映画「MY (K)NIGHT」を映画好きな人に見てほしい
今年の秋はとにかくフィクションに恵まれた。毎週見ていた「パリピ孔明」は文句なしに面白かったし、「キリエのうた」以降映画館でふらっと見た映画がすべてとても良かった。「ゴジラ-1.0」は意欲作だったし、「首」も面白かった。「翔んで埼玉」の続編も相変わらずぶっ飛んでいた。個人的には関西民なのでもっと容赦なく関西をぶっ叩いて欲しかったが…大阪府知事は住民から税金を搾取してなんやようわからんバケモンを崇めとるんです! …みたいな。色々と問題だろうか。
ふらっと足を運んだ映画が面白い。これ以上に幸せなことはあまりないと思う。ハイペースで行きすぎて一作ずつの感想が書けていない。書くことはたくさんあった。ただ、やはり感想を書くにも書くだけの掘りさげがそれなりに必要ではある。
タイトルの「MY (K)NIGHT」は先週末に公開された邦画で、上記の話題作に比べると上映館もそう多くはないし、おそらく私も旧来であれば目に留めなかった類のアレである。一見いわゆるファンムービー色が強い。客を呼べればなんでもありの邦画界隈ではたまにこういう映画が公開され、人々は先入観でもって「ああまたキラキラ恋愛映画ね」「イケメンが恋愛っぽい所作でファンに金落とさせるやつね」と鼻で笑うのである。穿った見方だが、確かにそうした前例が多すぎて反論するのも徒労に終わる。だがひとつ断言できることとして、ファン向けのキラキラ映画であったとしてもそれが純粋に作品として面白かったり示唆に富んだり、見たものの心に刺さって抜けない例など同様にいくらでもあるのだ。少なくともこの作品はそうだった。そもそもよく見たら監督が「走れ、絶望に追いつかれない速さで」の中川龍太郎氏だった。たしかに仲野太賀のフィルモグラフィを追っているときから気にはなっていたし、詩作から映画業界に入ったという経歴も気になって、作品を見てみたい監督ではあった。「ファンムービー」という先入観自体がそもそもの間違いなのである。
話を戻す。この映画の素晴らしいところはいくつかあるが、まず最も個人的に評価したいのはミュージシャンを3人起用し、音楽色の強い事務所が先導した作りでありながら、この映画を手の込んだミュージックビデオにはしなかった点にある。美しい映像と美化された主役(ミュージシャン)に焦点を絞り、世界観の確立された音楽を引き立てるために中身のない話を描くような真似をしなかった。逆の言い方をすれば、もしかしたらTHE RAMPAGEの(特にボーカルの)ファンはこれで良かったんだろうか、もっと推しを見たかったんじゃないかなと別グルながらファンダムに身を置く者としては思ったりもしたが、そのあたりはファンの所感に任せる。ドキドキするシーン的なものも勿論ないではなかったが(そもそもそれぞれのデートシーンから始まりますからね)それらの要素は登場人物の内面を写す演出としてのちに作用してくる作りで、ここが非常に丁寧で奥ゆかしい。デートセラピストというのがどこまでを内包する仕事なのかは敢えて作中で言及されないが、いわゆるキャストのサービスシーン的なものは想像したよりずっと希薄だった。そういう意味ではファン以外の方がむしろ作品全体を好意的に受け止められるかもしれない。ノイズが少なく、過剰な主張がない。
キャラクターを掘り下げると、ランペのスリボがそれぞれセラピストとして群像劇的な展開をしていくわけだが、このセラピスト3人の背景もまた深みに差があって面白い。本名を旧知の人間にあっさり呼ばれる「アオヤマ」ことイチヤ(RIKU)、クライアントの母親への感情に強めに移入してしまう刹那(川村壱馬)、逆に私生活を客に見せることで却って出自の謎を掻き立てる刻(吉野北人)と、おそらくは来歴も経緯も異なる3人のセラピストがそれぞれの関わり方で大切な一夜を演出し、夜明けとともに帰路に着く、穏やかな海を眺める演出がキャラクターの描写としてとても良かった。「dan LDH」のインタビューではRIKUさんが最も素のRIKUさんから遠い造形だったという旨の指摘があったが、この元々の人間とのふとした連続性も「ならでは」だと思う。彼自身の夢を追い挫折した経験ももしかしたら近いかもしれない。
