【読書】エッセイは小説より下って暗黙のルール、ないですか?
初めて、エッセイを読んだのは
いつだろう?
エッセイと認識して読んだのは
いつだろうか?
これは小説でも評論でも
戯曲でもなく、
エッセイだとわかりながら
読む最初の体験って、
いつなんだろう?
案外、覚えてないですね。
高校では国語の「現代文」で
作家のエッセイみたいな文章は
かなり読まされますね。
小林秀雄、唐木順三、竹山道雄、
加藤周一、丸山真男、
丸谷才一、中村光夫などなど。
でも、学校の授業や
受験のテストで出会う作品は
解くために必死だし、
きちんと味わっては
いなかったですね。
エッセイとよく似た分野で
コラムというのがありますね。
コラムなら、朝日新聞の
「天声人語」はよく読んでたから、
あれがエッセイ?との最初の
出会いだったかもしれない。
エッセイとコラムは
どう違うでしょうか。
今、ちょっと調べたら
あまり変わらないらしい。
いや、コラムニストは
エッセイストより
テーマによる分析力や
表現力が上って感じが
あるかなあ。
太宰治の『富獄百景』は
文学的エッセイと呼べそう。
さて、初めてエッセイとして
自覚して読んだのは、
宮本輝の『命の器』かな?
作家・宮本輝が語る
生い立ちや創作秘話は
すごく面白くて、
それ以来、エッセイに
ハマってしまった気がする。
以来、しばらくは、
小説家が裏側を明かす体裁の
エッセイを読み出したんです。
ただし、よい作家だからって、
上手いエッセイを書けるって
訳ではないんですよね?
星新一なんて、
ショートショートはめちゃ
上手いのに、
エッセイとなると、
文章に情緒がなくて、
あまり上質のエッセイとは
呼びにくい。
大江健三郎も、
小説は凄い作品を書くのに、
エッセイとなると、
途端に正義感の塊となって
詰まらない感じがする。
最近では、森見登美彦や
辻村深月さんは
小説は発想がどれも面白いのに、
エッセイはなんだか、
ただの作文になるんです…。
エッセイを上手く書く作家、
書けない作家って違いは、
あるようです。
私が一番最初にエッセイで
小説を越えるレベルに
陶酔させてくれ、衝撃だったのは、
向田邦子の『父の詫び状』でした。
大学三年か四年の頃。
冒頭のフック、
伏線の回収、
記憶の鮮明さ、
構成の見事さ、
これらは今まで読んできた
作家の裏事情を明かす
タイプではなく、
既に完成した世界観でした。
それに、向田邦子は
最初にエッセイを書いて
注目を集め、人気となり
後に小説家になった人でした。
創作の裏事情を明かすタイプと
そもそも違う訳ですね。
それから、他のエッセイも
読みまくりました。
幸田文、須賀敦子、
塩野七生、森茉莉、
川上弘美、角田光代、
三浦しをん、川上未映子。
この人々は、
須賀敦子さん以外は
本業は小説の創作ですね。
エッセイは基本、
副業的に書かれる場合が
多く見られますね。
昔、江國香織さんに、
小説は大変でしょう。
だからまずはエッセイで
お願いできませんか?
とオファーしたら、
それは「エッセイ」に
失礼ですよ(笑)?と
言われて衝撃でした。
でもエッセイはエッセイで
小説とはまた違う脳の
働かせ方をするから、
小説が上とか
エッセイが下とかは
ないんですよね?
私は漫画編集者時代も
エッセイが好きで
漫画家さんにエッセイ漫画を
依頼してばかりでした。
どうしてだろう?
出版社では、
編集も販売も
物語が上等で、
エッセイは下で、
という暗黙のルールが
あるんですが、
私にはエッセイは一番。
それは今も変わってないですね。
エッセイは書く人の
生の声が味わえるから
魅力的なんです。