読書記録6:デリーロ、オースティン、
「物語 哲学の歴史 ;自分と世界を考えるために」(中公新書 2187)伊藤邦武
第3章「言語の哲学(20世紀)」、第4章「生命の哲学(21世紀へ向けて)」が特におもしろい。とりわけ、ジェイムズ、ベルクソン、ドゥルーズに至るストーリー。個人的にはドゥルーズに関して、本書における数ページの記述ほど、腑に落ちたものはないという気がする。たびたび読み返している。10
「生首に聞いてみろ」(角川文庫 の 6-2)法月綸太郎
真夜中の図書館電子図書サービスにて。法月綸太郎は初めて読んだ。結構おもしろかった。個人的には「御殿峠事件」とかマニアックなところを突いていて、のけぞった。他のも読んでみたい。
「「因果関係を逆にして、予告殺人を捏造しようとしたってことか」飯田才蔵がやっと理解したように言った」6
「狗神」(角川文庫)坂東眞砂子
真夜中の図書館電子図書サービスにて。高知の山奥の憑きもの(狗神さま)のお話。
「日本の憑きもの」(中公新書)でも、高知(の別の場所)の憑きものの話が出てきた。その本によると、憑きものがいるとされる家の多くには、裕福という特徴がある。世間はその家に財産が集まることを、憑きもののせいとみる。世間は裕福さに対して、さまざまな感情をもつ。憑きものには、そうした感情を安定させる「ガス抜き」作用もある、と解釈される。
このような現実的な背景を知ると、さすがにこの猟奇的な結末は相当偏っていると思う。別の結末はなかったか。5
「マーティン・ドレスラーの夢」 スティーヴン・ミルハウザー
何か「とてつもないもの」を作りたいと考える人間の、欲望の物語。ホテルであれ美術館であれ、突き詰めていくとキッチュに陥ってしまう例は、現実としてしばしば目にすることがある。欲望(あるいは繁栄)が、なぜそういう方向に進んでいくのかについて、考えさせられる。
主人公はビジネス書と実用書しか読まない人、ちょっと変な奥さんは小説を読んでも読み切ったためしがない人、という人物設定は、いわくありげである。7
「呪われた腕;ハーディ傑作選」(新潮文庫)
巻末の村上・柴田対談での、小説家が小説をどのように読むかが興味深い。
「ハーディは風景がまずあって、そのなかに人がいる。人が風景に負けているんですよね。負けているというか、組み込まれてしまっているというか。オースティンにしてもディケンズにしても人が立っている。キャラクターが立っていて、みんな自分を表出するんだけど、ハーディの描く人物は自分を表出しようなんて気がない。その辺がイギリス的だと思うし、はまっちゃうんだよね」と村上氏。
学生時代に泣きながら読まされたハーディ。短編を読んだのは初めてかも。とてもよかった。7
「地球温暖化で人類は絶滅しない;環境危機を警告する人たちが見過ごしていること」マイケル・シェレンバーガー
電力に関しては発展途上国の石炭による火力発電、先進国の原子力発電の活用は避けがたいという結論。「日本の」原子力発電について、わたしは倫理的・科学的に廃止すべきと考えているが、CO2排出の問題だけに絞れば、一概に廃止の結論が適切かと迷う。
地球環境に関する公的な報告書から、ある人々は自分に都合のよい「真実」を読み込み、マスコミや営利企業はそれを過度に拡散するというサイクルは確かに存在する。
およそ人間は、一度手にした便利さを手放すことができない。「賢い」人類は絶滅しないが、北極熊は絶滅するだろう。6
「抹香町・路傍」(講談社文芸文庫)川崎長太郎
川崎長太郎の小説は何を読んでも「どこかで読んだ」感がハンパない。「徳田秋声の周囲」もそのひとつだが、徳田秋声という人、愛人の山田順子という人物が冷徹に描かれていて、また川崎長太郎(本名で登場)自身も曝け出されているのは、私小説家として見事なのであろう。
