「遅効性」のたのしさの正体:「ベイビーわるきゅーれ」感想
先週の土曜日、シネマ・チュプキ・タバタにて阪元裕吾監督による話題作「ベイビーわるきゅーれ」を観た。殺し屋として育てられたふたりの少女が高校卒業を機にルームシェアをはじめ、社会に「適合」するべく奮闘する姿を描くアクションコメディだ。なかなかタイミングが合わず、映画ファンのあいだで評判になってから実際に観に行くまでにだいぶ時間が経ってしまった。こうなると見聞きする感想からおぼろげながら映画の雰囲気や全体像はわかってしまい、ハードルを上げまいと若干斜に構えながら作品に挑むことになる。我ながらつまらない客だと思う。往々にして減点方式で映画を観る羽目になるからだ。正直、「ベイビーわるきゅーれ」も評価が上がりきる前に観たい作品だとは思った。しかし、同時にこの映画のたのしさの本質は「遅効性」なのかもしれない、とも感じた。良くも悪くも観た直後に感じたディテールの粗やモヤモヤは時間が経つにつれ削ぎ落とされ、ただ「面白かった」という感触だけが残ったのだ。
さて、この「遅効性」はどこからやって来るのだろう?考えを巡らせた末に「ベイビーわるきゅーれ」の軸がまひろとちさとの魅力にあるからだ、という答えに行き着いた。そして、このふたりの殺し屋の引力は、演者である髙石あかりと伊澤彩織のコンビネーションのすばらしさと直結する。エンタメニュースサイト「めるも」でのインタビューを読めばわかるように、まひろとちさには、阪元監督が髙石あかりと伊澤彩織に読み取ったキャラクター性が、そのまま反映されているのだ。
--キャラクターがすごく魅力ですが、阪元監督は髙石さんと伊澤さんに寄せて脚本を書いたと聞きました。本人らしさが出てる所はありますか?
髙石 「基本的に全部似てますね。似ちゃってるというか」
伊澤 「ほとんどが似てて、逆に似てないとこってどこだろうって。うーん、まひろは料理ができるけど、私は全然できない(笑) それぐらいしか違いがないですね」
髙石 「私もよく似てますね。あそこまでブチ切れることはないですが、感情の起伏が大きいところは自分も似ています。オンとオフの差がすごいんです。怒る感情は少ないんですけど」
--監督が2人のことをよく見ていたんでしょうか?
髙石 「監督のひとつ前の作品『ある用務員』で初めて伊澤さんと共演したのですが、その時の二人の様子を元にして脚本を書いたと聞きました」
伊澤 「私は演技が不安で、キョドキョドしていて、監督に一つ一つ『大丈夫でしたか?』って確認していたんです。それとは逆に現場で堂々としているあかりちゃんを見て、この二人の対極面白いなと思ったらしいです」
髙石 「“冷静と情熱の狭間で生きてる人”って、言われ方をしてました。人にそう思われるのはおもしろいと思います」
このふたりが有名な役者だったら「ベイビーわるきゅーれ」はここまでの人気を得られなかったと僕は思う。語弊があるかもしれないが、輝く魅力は放ちながらも、どこか「ふつうの人」の親しみやすさをもつ「原石」的な佇まいに、観客は心惹かれているのではないか。まひろとちさとを朝ドラヒロイン候補の女優が演じても、たぶん面白くはならない。まひろとちさとは鶯谷のマンションに暮らし、コンビニや飲食店のバイトすらまともにできない(これらが簡単な仕事だと言っているわけではない)、社会との摩擦に苦しむ「ふつうの人」なのだ。自転車のカギを忘れたノリで拳銃をハンドバッグにしまう一連の流れに説得力を持たせるには、髙石あかりと伊澤彩織の「おぼつかなさ」が必須だったのだと思う。彼女たちが演じるからこそ、「ベイビーわるきゅーれ」はファンタジーではなく僕たちの世界と地続きの切実な「物語」になり得る。
「ベイビーわるきゅーれ」の盛り上がりは、シネコンで大々的に上映される大作とは異なり、作品世界とファンダムの境界線があいまいだ。作品のファンは二次創作的な解釈で作品世界を拡張し続ける。その地平線の先にあるのは、髙石あかりと伊澤彩織というふたりのニューカマーの存在である。まひろとちさとの「物語」に、僕たちは髙石あかりと伊澤彩織の「物語」を重ねる。「ベイビーわるきゅーれ」の「遅効性」はここにある。映画自体の完成度の高さもさることながら、その周辺情報もふくめた一連のムーブメントがひとつの作品になっているのだ。だから、作品の情報を追いかけるうちに徐々に映画の体験自体が純化=順化され、「面白かった」という芯の部分だけが残るのだと思う。
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