そうした人生の奥行きがセラピスト側にもクライアント側にも用意され、恋愛に限定されない人間と人間の対話の中で、自らなにかしらの光明を得ていくのが面白くカタルシスに満ちていた。なにも解決していないし問題の元凶が取り除かれたわけではなくとも、前に踏み出す活力を得たり自分なりの落とし所を見つけたり、妥協したり再挑戦したりしながら人間は生きていく、という前向きなメッセージが感じ取れる映画だった。しかもその「解決」が全く押し付けがましいものではなく、感情的に閉ざされるのでもなく、徹頭徹尾他人でしがらみがないからこそ踏み込める言葉の大事さを重んじており、このあたりは監督の詩作経験が反映されているのかもしれない。ひとつ言葉を選び間違えるとまったく違うように聞こえる会話が、非常に行き届いた配慮で、その言葉選びが出来るのはそれだけで財産だよなあ、と思わずにいられない響きを帯びていた。こういう役に声の印象的なボーカリストたちを当てるのは実に正しい判断である。LDHのボーカルはみんなオーディションを重ねて、選び抜かれてボーカルになっているので声が良い。話す声からして華やかで特徴的だ。声を間違わない。おそらくこのデートクラブのオーナーもスカウト基準は声なんだろうなと思った(偏見)
個人的に殊更印象的だったのは刹那パートの母との対話で、支配と抑圧、被害者意識と庇護愛が互いに先行する間柄にすっと入り込み、言わなくていいことを言わず、言った方が良いことだけを伝え、ただ伝わり方に余計なバイアスを加えなかった刹那の話し方にこの映画の勘所を見た。互いの過去や夢の肯定とこれからの向上心を見出し合ったイチヤパートもそうだし、もっと直接的に「生きる場所を見つける(生存をゆるされる、能動的に生き方を選び取る)」話だった刻パートもそうだった。それぞれの人生から押し付けがましいことを説教するのではなく、あくまでひとつの経験を通してそれぞれが感じ取ったことを分かち合ったり話し合ったり、もしくはその事件を手をとって乗り越える中でそっと隣の様子を伺うような、信頼とも異なる人間と人間の「責任」に囚われない交流が持たれるときのあたたかさに満ちていた。友達や家族、恋人、コミュニティなど、元々の関係性があると却って機能不全に陥りがちなそれらすべてを度外視した最中に新たな発見があるという、これは実は何にでも言えることなのではないか、という一種コーチング的な発見でもあった。現代日本に欠きがちな視座かもしれない。
そうした色々な発見があった映画だったので、ぜひたくさんの人に見てほしい、たくさんの人の感想を見聞きしたいと思うのだが、残念なことに上映館があまり多くない。大型シネコンでちょっとだけ上映されていることが多いっぽいので、都市部のシネコンでふらっとレイトショーで見てほしい。仕事帰りに疲れた心身で見るとすごくデトックス効果があると思う。あと当然のことだが出てくる人が割とみんな優しいので、そういう人の優しさにじーんとくる心理状態のときには結構沁みると思う。
あと個人的なハイライトとしては村上淳さん演じるクラブオーナーのヒロキさん(めちゃくちゃこの人の雰囲気がHIROさんに似ている)が「お前らくらいの子どもが…」と言ったときに咄嗟に虹郎くんのことを思い出して、メタすぎて失礼だったかなと内省したのだけど、考えたらRIKUさんが「アオヤマ!」と呼ばれていた時点でそういうところも含めて深読みする作品なんかもしれん、と思い直した。ほんとか?
以上です。
今年のLDHは「ミンナのウタ」といい邦画界への貢献が凄まじい。2年前の邦画クラスタのわたしが見てもハマっていたでしょう。今後も良い作品に恵まれますよう…
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