さまざまな背景があるにせよ、小説を書くとは実生活を書くことである、というきわめて単純かつ異様な枠組みが、ひと頃の日本語の小説家たちによって信じられていたことは、なんだか可笑しい。5
「コズモポリス」(新潮文庫 テ 25-1) ドン・デリーロ
散文詩のような文章だが、決して読みにくいわけではない。しかし、Yenでendを迎える主人公らに対しては理解も共感もできないし、死を迎える肉体を前にして「なんてこった」とかつぶやくのは、いい気味だと思う。
肉体を通して生の実感を得るとか、死によって生を捉えるといったことが本書のテーマであるならば、そもそも主人公は職業を間違えているのでは、という疑念がぬぐえない。金と欲に目が眩んで本当に自分が望むものを見つけられない愚か者を生み出すのが現代の資本主義の特性である、なんてことを著者は書きたかったとか?? 3
「風媒花」(講談社文芸文庫)武田泰淳
以前に読んだときは武田百合子に興味がなかったので、「蜜枝」が百合子がモデルと知ったところでどうもなかったが、百合子のことを知った今では、仕事や生活の事柄、そして行動や思考のパターンに諸事符合するところがあるようで可笑しい。
モデルとはいえ、また一夜とはいえ、自分の妻が身体を売るように描くとは武田泰淳も罪深いが、なるほどそれが武田泰淳なのであって、そんな蜜枝がいるといないとでは、本書の深みに雲泥の差があると思う。
宮本百合子は実名だが、中野重治は微妙な変名(ながのもとはる)で登場している。何か意味があると思う。7
「嵐が丘」(新潮文庫 フ 5-3)エミリー・ブロンテ
真夜中の図書館電子書籍サービス。安心の読書。おばさんによる二つの屋敷をめぐる流麗な語り、それを聞き、二つの屋敷を理解しつつかかわっていく青年の語り、という二重構造が、意外に効いているように思った。8
「禁酒宣言;上林暁・酒場小説集」(ちくま文庫 か 30-1)
女性にふられた「私」は、「取着く島がなくて、へたへたと、地にへたばるように、かがみ込んでしまった。私は頭を抱えて、空ら泣きに泣いた。どうしたわけか、いつも悲しみが極まる時は、私は涙が出なくて、空ら泣きに泣く習わしである」といった「甘っちょろ」が、上林暁を躊躇させるところなのだが、本書は酔っ払いの楽しく哀しい記述が多く、身につまされつつ安心して読んだ。
中公文庫「文と本と旅と」の編集は、本書編集を引き継いでいるようだ。井伏鱒二は酒癖の悪い上林に、店で酒を呑む時は常に一見客のつもりで呑め、と言った。金言。7
「大丈夫な人」(エクス・リブリス) カン・ファギル
朝日新聞の書評で金原ひとみ氏が「デフォルトマン」について言及していて、読む。
訳者あとがきによると、著者は自分の小説について「内容の結末よりも感情の結末を強調する」のが特徴、と言っているそう。たしかに物語の結末はあいまいでも、読み手の不安定な感情は異様に盛り上がる。なかにはプロットや登場人物が不明なものもあり、より不安定感が増す。
「大丈夫な人」とは、自分の価値観がデフォルト(初期設定)であることを疑わずに考え、行動する人。つまり、付き合うと厄介な人。そういう人にはこの小説は届かなさそう、という残酷な現実。6
「風貌 姿勢」(講談社文芸文庫)井伏鱒二
「ぼくは太宰の作品も好きであるが、人となりをまだ好きであった。太宰は小説が書ける。ぼくは小説の書ける人が好きだ」p119。
井伏鱒二は無類の小説好きである。小説を書くのは人である。ゆえに、小説を書ける人が好きになる。太宰だけでない。例えば正宗白鳥、森鴎外。岩野泡鳴、梶井基次郎、中野重治など、すぐれた小説を書く人を尊敬し、その秘密を井伏なりに探究する。その「小説オタク」ぶりに、感動した。
