犬の糞が落ちていたりするというのに。
美しいことと、そうでないことの差がすごい。そしてここでは皆、強い。乞食でさえ、自己主張してくる。
美しいこと、強いことに対抗するのにお金という日本の時代は終わったので「対抗する」のはやめて、ただ観ていこうと思う。