
不安なままでも生きていけるよ:「雪子 a.k.a.」感想
「雪子 a.k.a.」は、仕事や恋愛に不安を抱えながら、30歳を迎える節目に立つ小学校教師の物語だ。職場の小学校では、児童たちに寄り添う教師を目指して奮闘するものの「人気の先生」にはなれず、自分のクラスから不登校の子どもが出てしまったことを気にかけている。恋人とは学生時代から付き合いだけれど、彼がさいきん仄めかす結婚にはいまいち気乗りしない。心の中にもやもやと燻るなにかを吐き出せない彼女にとって、週末のサイファーは唯一本音を打ち明けられる場所だと思っていたのに、ある日のMCバトルで「本音ではなくて愚痴」「借り物の言葉」だと言われ、呆然と立ち尽くしてしまう。
僕自身もことしで30歳を迎える。雪子の気持ちは痛いほどわかるのだ。だから「雪子 a.k.a.」は本当に自分のための映画だと思った。
仕事には慣れてきたし、自分なりのリズムも掴んできたけれど、かといって将来のなりたい姿も見つけられず、ヒップホップが同じビートを繰り返すように、平凡な毎日を反復する。まわりの評価は気になりもするけれど、特に期待されているわけでもない。児童のつくる「人気の先生ランキング」に雪子先生の名前がなかったのと同じ。友人たちが次々に結婚し、家を買い、子どもを生み育てる中で、さっぱり自分の中でそうなりたいという気持ちが湧いてこないのもわかる。将来のことを考えると、いざ子どもが欲しくなったときに手遅れになりたくない気持ちもあるけれど、かといって今それなりに楽しんでいるこの生活も手放したくはない。たぶん雪子も同じだと思う。週末はサイファーに出かけ、馴染みのレコードショップに通ってはお気に入りの作品を探し、恋人の前では控えているけれど好きなファッションに身を包み、趣味を謳歌している。いまの生活には満足感もある。不幸せだとは思わない。なのに漠然とした不安が付きまとい続ける。そして、その気持ちをに吐き出せない。自分に素直になれない。
雪子は自分の気持ちを言葉にするのが苦手だ。児童の保護者に「この宿題の意義は何だ?」と問い詰められても、返す言葉が出てこない。恋人から前のめりに両親との挨拶を求めらたら断れない。本当は心の中に湧いてくる感情がある。怒りとか、焦りとか、悔しさとか。それに当然大事にしている考えや信念もある。だけど、その場ですっと言い返せないから、なにも考えていないと思われてしまう。あるいは、同意していると見なされて、勝手に話が進んでいく。もともと燻っていた不安な気持ちがさらに強くなっていく。負の連鎖である。
そんな雪子を助けてくれるのがヒップホップだった。単なる週末の息抜きにとどまらない。彼女がほんとうの意味で「本音」と向き合う触媒としてラップは機能していく。サイファーに行けば、ビートに合わせてリリックを吐き出さなければならない。ふだんは決して饒舌とは言えない彼女も、この場に立てば「MCサマー」になれる。彼女のラップはそれほど上手いものではない。言葉も拙く、ビートに乗れているとは言い難い。とあるMCバトルではボロクソに言われてしまった。それでも雪子のラップは見るものの心を打つ。必死にやっているからだ。彼女の苦悩やもがきが、そのままオーディエンスの前に立つラッパーとしての姿に刻まれている。そもそも雪子がラップを上手くなる必要なんてない。ステージの上に立つだけで一歩前進。彼女は過去の自分に打ち克っている。そうとは気づかぬうちに、苦しいまま生きるしかない自分を受け入れ始めているのだ。「生きているだけで偉い」なんて甘い言葉で誤魔化すのではない。「不安なままでも生きていけるよ」と、もがく自分の背中を押しているのである。
だからこそ、雪子は不登校の児童にも真正面から向かっていける。MCバトルを通して、その内側に秘めた気持ちを「借り物の言葉」ではなく、自分の言葉で伝えることに耐性ができてきたからこそ、相手と素直に向き合える。長年惰性で付き合ってしまった恋人と別れる決断もできる。この映画のクライマックスで、雪子は粘り強く向き合ってきた不登校の児童の心を開くことに成功する。彼と学校へ行き、夜の音楽室で得意のピアノを演奏してもらう。そんな中、雪子は思わず彼の奏でる旋律に乗せてラップを始めてしまう。ふたりの心は、クラシックとヒップホップという異なるジャンルの音楽を通して、交わりだす。自分が大好きで、大切にしているものを相手に披露する。ただ披露するだけでなく、一緒に楽しむ。先生をやってて良かったと心から思える、年に一度あるかないかの瞬間。
もしかしたら人生もだいたいそんなものかもしれない。レコードが回るように、ヒップホップのビートが反復するように、退屈で不安だらけの毎日だけれど、時々どうしてもなく眩しいぐらい楽しい瞬間がある。不安定なままの自分を受け入れて前に進む雪子の生き様が愛おしく、そして、自分もそうでありたいと勇気をもらえた。すばらしい映画だったと思う。