本書の幾編かは福武文庫の「文士の風貌」に収載されていたと思う。小説好きにとっては、読み応えのある、尊い本である。9
「JR上野駅公園口」(河出文庫)柳美里
自分なら、とか、こうすれば、とか容易に言うことができない、厳しく哀しい物語。その一方で、「天皇制」の、少なくも日本人の内側にいると見えない/見たくない要素が、周縁からは露わに見えることが、物語の屋台骨を支えている。
「いつも居ない人のことばかりを思う人生だった。側に居ない人を思う。この世に居ない人を思う。それが自分の家族であるとしても、ここに居ない人のことを、ここに居る人に語るのは申し訳ない気がした。居ない人の思い出の重みを、語ることで軽くするのは嫌だった。自分の秘密を裏切りたくなかった」p102 6
「人生の哲学」(角川ソフィア文庫)渡邊二郎
本書で繰り広げられるテーマは、「生と死を考える」「愛の深さ」「自己と他者」「幸福論の射程」「生きがいへの問い」の5つ。放送大学での講義がもとになっているので、さまざまな背景をもちながら社会で働いている人が、読者対象である。
「人生」にかかわる5つの側面について、古今東西の哲学を端緒としつつ、渡邊二郎の哲学が展開される。その内容は、きわめて深い。愛を知り、死を知り、やがて生きがいや自分自身の存在を問わざるをえなくなる「ひと」にとって、大切なことが書かれている。何度も読み直すことができる名著だと思う。10
「アンダーワールド 上」ドン・デリーロ
野球、ゴミ、核兵器。物語の舞台は1951年を発端とし、1992年春~夏、1980年後半~1990年前半、1978年春、1974年夏へと遡行していく。後半へ続く。7
「冬物語」(白水Uブックス(35)) シェイクスピア
読んでいていくつか疑問点が出てきた。その1つ「ボヘミアに海岸や砂漠があるのか」は、英語版Wikiによると、このストーリーにはPandostoというネタ元があり、そこではボヘミア王とシチリア王の役割が逆で、王女が流されるのは海岸と砂漠のあるシチリアである(つまり、S氏が見逃した?)。このほかにもさまざまな説があり、みんな疑問に思って理屈づけているのがおもしろい。
デルフォイの神託も時代的に唐突。異教的情緒のシチリアを表象する素材として引用されているのか。なんでもありな、当時の英国劇の状況が想像でき、おもしろい。6
「交尾」(Kindle版)梶井基次郎
「「交尾」を読んで私は生易しい姿ではないと思った。脱帽したい気持であった。この気持は長く尾を引いて、短篇集「檸檬」が出たので私は「交尾について」という感想文を「作品」に出した。未だに同じような気持を寄せている。崎山君の流儀で云えば、川瀬の音には触れてなくっても、川瀬の音を湧き起させている作品である。」と、井伏鱒二は言っている(風貌 姿勢、講談社文芸文庫、p220)。な
んともぬるりとした(白猫の肌の、渓流の石の苔の)感触の小品。8
「悪霊(1)」(光文社古典新訳文庫 Aト 1-11)ドストエフスキー
物語の幕開け。まだ事件は起こらない。長い長い滑走路を物語は進む。7
「悪霊(2)」(光文社古典新訳文庫 Aト 1-12)ドストエフスキー
物語の背景にあるもの。ドイツとフランスへの畏敬。そしてロシアの自己卑下。
「偉大なロシア」となるために、宗教を基盤にした帝国主義、または無神論を基盤にした社会主義を実現せんとする19世紀後半の欲望。西欧への畏怖と自己卑下、そしてその克服は、現在のロシアにもつながるきわめて根深い民族的問題なのであろう。
物語の舞台は、混迷が待ち受けているであろう「祭り」へと続く。おもしろくなってきた。8
「悪霊(3)」(光文社古典新訳文庫 Aト 1-13)ドストエフスキー
