GENERATIONSの映画を観た
昨日より赤く明日より青くをみました
映画が趣味です、って初対面の人に言いにくい趣味でかなり上位に入る気がする。こんなに細分化されて、こんなに意図するところが人によって違って、こんなに何かの火種になる趣味が他にあるだろうか。メジャーな名作を答えればニワカ扱いされ、マイナーな名作を答えれば高尚(笑)と敬遠される。何とも損な趣味である。気にしないという人も居るだろうが(自分もどちらかというとそのカオスさが気に入っている)、いずれにせよ雑談の話題としてはやや不適切かもしれない。主観が滲みすぎて意見の相違が目立つ。やはり初対面の人とは無難に天気の話でもしておくのが良いだろう。
このブログでもいろんな映画のレビューを書いてきたが、書いてる人の趣味でドイツ映画の比率がやや高い。そんな映画どこでやってるんですか? とおそらくは映画があまり好きではない知人に訊かれたが、映画に興味を持たない人はそもそもミニシアター系の存在すら知らないのかもしれない。というか実際、うちの親も知らなかった。人はどこでミニシアター系の映画の存在を知るのか逆に自分が不安になってくる。私はいつ知ったっけ? シネリーブルの会員証を見つめながら深夜に自問自答した。
前置きはいい。要は映画好きなのだ。少なくともこのブログはそういうていでやっている。普段からめっちゃ映画を観るので、一年に何度か映画館のポイントが貯まって、タダで映画を観る事ができるくらいだ。映画館という環境が好きで、フラッと行ってフラッと帰るあの感じが気に入っている。シネコンにもミニシアターにも行く。パンフレット集めは半ば趣味。そういう人間なのに、この映画を劇場で見ていなかった。これはもはや後悔の域に近い。これほど後悔したのは、近年では吉沢亮主演「AWAKE」を劇場で見なかったことを嘆いて以来だ。こちらもちょっと言葉では言い表せない名作であり、必ず人に勧める映画として大事に大事に抱えているわけだが、「昨日より赤く明日より青く」の衝撃はそれに勝るとも劣らない。偏に自分のアンテナの張り方が悪かったというだけの話ではあるものの、もっと公開当時話題になって良かったし、もっと広く見られるべき映画であるという印象を受けた。短編映画集ってウケないんだろうか。小説も長編より短編集の方が好きなくらいなので短編が異様に軽視される風潮には異を唱えたいが、少なくとも「映画を観るのが好きな人」は今作を絶対に見た方がいい。というか、見ない手はない。もちろん作品への好き嫌いはあるだろうが、このアプローチに製作陣の情熱、そして演者の気迫が噛み合った作品を6本、一度の上映で6本見られる機会なんて他にそうそうない。得られる感情は様々あるはずだが、とにかくまずは見てみてほしい。
円盤を貸し付けたいくらいだけどしばらくは自分が見るので難しい。少なくともサブスクが解禁されたら信頼のおけるフォロワーたちに強く推し進めたいと思う。
先述の通りこの映画は6本の短編映画で構成されているため、1本ずつ感想と見所を述べていきたい。
BLUE BIRD 佐野玲於主演 / DOBERMAN INFINITY KAZUKI「あおいとり」
工業地帯と海。自分はこの海に見覚えがあった。駿河湾の海。「ヤクザと家族」でも描かれた喪失の海である。どこまでも果てがなく、ただ無尽蔵に広がっていく海。希望と絶望を同時に孕む海。その情景が使われる主題が切ない。
港湾地帯に生きる貧困層の若者は、その生計も生活水準も悲しいかな、地元の海とその臨海産業に依拠せざるを得ない。生きるための手段に欠ける、かといって地縁血縁を蔑ろにできるほどの才覚も度胸もなく、たった二人で生きるために必要なものが慢性的に不足している。それでも兄弟は兄弟であり、限られた選択肢の中から少しでも幸福であろうともがく。幸福が何なのか深く考えもせず、少しでも今より「優れた」未来をふたりして思い描くわけだが、結局その幸福は片割れの喪失によって永遠に失われてしまう。
