日本語の思考枠の外へ出ていきたい君へ
外国語は単なるツールではない
母国語で考え、母国語で生活していると、思考がワンパターンになってしまう。想像力や創造力があったとしても、蜘蛛の巣に捕れるように、母国語の思考枠の中に留まり続け、がんじがらめになる。
だからこそ、EUでも、アジアでも、中等教育から第二外国語を学習することが義務付けられている。必ずしも第二外国語をレベルに流暢に話せるようになることがゴールではない。「母国語とは違う思考がある」と気づき、世界の多様性に気づくために学ぶのだ。自分の物差しで世界を測らないようするため、自己中心主義から逃れるため、異文化理解を目的として、まだ頭が柔らかい中等教育から世界の国々の子たちは第二外国語を勉強している。
日本では、殆どの学校が英語しか教えない(その割には、その成果が出ていないことは周知のとおり)。むろん、受験のためである。だが、今では大学ですら、外国語教育は敬遠され、英語一本化にされつつある。これでは、知的レベルが下がるだけではなく、精神面でもダメージになるだろう。ダイバーシティとかSDG‘Sといったコンセプトも空疎に聞こえてしまう。ますます生きづらい世の中になってしまうかもしれない。
第二外国語の意味
私は、10代前半で「生きづらさ」を感じ始め、鬱になった。だが、フランス語を習得して蘇生した。フランス社会が特別に素晴らしいとは思わない。フランス語しか喋れないフランス人もまた、窮屈な思考の檻の中に閉じ込められている人たちだ。言語と言語の間に生き、思考していくという行為こそ、有益であり、楽しいと信じている。今福龍太のいう「クレオール主義」にように、何かと何かの境界や合間から、本当の「生」の実践が生まれるのだと思う。
外国語を習得していくうちに、外国語は単なるツールではないと確信した。手段であれば、翻訳や通訳のテクノロジーのお世話になればいい。肝心なのは、外国語を君の身体の一部にしていくこと。外国語習得は、新たな思考パターンを身体にインストールしていくことなのだろう。頭ではなく、身体に。身体こそが主体のありかであり、コミュニケーションのありかだから。
なぜフランス語か?
英語が好きならば、英語でもいい。でも、私の場合は、フランス語が性に合っていた。勝手な偏見だが、英語はビジネスの手段と思っている人が多い気がする。イギリスに留学した時に「ビジネス英語」クラスに振り分けられたことがある。先生やクラスメイトは、経済を中心に世界が廻っているような価値観の持ち主だった。
一方、フランス語は、知的に洗練された哲学や藝術から、アフリカの大地の匂いまでして、魅力的に感じた。ちょっと天邪鬼で、変わり者で、藝術や文学が好きな君にはフランス語をおすすめしたい。長い目でみれば、フランス語が上達するにつれ、英語も身につくようになってくる。英語の語彙の6割がフランス語(もしくはラテン語)からの借用だからだ。英語嫌いな私だって、いまでは、英語で学会発表したり、論文書いたりしている。必要にかられて。
世界史をやった人は、イギリスでは、ノルマン・コンクエストから14世紀半ばまで、王族、貴族、裁判、教会などの公的な場所ではフランス語が話されていた事実を習っただろう。また、フランス語が、17世紀から3世紀以上に渡って欧州の共通語であったことも知っていると思う。20世紀の最初まで、世界の共通語といえば、英語ではなくフランス語だった。だからこそ、英語母国語者は、未だにフランス語話者へのコンプレックスを抱いている。語学コンプレックスはだれにでもある。
希望が見えない君へ
日本は良いところもたくさんある。でも、均質を求める同調圧力、忖度、虐めといった日本の息苦しさに苦しんで希望を失いかけている君には、外国語を学んでほしい。そして、新しい考え方・精神・センスといったものを、君自身の中に吹き込んで自己を解放・再生させてほしい。そして、日本語と外国語の狭間で思考し、感じたものを、エッセイにしたり、映像にしたり、雑貨店や宿泊施設のような空間で、あるいは料理という味覚の中で表現したり、教育の現場で応用してほしい。
外国語の扉を開けば、君の未来は可能性に溢れる。複数言語による柔軟な思考を持ちえれば、独創的な知と感覚が自然に備わる。悲劇がきても、打ちのめされることなく、力強く、軽やかに、越えていける。