「人間は誰もが誰かに対して罪をもつのだから、許し合えばいい」というシャートフやステパンの考え方に対して、「理想のためには皆が力を合わせるべきで、時には互いに監視し、粛清すらも許される」というピョートルの考え方の対比。
ピョートルはネチャーエフがモデルであり、目的のためには手段を選ばないという考え方は、やがてレーニン(ボルシェヴィズム)へ、そして極東の山岳ベース事件などへつながっていく。
悪霊に乗り移られた豚たちが、崖から湖に落ちて無惨に死んでいくという「ガダラ(ゲラサ)の豚」のエピグラフが効いている。9
「イリノイ遠景近景」(ちくま文庫 ふ-54-2)藤本和子
盗み聞きするとか、噂話に加わるのは、生活に彩りを加える。そのとき、できれば節度をもって、自分を保っておいたほうがいい。するとそれらは、ブンガクの発端にもなりうる。藤本和子さんの耳は素晴らしい。わたしもまた、猛烈に盗み聞きがしたい。7
「高慢と偏見 上」(岩波文庫 赤 222-1)ジェーン・オースティン
一人一人のキャラクターが明確であること、エピソードが無駄なく積み重なることなどによってか、物語の前進力がすごい。おもしろい。8
「高慢と偏見 下」(岩波文庫 赤 222-2)ジェーン・オースティン
物語がよい方向に終わってくれてよかったと思いつつ、なんとなく物足りなさを感じてしまうのは、オースティンの時代から現在までにつくられたさまざまな悲惨な物語に、やたら馴れてしまったからかもしれない。
安定感が半端ない。おもしろい。今日は、これまでオースティンを読んでこなかったことを後悔したい。8
「日陰者ジュード 上」(中公文庫 ハ 10-1)トマス・ハーディ
ジュードは向学心に燃える貧しい男。自分なりに勉学に励んでいたが、女の誘惑に容易に屈し、妊娠をほのめかされ、騙されて結婚する。やがて女はジュードのもとを去る。この時代、離婚は簡単ではない。ジュードは今後、新たな女を愛し、結婚することの可能性が奪われた。
一方、ジュードの置かれた環境、および彼自身の知性レベルでは、彼が望む学究生活は得られない。意志が弱いわけではない。望みが高すぎるのだ。ゆえに外因的にも内因的にも阻まれる。気の毒な男である。
誰もが身につまされるところがある、だから、長く読まれてきたのだ。7
「日陰者ジュード 下」(中公文庫 ハ 10-2)トマス・ハーディ
過敏な感受性と進歩的な考え方をもち、世間的な道徳に過度に反応するスー。彼女を熱烈に愛し、その考え方に影響されるジュード。二人は分別のない曖昧な生活を続け、やがて破綻を迎える。女はそれを「自分が正義に反していたから」と考え、男から離れていく。
学生時代に授業で読まされて以来の再読だが、やっぱりジュードとスーとのやりとりにはイライラする。自然主義文学は、当時の社会背景を抜きにして語れないところに弱みがある。建造物や環境の描写が細かいのは、ハーディが建築家だったせいか。
そして、またもや「ヨブ記」が顔を出す。7
「ある男」(文春文庫 ひ 19-3)平野啓一郎
人格は「遺伝要因と環境要因の”相互作用”で決定される」こと、「すべて自己責任などというのは愚の骨頂」であることは、極めて確かである。しかしおよそ人は、誰が親か、どこの出身か、といったことに極めて敏感で、ある状況ではそれが過度に噴出する。
これは社会や家族の仕組みのようなもの。だから、そんな仕組みが作動しないように、みんなが気長に繰り返し努力することが大切である。
ただ、こうした考え方は、自分を疑うことを知らない無垢な人には、ほぼ届かないと思う。でも、悲観的にはならない。「3勝4敗」でいいんだから。7
「自由研究には向かない殺人」(創元推理文庫 M シ 17-1) ホリー・ジャクソン
英国の女子高校生が大学受験の準備の傍ら、殺人事件を解決するストーリー。
