【村上春樹】日本人はジャズがわかってなかったって本当?
村上春樹のエッセイ集
『村上春樹雑文集』に
こんな衝撃のエッセイが
収録されています。
エッセイの正確なタイトルは、
「日本人にジャズは理解できて
いるんだろうか」。
これは、ある黒人ジャズ奏者の
発言がきっかけでした。
この発言を聞いたジャズファンの
村上春樹は深いショックを受けたらしい。
もともとは、
アメリカのジャズ奏者
マルサリスがアメリカ版
『月刊プレイボーイ』1993年12月号に
寄稿した記事が始まりでした。
マルサリスは、
「日本人はジャズを理解できて
いないんじゃないか?
それなのに、私達を招いてくれたり
高いギャラを払って聴きにくる。
わかってるのか、わかってないのか
ポカンとした表情で…」
といった発言をしてるんです。
これはアメリカでももちろん日本でも
当時(1993年)話題になったらしい。
そりゃ、なりますね、
この不穏な発言は…。
日本のジャズ愛好家には。
この発言は、一見、正論にも
聞こえちゃう所がまた恐ろしい。
確かに、高いお金を払う割には
ジャズ文化について、
黒人由来の音楽文化について、
それなりの理解やスタンスを持って
いるかどうか質問されたら、
ジャズを聴く日本人が皆、
理解してるとは言い切れない。
1960年代は、
アメリカのジャズ奏者と
日本のジャズ愛好家の間には、
揺るぎない良好な関係があった、
と村上春樹は書いている。
まだアメリカ本国でも
ジャズ奏者は演奏に見合うだけの
リスペクトを得ていなかった時代に、
日本は先駆けてジャズに熱狂した。
アメリカのジャズ奏者が
日本に呼ばれて来てみたら、
ビックリするほど熱い歓待を
受けたんですから、
アメリカのジャズ奏者は
日本が好きになりますよね。
それが90年代になって、
なぜかアメリカのジャズ奏者が
日本人の中に熱狂や理解を
見つけにくくなる。
少なくともマルサリスは
そう感じたのは確かだし、
この発言が注目されるだけ
背景にはそうした不信感が
広がっていたのも事実でしょう。
とはいえ、
このマルサリスの発言に
「はい、その通りです」
とはならないですよね。
「ちょと待ってよ!」
と日本のジャズ愛好家は
日本人なりの弁明を言いたくもなる。
適切なジャズ愛や理解を持った人が
日本にはたくさんいるはずだから。
でも、この発言がなぜ話題を集め
注目を呼んだのか?
村上春樹によれば、
マルサリスの発言の背後には
政治的な偏りのあるメッセージが
こめてあるから
真に受けてはいけないと言う。
スピルバーグが
映画『シンドラーのリスト』を
作ったけれど、あの作品には
ユダヤ人が迫害されていた
20世紀前半の歴史が前提にある。
(それが今は、ユダヤ人が
パレスチナ人を日々虐殺している)
そんな中、シンドラーが
ユダヤ人迫害という困難を
克服していく「実話」が感動を呼ぶ。
これを、ユダヤ人である
スピルバーグが撮影する、
ということは、
どうしても政治的、宗教的、
民族的なバイアスが存在してしまう。
スピルバーグ当人が
無意識にであろうと…。
マルサリスの発言に戻ると、
マルサリスは、ビジネス絡みに
なり果てつつあるジャズ文化に
苛立っていたのではないかしら?
そのスケープゴートとして、
東洋の島国にいる日本人に
マルサリスの苛立ちの牙が
むいてしまったのではないか?
そう私は思うのです。
なぜなら、90年代前半は
日本がバブルに酔っていたか、
バブルが崩壊する直前だったから。
アメリカの白人に毒舌を巻くより、
また、1960年代は白人に対して
共闘してきたユダヤ人にも
刃を向けることなく、
遠い東洋にある日本人に
刃を向けるのが容易だった
からでしょう?
でも、ジャズを聴くには、
いちいち、黒人文化について
深い理解やジャズ愛を
持たなきゃならないの?
と言いたくもある。
私たち日本人は、
サイデンステッカーや
ドナルドキーン博士らが
谷崎潤一郎の『細雪』や
三島由紀夫、安部公房の
文学研究を、嫌な顔ひとつせず
有り難く拝聴してきたじゃないか。
まあ、もうマルサリスの
炎上発言から29年がたつ。
村上春樹のエッセイからも
それくらい歳月が過ぎた。
私一人が、このエッセイを読んで
いつまでも異様なモヤモヤを抱えても
仕方ないですね。
さて、村上春樹は
結論的には、どんな考えに
落ち着いていたのか?引用します。
「マルサリス言うところの、
なんにも理解していない観客の中から、
必ず何人かはジャズを理解しようと
努める人々が出てくるのだと思う。
そしてそのようにして
音楽のポテンシャリティーは
大きく膨らんでいくはずだ。
そういう力の存在を素朴に
信じるところから、
本当の音楽の価値というものは生まれ
出てくるのではないか。
僕はそう信じている…」。
村上春樹の初期のエッセイにしては、
まるい着地に感じますが、
私はこのエッセイを何かある度に
読み返してきました。
これからも、読み返すでしょう。
エッセイと呼ぶには
奥の深い異文化問題だからです。