喪失は唐突で絶対的だ。回り道の果てに兄は最愛の弟を失ってしまう。失ってから輝きばかりが想起される。それでも生きていく最後の光景に、幻想の弟がいつも幸せそうに笑っている。だが弟の鮮やかな青色の髪と対比するように、兄は髪を黒く染め、無防備な姿で鏡の前に立つ。兄弟を繋いでいた揃いの装いが、片割れの喪失によって名残の残滓として描かれるのが痛々しい。好きなファッション、憧れの佇まいは、鏡写しのように仲の良かった兄弟にとって相手を偲ばせるファクターになってしまう。ふたりでいるときに動かなかったバイクが動き出し、ひとりになっても容赦無く時間は流れていく。
ただ差し向かう海の色、空の輝き、潮の香りだけが普遍でいてくれる。普遍と対峙しながら、兄は弟をなぞる。
全体的に言葉の少ない映画なので、画角から得た印象はそんなところだが、私の印象として、佐野玲於という表現者は徹底してアンダーグラウンドの気概を体現しており、それが顕著に現れた例が「HiGH&LOW」シリーズのタケシだと思っている。今作でもそういう苦界に生きる青年の貪欲さ、頼りなさ、遣る瀬なさを表出していてちょっとこれはなかなか出せる雰囲気ではない。海外の映画に出てくる労働者の少年のような寂しい目をするし、一方でサクセスストーリーの主人公のようにぎらついた欲求を感じさせもする。ちょうど最新作の「生き残った6人によると」では社会的強者の若手経営者を熱演しているが、これもまた「生き残る」という生き物としての最大の欲求をありありと表現していて一にも二にも貪欲だ。このギラついた貪欲さを引き算の上に成り立たせる役者は、若手だと磯村勇斗くんがめちゃうまいな〜と思っていたが、佐野玲於さんもなかなかのものだ。佐野さんはしかもそこに言葉を載せるのではなく、根底にダンスという表現媒体を持っているからか身のこなしや表情管理での表出を得意としている気がする。ダンスに加えてお芝居もやるからパフォーマー、と先週のラジオでも語っていた通り、佐野さんには役者、俳優としての表現をどんどんこなしていって欲しい。多分この目の演技を撮りたい監督はめちゃくちゃたくさんいるだろうし、この目に魅せられる人間は世の中にものすごくたくさんいると思う。
海の遠くを見るときに目を細める佐野さんの表情が好きだ。この表情に理由づけをするための映画だったとすら思った。
モチーフとしての「青い鳥」はメーテルリンクの童話が原案となっているのだろうし、「きょうだい」「病気」というキーワードも翻案されていると思うが、彼ら自身の姿が青い鳥であり、自由に飛び立てないが空の広さに憧れる鳥であり、その片方が永遠に飛び立てない(もしくは、飛び立ってしまって今この場にいない)というビジュアルに落とし込んできているのが巧みだった。今もこの海辺に生きる兄はもはや青い鳥ではないし、一緒に青い鳥(幸せ)を探したきょうだいはもういないのだが、彼にとっての青い鳥(弟)は常に兄の中に息づいている。シンプルな作りながら非常に良い話だった。
言えない二人 白濱亜嵐主演 / DEEP SQUAD「そんなことキミに言えない」
都会の若い男女。大学生にとっては背伸びした銀座の街。特別なプレゼントを選ぶ買い物。雑貨、家具、服飾のモチーフから画面に見えない「彼氏」「友達」のプレゼントを選ぶが、口実にしながらふたりとも目の前の人間をみているので最愛のはずの人間像が見えないのが面白い。言えない二人は友人関係だが、「休みの日を一日一緒に過ごして酒まで飲む間柄」だし、間違いなくお互いに好意を抱いているのだけどその一線を超えられないし、その肩書だけがお互いに付与できない。先に何かを言った方が悪者になると薄々感づいていて、かと言って相手を共犯に巻き込むほど悪人にもなれない。ただ時間だけが過ぎるし、ただ好意だけが膨れていく。帰りたくないし帰したくないのだが、じゃあ帰らなかったら二人はどうなるのかというと、おそらくどうもしない。銀座のホテルに泊まるなんてもってのほか。一晩一緒にいたけど何もしてません、となりそうな拗らせ方である。つら。