現在のミステリー小説では、主人公が一時的にであれ「危機」に陥ることは、必然的な成り行きであるけれど、これを創出するには、「無理」を引き入れざるをえない。例えば、これほど聡明な(聡明すぎる?)ピッパが、自ら調べている事件に関する不確定な要素を、たとえ親友にであれ、漏らすはずはない。しかし、漏らさなければ、ピッパに降りかかる「危機」は広がりや深さをもたなかった。
などということは、とてもおもしろかったので、逆に気になってしまった。7
「語らざる者をして語らしめよ」 高橋睦郎
高橋による日本の神神の口寄せ。以下は抜書き。句読点などは勝手に加えているのでオリジナルではない。
●逃げても逃げても行く手に先まわり。 忘れようとしても夢の中に待ち伏せ。このいたるところにひそんで私たちをいつか支配している顔のない者らは誰。彼らがどうしても語らないなら代りに私たちが語ること。彼らに語るための口がないなら代りの歯と舌になること。語らざる者をして語らしめよ。闇をして闇のまま立たしめよ。(p7)7
「説きふせられて」(岩波文庫 赤 222-3) ジェーン・オースティン
8年前に周りから説き伏せられて、軍人ウェントワースとの結婚を諦めたアンが、改めてウェントワースと出会い、結婚に至る物語。この8年の間に戦争が続き、軍人への尊敬が高まり、また私有財産が増えた背景が、物語に精妙に落とし込まれている。
家族や周囲の人々を観察する冷静な目と、それを表現する言葉の確かさが素晴らしく、戸口で聞き耳を立てているかのようなときめき(?)を覚える。
原題のPersuasionの翻訳は、「説得」よりも「説き伏せられて」のほうが、センスがいいと思う。おもしろい。8
「ヴィーコとヘルダー;理念の歴史・二つの試論」 アイザィア・バーリン
ヴィーコもヘルダーも、19世紀の「歴史学」が始まる前に、科学的分析と歴史的分析が異なることを発見した。科学とは異なり、歴史のなかではさまざまな動機や目的が絡み合って、思わぬ結果がもたらされる。したがって歴史的分析においては、それらを感得する「審美的能力」が必要であって、それは、科学において知識を発見する能力とはおのずと異なる。
本書はバーリンの1950~60年代の講演がもとになっている。出版されたのは1975年であるから、意外に新しい。
19世紀に比べれば18世紀はいい時代。ちょっと前に再読。7
「現代アジア論の名著」(中公新書)
中公新書の「~の名著」シリーズは大好物。1992年発行でしばらく前に再読。若干内容が古く感じられるのは、世界の、とりわけアジアの発展がものすごいスピードで進んでいるからである。
とはいえ、ナショナリズムの起源を直視するアンダーソンの「想像の共同体」は、ますます重要になっていると思うし、一方で、前嶋信次さんのような学識豊かな学者の本は、今後も大切に読みつがないといけないと思う。掘るべきところはたくさんある。6
「エマ」(中公文庫 オ 1-3)ジェーン・オースティン
「高慢と偏見」「説きふせられて」と読んでのオースティン3冊目。主人公エマはなかなかに凡庸な人物であるが、凡庸さにおいては周囲の登場人物がエマを上回る、という不思議な設定。
エマがナイトリーの言葉をきっかけとして、徐々に自分を省みるようになり、やがて結婚へと向かうことが物語の柱である一方、自分好みの女をつくらんと目論むエマ(光源氏かっ!)に結婚を差配されるハリエットの重要なエピソードが、物語の最初と最後に配置されていて、いいバランスを保っている。
エマにツッコミを入れつつ、なんだかんだ、最後まで楽しかった。8
「陸援隊始末記;中岡慎太郎」(中公文庫) 平尾道雄
