― 有 島 ■ 月 ―
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人の記憶を消すのは疲れる。
体力を使う割に、たいていは徒労に終わる。
有島残月はフルフェイスのヘルメットを脱ぎ、金色のツイストパーマヘアを軽く掻き上げ、ため息をついた。
横須賀の離島で、心理学生ばかりが集められた脱出ゲームが行われるらしい――その噂を知らされたのは、ゴールデンウィークが始まる少し前、やたらと風が強い日だった。
他人の記憶を消す能力がある残月は、警察庁の特別捜査官として、秘密裏に捜査をしている。
この特殊能力を買われて特別任務に就き、早十年。
各都道府県警はもちろん、公安にも残月の存在は隠されており、警察庁上層部の数人しか知らない。
残月の能力は、法を超えた捜査ができる。
我が国では、自白を強要するのは法律に反するが、記憶を消すことは禁じられていない。
当然だ。そんなことができるのは、この世でただひとりだけなのだから。
昼も夜もない気ままな無職の男を演じながら、ときたまもたらされる情報を頼りに、捜査へ赴く。
情報提供者はいつも違う。警察上層部の人間だろうが、相手も素性を隠している。
今回のこの情報は、皇居ランナーに混じって桜田門から竹橋へ軽く走っていたところ、通行人に紙切れを押し付けられた。
内容を見た残月は、二十五年前に死んだ父が関わっていると直感し――その紙切れを、近くのコンビニのゴミ箱に捨てた。
夜の離島、電灯も無い岩場に水上バイクを係留するのは、やや骨が折れる。
停めようと目算をつけていた場所に、先客の水上バイクが停まっていたのは笑った。
警視庁捜査二課・不破修平警部補。
事前の調査で、趣味は海と車とバイクだとは知っていたが、まさか同じ手で乗り込んでくるとは。
不破警部補は、残月の双子の弟である有島雨月に、しょっちゅう捜査協力を仰いでいる。
水上バイクの上にくくりつけられたヘルメットはふたつ。
乗り合いの相手はやはり、雨月だろうか?
いや、心理学生が集められているという時点で、雨月も伴って来るだろうとは予想していた。
これまで、捜査先で何度もニアミスをしてきた、生き別れの弟。
雨月は残月が生きていることを知らない。
必死に自分を捜してくれているのが、愛しくもあり、苦しくもあった。
今回もきっと、ここに居ると告げることもできずに、そっと捜査を終えて別れることになるのだろう。
残月は、単独行動をしていた女子学生に声を掛けた。
名前は川瀬のぞみというらしい。
軽く記憶を消したすきに、ゲームに必要な端末や道具一色を観察する。
ルール説明を聞くまでもなく、適当に問題用のアイテムを蹴散らして回れば、学生参加者に邪魔されることなく捜査ができると分かった。
幸いこの女子学生は、大きな謎のほとんどを解いて回っている。
名前も中性的で、成り代わるのにはちょうどいい。
残月の狙いは、二十年以上前に起きた『西東京就労センター事件』だ。
所長として逮捕された堤宏之という男が、現在残月が追っている国際的組織犯罪に関わっていると思われる。
堤本人がこの島に来ている可能性は低いが、調べる価値はあるだろう。
残月は川瀬のぞみを岩場へ連れて行き、改めて記憶を消して、あとから来た警察用船舶に預けた。
そして、海辺のテントで待機する女性スタッフの記憶を消し、明るい調子でこう言った。
「京橋大学三年の、川瀬のぞみです。お水をいただけますか?」
スタッフ全員の川瀬にまつわる記憶を消して名簿を改ざんしたあと、残月は島内をめぐった。
LEDテープで照らされた道を避け、暗闇の中を移動しながら学生の話を盗み聞き、情報を集める。
皆楽しそうだ。心の底からの笑顔。
自分には無かったものだと思う。
幼いころの残月は、自分の能力は誰よりもすごくて強いのだと、信じて疑わなかった。
友達と喧嘩しそうになったときは、都合が悪くなりそうな部分を、ほんのちょっと忘れてもらえばいい。
ほとんどの争いごとは、起きる前に解決していた。
元々愛想がいい自覚はあったし、卒なく生きて、まあまあ楽しくやっていた。
それでも、遺してきてしまった双子の弟のことを思うと、心底楽しくなれたことなんてほとんどない。
いつも心のどこかで引っかかり続けていた。
きっと自分がいないせいで、雨月は苦しみ抜いているだろう。
ひょっこり現れて『ごめんごめん』と言ってしまえば済む話だが、職務上それはできない。
父親の事件を解決するまでは、会えない。
事件の全貌を解決することが、雨月に対する、自分なりのけじめのつけ方だとも思っていた。
こんな感傷に浸りたくないのになと思いながら、崖の間の切り通しへ入る。
角を曲がりかけた、そのときだった。
「……雨月先生?」
振り返ると、質素な服に身を包む女子学生が立っていた。
月明かりのみが頼りなので、顔ははっきりとは分からない。
心臓が早鐘を打つ。この子は、雨月の教え子かなにかなのだろうか?
