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#23理学療法士の中国リハビリ記録【深い呼吸の先に。ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者さんとの出会い】

南京のリハビリ施設で理学療法士として働くようになって一年が過ぎた春の日だった。その日、受付のスタッフが困った表情で僕の元にやってきた。

「ALSの患者さんがいらっしゃっています。」

ALS(筋萎縮性側索硬化症)。神経が徐々に機能を失い、筋力が衰えていく進行性の病。

受付の声に、僕は頷きつつも不思議に思った。通常、難病の患者さんは大型の公立病院に行くだろうと思ったからだ。

来訪者

応接室に入ると、50代の女性と30代半ばと思われる息子が座っていた。女性は驚くほど穏やかな表情で微笑んでいたが、その体の動きには目に見えない制約があるように感じられた。首の筋力が衰え、頭部は項垂れていた。

息子の方は少し緊張している様子だ。

「どうも先生。母がALSと診断されてから、どこでサポートを受ければいいのか分からなくて……力になっていただけるかと思って来ました」

息子の言葉には、少しばかりの期待と焦りが混じっているように思えた。

「お母様の症状について、少しお伺いしてもよろしいでしょうか」

僕はできるだけ穏やかに問いかけた。女性は少しうなずいた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「上海の病院で診断されたのは一年ほど前です。まだ歩くことはできますが、最近手足の動きが鈍くなってきました」

話すスピードはゆっくりだが、発音が少し不明瞭になっている。呼吸筋が弱まり始めている可能性があった。

「少し息が苦しそうですね」と僕。サチュレーション(経皮的動脈血酸素飽和度)は93%だった。顔中に汗が滲み出て、彼女はハンカチでしきりに拭う。

女性はゆっくりとベッドに横になった。

「息苦しさを感じることもありますが、なんとか会話もできますし、まだ元気だと思っています」

「他に辛い症状は?例えば首が痛いとか」と僕は尋ねた。

彼女はうなずき、以前から頸部の痛みがあり、それがきっかけで受診したところ、ALSだと診断されたのだそう。

僕は日本で働いていた頃、数名のALS患者さんに介入したことがあった。誰もがみな、初期症状に頸部痛を感じていたのを思い出した。

断念という判断

話を聞くうちに、僕の中で次第にある結論が固まりつつあった。この施設では彼女らの期待に応えることが難しい。それが僕らの見解だった。しかし、結論を伝えるには、彼らが納得できる説明が必要だった。

「お話を伺う限り、まだ日常生活を維持する力は十分にあると思います。ただ、ALSという病気は進行が予測しづらく、症状の変化に迅速に対応する体制が重要です」

僕は彼らの表情を見ながら、慎重に言葉を続けた。

「当施設は、主に一般的な脳卒中や脳性麻痺といった限られた疾患にリハビリを提供する場です。ALSの場合、専門医や多職種のチームがある病院でリハビリすることを勧めます」

息子が不満そうな表情を浮かべた。「でも、母はまだ動けます。リハビリで回復する可能性はあるでしょう?」

「確かに、現時点では動作訓練が効果的かもしれません。しかし、ALSの場合、無理な運動が筋肉への負担を増やし、かえって病状を悪化させるリスクがあります」

僕は一度言葉を切り、息子の目をまっすぐ見た。

「専門的な診療チームがいれば、お母様の体調の変化に応じて適切なプランを作ることができます。この施設ではそのような即時対応が難しいのです」

女性は静かに話を聞いていたが、やがて口を開いた。「つまり、ここでは私を診るのは難しいということですね」

その言葉には怒りや失望があるように感じた。でもそれ以上に、覚悟の意が込められているようにも思えた。

去りゆく背中

最後に僕は、ALS患者を受け入れている近隣の専門機関の情報を手渡し、丁寧に説明を加えた。それが、僕にできる精一杯のサポートだった。

彼らが施設を後にする姿を見送ると、胸の奥に重い感情が広がった。患者として訪れてくれたにもかかわらず、その期待に応えることができなかった。

『今やれることを提供すべきなのではないか』といった声も院内の一部にはあった。それでも、他院へ紹介した判断は間違っていないと思う。

深い呼吸の先へ

数日後、彼らが訪れた専門機関で診療を受け始めたとの連絡が入った。医療チームが迅速に動き、在宅ケアの計画が進んでいるという。

あの日、女性が深く息を吸い込む姿が脳裏に浮かぶ。彼女はきっと、病気と向き合いながら前に進む覚悟を、心のどこかで決めていたのかもしれない。

家族との話は1時間ほどだった。
日本から持参していた教科書を要約して中国に訳した。
僕は改めて、この本に救われた。

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JUNYA MORI
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