高知・奈半利のさる有名な植物園は、中岡慎太郎の生家にほど近いところにある。ということを、その植物園に行って知り、維新期にさほど興味はないもののこれもなにかの縁と、本書を読んだ。
坂本龍馬の海援隊、中岡の陸援隊という言葉しか知らないくらいだったが、中岡が敵味方なく信頼を寄せられた人物であり、薩長同盟に関しては坂本と表裏の役割を果たしていたらしい。
中岡の生家付近の山道は、高知と京都方面を徒歩で向かう交通の要所である。土佐藩士の多くがあの道を通って脱藩したのだと思うと、ぐっとくるものがある。6
「エロス論集」(ちくま学芸文庫 フ 4-2)フロイト
結局のところ、フロイト以前において、性欲とかエロスとか欲動といった概念が示す現象は、単に忌み嫌われ、隠されるものであって、この世界には「存在しない」も同然であった。フロイトは、世間から批判されながら、それらの現象を実験的・論理的に考え、言語化・概念化した。
現代においてすらわたしは、肯定的であれ否定的であれ、フロイトの概念なしに、わたしの性器、性欲、性愛を考えることができない。フロイト先生の発明が、それ以降の文化に与えている影響の、なんと凄まじいことか! 8
「私の文学史;なぜ俺はこんな人間になったのか?」(NHK出版新書 681)町田康
「文章がうまくなるには本を読む以外に方法はない」とか、「文体に関して誰かの影響を受けることを恐れない」「オリジナルなどという傲慢なことを考えない」という考え方は、まったくそのとおりだと思う。
また、詩を書く場合に、「自分の生と死という途轍もない事件」にこだわり、かつ技術的に上手になって大仰な詩をかくようになるとつまらない、というのも、確かにそのとおりでございます。
萩原朔太郎の「氷島」から詩が引用されたり、井伏鱒二への言及があったりと、わたしの大好物が並んでいて、とてもうれしかった。6
「波〔新訳版〕」ヴァージニア・ウルフ
解説に「モダニズム文学の極北」とある。極北とは、人が容易にたどり着けない寒い場所。ウルフの夫が言うように、100ページを越えると、ようやく極北スタイルにも慣れ、やがて読み終われば、少なくとも、奇特な場所にたどり着いたという達成感は、味わえた。
ウルフは本作を劇詩と読ぶ。詩は空白を読むもの、言うことによって言わないことを浮かび上がらせるもの、と誰かが言った。一方、ここにある詩は、きわめて饒舌である。5
「ボディ・アーティスト」(ちくま文庫 て 11-1)ドン・デリーロ
少しずつ物語の世界に引き入れられていくが、どこに連れていかれるのかはわからない。最後までたどり着くと、あたかも映像が逆再生されていたかのような印象。そういう構成を、詩的ともいいたくなる寡黙な言葉で組み立てるのは、並外れたことではないだろうか。おもしろい。8
「思い出トランプ」(新潮文庫) 向田邦子
何となく、何度目かの再読。描かれている昭和の夫婦のありようは、懐かしいような、怖いような。
子どもの頃、家にあって読んだ。よくわからなかったのは当然で、成人してから読んでもよくわからず、今となっては、わかるわからない以前に、もどかしく、不安になる。またいつか読むと思う。6
「死と歴史;西欧中世から現代へ」 フィリップ・アリエス
例えば、西欧において「死に際して許容される悲しみの表現」は、13世紀までは激情爆発、その後18世紀までは儀礼化して抑制的、19世紀にロマン主義的な悲嘆による高揚があり、20世紀はまた抑制に戻る、という。
ジョンズ・ホプキンス大学での連続講演「死を前にしての態度」では、「飼いならされた死」の状態(人間と死が親しい状態)から、「己の死」「汝の死」が見出され、やがて「タブー視される死」へと至る西欧における死の受容の変遷が、明快に述べられている。
西欧とアジアの文化の違いは差し引いても、教えられることは多い。7