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【三島】三島由紀夫、自決前の予言メッセージ

2025年、明けまして
おめでとうございます。

今年は三島由紀夫の生誕100年に  
あたる年ですね。
 
100 年前に生まれていた人か、
と思うとなんだか違和感がありますね。
遺された写真たちが、 
どれも若々しいし、 
不思議なことに、どの作品も
現代日本にあって、
ちっとも古びていないですね。
不思議だ。
そんな人が生誕100年前生まれか?

やけに目の鋭い、
脂の乗った作家が
100年前に生まれたということに
脳みそがなんだか合点しない。

三島由紀夫がちっとも古びないのは
なぜなんでしょう?
今年はこの謎に迫りたい。

今年は毎週一度は、
「三島由紀夫はなぜ古びないのか」
という謎について記事を書いて
いきたいと思います。

さて。
まず思いつくのは
三島由紀夫はひとえに、 
超人的な作家である以上に
明晰な批評家だったことです。

三島は、文学論、作家論、政治論、
古典芸術論、恋愛論、スポーツ論、
文明論など、さまざまな評論を
残しましたが、
恋愛論とスポーツ論はともかく(笑)、
文学論や芸術論などは
とにかく鋭敏なんです。

そのような鋭敏な批評眼が
社会に向かう時のまっとうさは
今も耳を傾ける価値があると思います。

三島由紀夫が日本の未来について 
予言したメッセージがあります。 
三島が自決する1970年の夏、
7月7日のサンケイ新聞に掲載されました。
その4ヶ月後に三島は市ヶ谷の
自衛隊総監室で、割腹自決を決行しました。
何度読んでも、読むたびに刺さります。

そんなメッセージの一部を
ご紹介いたします。
短くした切り取り文が 
ネットのあちこちで紹介されてますが、
なるだけ、切り取りをせず
全体を読んで頂きたく、
長い引用になります。 

「果たし得てゐない約束――
恐るべき戦後民主主義」より引用。 

「私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。 
〜略〜
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」。

無機的な、からっぽな、 
ニュートラルな、中間色の、
富裕な、抜目がない、経済大国と
たたみかける皮肉と失望感。

ただ、三島が生きた時代は日本は
まだ経済大国として富裕さを維持して
いくと予想されていたのですが、  
それはハズれましたね(汗)。

でも、他の見通しは
当たっているように思われます。

いいや、まだあります。
「ニュートラル」というのも、
今の日本には当たってないかな。
やや右傾化しているから。

三島が生きて、
この日本の姿を見たら
なんて感じたでしょう?
なんて思ったでしょうか? 
それを教えて欲しいなあ。

そのためにも、今年は
一つの一つの作品を丹念に
読んでいこうと思います。

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