動揺を悟られまいと、うっすらとした笑みを貼りつけて語りかける。
「俺のことを呼んだの?」
残月のひと言で、華奢な体がピクリと揺れる。
この反応はビンゴ。
やはり不破は雨月を伴って来ていて、この子はそのことを知っているし、きっと、このイベントがただの脱出ゲームではないことも分かっている。
いますぐ、この子の記憶も消すべきだ。
いつもの残月ならそうしている。
……なのに、なぜだかそれができなくて、走り去る彼女の背中が小さくなっていくのを見ながら、笑うしかなかった。
声を殺して――きっと雨月はこんなふうには笑わないだろうと思いながら。
捜査を再開すべく、あえて灯りのない道を、ザクザクと草を踏みながら進む。
学生に紛れてスタッフを監視しながら、やってはいけないことをやらかしそうな自分に怯える。
絶対に、雨月に声を掛けたりしてはいけない。
そう思っていたのに、森の向こう側に雨月の姿が見えて、思わず木の下に身を隠してしまった。
そっと首を伸ばして、様子をうかがう。
合流を果たしたらしい三人は、何やら深刻な顔をしていて、雨月は特に、酷く顔色が悪い。
催眠を使いすぎたのだとしたら、こんなときに守ってやれない自分が不甲斐ない。
もう少しだけ、もう少しだけと、ジリジリと近づく。
雨月は淡々とこの事件の全貌を語り始めていて、情報だけ抜いて消えるのが正しいと、頭では分かっていた。
なのに体は止まらない。ついに一番近い木の裏にたどり着いてしまう。
二十五年ぶりに聞く、双子の弟の肉声。
自分を縛っていた縄が、ブチブチと切れていく音がして――
「ふうん、なるほど」
気づいたら、声を発してしまっていた。
抑えられなかった。
三人が勢いよく、残月の方へ振り返る。
「久しぶりだね、雨月」
動揺を悟られたくなくて、残月は無理やり作り笑いを浮かべる。
卒なく生きてきた自分の人生経験など、何の役にも立たないことが分かった。
うろたえる雨月をなだめるように、上っ面の言葉を並べながら、月明かりのもとに出る。
「大丈夫。俺はいつも、雨月の味方だから」
また一歩じわりと近づいて、ほとほと自分に嫌気が差す。
記憶を消す催眠術? こんな能力は無能に等しい。
だって人は、何かを思い出せなくなったとき、誰かに聞く。
ありとあらゆる情報がインターネットの海に漂っているし、自分の発言も他人の発言も、スマホを見れば簡単にログが漁れる。
他人の記憶を消す能力に何の意味があるのか?
残月はハッタリの笑みを浮かべて、ピースサインを作り、不破の目をじっと見る。
「君は、心理実験のデータ売買について、何も知らない」
ドサリと倒れる体をチラリとも見ず、左へ向き直る。
不破の記憶を消して、雨月にもう一度説明させて……稼げて二十分が関の山だろう。
こんな能力、虚しい。
子供のころは、人を幸せにできる雨月の能力が、少しだけうらやましかった。
そんなことを思い出しながら、こちらを睨みつける女の子に目を合わせ、自嘲気味に笑った。
「そちらのお嬢さんも。ごめんね。君は有島残月に会ったことを知らない」
ドサリと落ちる音がする。
後方で叫ぶ雨月の声を聞きながら、残月は森の闇の中へ紛れる。
雨月の記憶を消せなかったのは、自分のあさましさだ。
三人の記憶を消せば誰もこのことは思い出せず、いつもどおり、ひっそりと捜査を終えることができたのに。
「あーあ。俺もう、クビかもなあ」
全てを白状し終えた帰りの船、デッキにもたれかかった残月は、夜空を仰いでぼやいた。
隣に突っ立つ雨月は、よく分からないといった表情で、首をかしげている。
「どうしてクビになるの。僕が知ってしまったから? なら、いま記憶を消してよ」
「嫌だよ。これでも俺は無理してるんだ。あちこち記憶を消して回って、もう疲労困憊」
おどけた調子で肩をすくめてみても、雨月は不服そうだ。
残月は雨月の肩にポンと手を置き、諭すように語り掛ける。
「あのな、片思いっていうのは、実らないから耐えられるのであって。一旦手が届いたあともう一度別れ別れになんてなったら、俺は死ぬね」
「ええ? なんの話をしているの? ちゃんと聞いてよ、僕は真面目に話している」
子供のように口をとがらせるその態度が、やはり気になった。
玲というあの教え子の話が本当なら、目の前の弟の心の一部は、十歳のあの日に取り残されたままになってしまっているのだろう。
責任は自分にある。
取れないのが申し訳ない。
不破には丸投げでごめんと、もう一度謝った方がいいだろうか?
「ねえ」
むくれる雨月に向かって、残月は冗談めかして笑う。
「雨月には分からないね。お前は情緒というものを知らない。とりあえず、もし俺が警察クビになったら、バジ大で雇ってくれる?」
「……? 僕に人事権はないよ」
本土が近づいてきた。街の灯りが、この会話の終わりを知らせてくる。
船を降りたらきっと、自分はリクエストどおり、雨月の記憶を消すのだろうと思う。
大して役に立たないこの能力で、不破と玲が迎えにくる数分間を稼いで、そのすきに消える。
でもきっと、もう二度と会わないなんて決意は簡単に揺らいでしまうだろうということも、分かっている。
だって、手が届いてしまった。
これきりでさようなら、陰ながら見守るだけの生活にまた戻るなんて――そんな意志の強さは持ち合わせていないのだと、きょうで思い知った。
船のデッキを降り、残月は軽く片手を挙げる。
「それじゃあ、元気で。ふたりにもよろしく言っておいて」
「ちょっと! 待っ……――」
五本指を開き、手を振って記憶を消しながら、ぼんやりと思う。
本当はいつも会いたかった。
大学のサイトや論文が発表されるのを見ることがやめられなかった。
インターネット越しに無事を知るたび、心理学なんてまるで興味が無いであろう雨月が発信し続けているのが、俺のためだったらいいのになんて――そんな都合のよい妄想を抱いて眠る日もあった。
(了)