演者は二人ともこの当時で20代後半のはずだが、この大学生の揺れ動く感性、ある意味での幼さ、しかし衝動に身を任せることもできない(ようやく手に入れ始めた)落ち着きのようなものの不安定さをよく表現している。特に白濱亜嵐さんの「できなさそう」な感じは、いつものキラキラした彼のオーラが非常にうまいことオフにされていて、なんて上手いんだ……と思わず舌を巻いた。うますぎる。これは幼なじみを口説けないし、はずみで寝ることもできない。一度しれっと寝てしまえば非常にあっさり愛しあえそうなのに、それだけがいつまでもできない。今夜そうしなければきっと一生そうならないのに、その今夜を逃しそうな空気しかない。これは紛れもなく演出の巧であるし、同時にあゆむの持っている純粋さを役者がうまく解釈した結果なのかなと思う。
反面、柊子は恋人の気持ちが己にないことをわかっているので、おそらくは自分のことが好きなあゆむに「どうこうしてほしい」と思っている。あゆむであればどうこうされてもいい、とまでも。しかし恋人の気持ちが己から離れているだけで、己の気持ちは恋人から離れているわけではない。まだ好きなのだ。ただ、あゆむが自分を好きとまではわかっても、愛せるか、愛してくれるか、愛しあえるか、やっていけるかまではわからない。やっていける、と言えるほどまだ愛していないし、愛しているというより愛されてもいいかな、という打算が見え隠れする。悪気はないけど悪い女である。なんとなく、その打算がわかる。書いている側の自分の目線が今や柊子ではなく、居酒屋で隣の席に座ったお姉さんの方に近いからかもしれない。
門脇麦さんの仕事ぶりで最も好きなのが「あのこは貴族」の松濤育ちのお嬢様だったが、表出しないだけでいろいろな感情を内側に併せ持っている「含みのある女」の演技が非常に良い。溌剌とした揺れ動く感情が美徳とされる世代の「女子」より、こういう言語化を控え始める「おとな」と「少女」の合間に立ったり、大人の振る舞いを求められたりする役を自らのものとする技量に長けた俳優だと思う。そんなわけで結果として柊子はあゆむを振り回してしまうわけだが、あゆむはきっとこうやって柊子に振り回されるのが何よりも幸せだし、柊子の愚痴に付き合いながら「俺じゃなくてあいつに直接言えよ」なんて言ってる時が一番幸せなのかもしれない。
拗らせてんな〜。でもそういうふたりだからなんとなく可愛い。5年後くらいにお互いの結婚式で引き出物を渡される仲になりそうだが、5年経つ前には流石に何かに追われてどちらかが踏み出してもいいんじゃないかと思うなどした。
水のない海 小森隼主演 / iScream「愛だけは…」
近未来のノンバーバル・コミュニケーション。人工知能と会話しているデリバリー配達員と中国語を喋る女の、直接言語でないが故の「踏み込み過ぎる」交流の話。対人接触なんだけど、感覚としてはSNSの対極なのかなと思った。
ジェニは絵を描いている。事情があって大学を辞めてしまったが、かなり実力のあるアーティストだったらしい。興味関心があって何かしようと思う人間を羨ましく思うユキオだが、ジェニはそんなユキオを「私に興味を持ってくれた」と好評価する。
言葉は過剰で情報量が多い。言葉がないと人間同士では何にもならないが、言葉が完全に意味を為さなくても通じ合える局面はいくらでも存在する。劇中、ジェニの喋る言葉は非常に部分的にしか視聴者に共有されない。ほぼユキオと同じくらいの情報量でもって我々は彼女の爆発するようなエネルギーに触れるわけで、言語がわかる人ならまだしも、中国語というツールを使えない人にとっては未知の世界が限りなく展開される。
作中では伊藤かな恵さんの声がAI役として出演していて、SNSの投稿に感想を述べたり、その場に適切な応答を自動翻訳したりとかなりキャラクターライクで人間味溢れている。感情の起伏を出さない(出せない?)ユキオの人格と敢えて通じる言語で喋らないジェニに比べると、聞きやすくわかりやすく感情の起伏まで伝えてくるAIの人格が最も分かり良くキャラクター的だ。言語情報だけで全てを伝えてくるという意味ではSNSのメタファー的な立ち位置かもしれない。普段の小森さんなら、普段の小森さんの立ち位置がこの役割を担うだろうに、黙に徹した演技に従来性を超越したものを感じる。どこか自分に自信のない、内向的で厭世的な人格が表情から伝わってくるのもすごい。いつもあんなに笑顔が溌剌としているのに、それをひとたび封印したらこんなになるのか……沼だな……としみじみした。
タイトルの「水のない海」は何を指すのだろう。まずはジェニの人格に興味を持つきっかけとなった大きな絵。あれは夜の海をおそらくは描いているのだろうし、水のない海というのは絵に描いた(実態のない)海と考えることもできる。また、日本は島国で国境線を海に準えることが多いため、隔たりのない海、言語や国を超えた繋がりの表象でもあるのかもしれない。水がなければ船を漕ぎ出せず、互いの下へたどり着けない。あるいは都会という広く複雑な入り組んだ空間を無限の海に重ねているのかもしれない。これもまた水のない海だ。
原曲の歌詞を考慮するなら水の「ない」状態がままならない生活の暗喩で、主人公たちはいつかその海が水で満たされることを望んでいるのだけど、実は映画の中では最後に都会という海を2人で駆け抜けて(泳いで)いるし、本当は日本語を話せた(ユキオの呟きも咄嗟の一言もすべて理解できていた)ジェニとユキオの間に隔たりの海などなかった。AIの助けを借りながら相手の言語空間に最初に踏み込んだのはユキオの方で、ゆえにどんどん深みまで歩みを進めたのはユキオの方だと解釈することもできる。歌詞の世界では閉じた、ひたむきで孤独な恋を表現しているが、映画の表現する愛は更に広範で多義的で淡く可能性に満ちている。寧ろこれを彼らの恋と呼ぶのはやや迂闊で早とちりかもしれない。すべての人間の深いつながりを恋愛と呼称することに少なくとも異を唱える側の人間なので、この2人に関してはゆっくり、2人なりの関係性が培われると良いなあと強く思った。
怪談 満月蛤坂 中務裕太主演 / 伶「散る散る満ちる」
連れて行かれなかった異類婚姻譚。中務さんの直接的ではないにせよ男性的な色香がこれほど如実に表現されたことがあっただろうか…と咽び泣いている。セックスアピールと言うと何かが乖離するので敢えて色香と言うが、素直な毒気のない男、往々にして昔話でよくないものに魅入られてしまうほうの人物像がバチっとハマっていて驚いた。たぶん前情報を何も入れずにふらっと映画を見に行ったとしてもこの映画をきっかけにして中務さんにとんでもないハマり方をしただろうなと確信を持っている。そんくらいドツボだった。まず開幕から飲み屋を渡り歩いて顔馴染みの女にふらふら適当に声をかけていたのだが、あの適当さ加減と丸めたダウンジャケットの背中の悪い男加減がたまらなくヘキにブッ刺さる。製作陣は彼の生来の良さをよくわかっている……そこからの即物的で理を外れた交合の凄まじさよ……最初断るときも「俺金持ってへんて」って断るんですよね、乗り気じゃないじゃなくて金がないから……だから誘われても拒まない。夜陰に紛れての一夜、さぞファンは度肝を抜かれたでしょうね。
昔話のように超常的でありながら唐突な展開は短編映画ならでは。己の身に降りかかったわけのわからない理不尽に、なるべく真摯に向き合おうとする根底の人の良さまで含めて他ならぬ中務裕太の役という感じがしました。素の関西弁がまたよかった。あの気安い関西弁だけで「京阪神出身で金沢まで料理人の修業にきてるから地元のツレや家族もおらず女と遊ぶくらいしか娯楽がない」というある種の真面目さ(生真面目ではないが)まで垣間見れて非常に良い人物造形でした。
たみに魅入られた料理人は店の看板を背負って立つ料理人になる、という最後の余談的な設定も昔話めいていて好きです。あと色んなところで言われてましたが、割烹着が似合いすぎていてもはやサービスカットの域でした。ありがたい。肩幅があるので和装が似合う。
金沢という土地の設定は監督の居住地に由来するそうなんですが、東京の話が4本、太平洋沿岸の話が1本と土地的な偏りがある中で、雪深い北陸の城下町という舞台背景が引用されるのは非常に印象的でした。加えて唯一と言って良い封建的な価値観、男の身勝手さに翻弄される女の悲哀、日本家屋の薄暗く青灰がかった色彩とこの話だけが他のエピソードに比べて異彩を放っている気がします。毒気の強さで言うならこの後のCOYOTEはもはやその比ではないんだけど笑、言うなれば日本の美意識を凝らした贅の追究が体現されているわけで、LDHの作品の中でもこうした類は珍しい。日本の風景はきちんと形にするとそれだけで独立したカテゴリになるなあと改めて思いました。
幽霊が妊娠してそれが出産する、しかも現世を生きる男がそれを手伝うなんて少なくとも海外フィクションではあんまり聞きませんね。ちょっと前にフォロワーと話していたことなんですが、幽霊という現象には少なからず無念さや弱者の悔恨のようなものが含まれているわけで、惚れた男に捨てられた身重の女というのはそういう意味では無念の塊みたいなものだと思うのですが、そんな身空になってなお将来性のある料理人を見込んで取り憑くというたみの健気さにも心打たれるものがある話でした。
ただ女将さんは幽霊が出たら当事者に打ち明ける…とか遠回しなことをやってないでちゃんとたみのことを供養してあげてほしいです。ああして若人に取り憑かせることで将来の板長を探してるんでしょうけど。だからこそ女将だけが知る言い伝えなのでしょうけど。そういう「幽霊」との共存も窺えて、したたかに切り盛りするところも本音と建前でうまいことやる、ザ・日本という感じがしました。
COYOTE 片寄涼太主演 / 片寄涼太「サクライロ」
この作品は色んな人が衝撃作と言っていて、たしかに見終えた後にその衝撃の意味がわかる。華やかで楽しいアメリカ生活、魅力的なアーティストの恋人、それらがコペルニクス的にガラッと転回する「現代」の話で、これが2021年に映画の形で世に出たと言うのが凄まじいスピード感。まさにその時代にしか撮れない作品だったと思う。今や米国は「誰もマスクなんてつけてませんよ(2022年4月段階で着用義務を撤廃)」の段まできているが、たしかに2020年3月とかの段ではパンデミックの一気に広がったイタリアに欧米社会が震撼し、水際対策にいちばん躍起になっていた。アジア系であるだけで暴言を吐かれ、永住権を得ているのに入国を止められる、あの当時のリアルがリアルすぎて攻撃力が高い。これだけでもかなりのダメージなのに、2人で可愛がっていた愛犬が野生のコヨーテに襲われてしまう。愛犬の死はふたりの関係性が毀損するメタファーとはいえ犬派の多い(?)ジェネのファンには痛烈な印象を残すのではないだろうか。仮にあれがぬいぐるみであったとしてもしんどいシーンだった(犬が辛い目に遭う話が無理な人は注意してください)。
片寄涼太の持つ善性は本人の持つ上品さ、余裕さ、知性に裏打ちされていて疑うべくもない。おそらくその物腰を買われて朱雀奏という別作品の主人公が爆誕しているし、あれは紛れもなく片寄涼太という人格の一部分である。ではハルトはというと、意外にも片寄さんの印象として演じた役の話題にあがる程度には愛着あるものであるらしい。人間として好きが嫌いかで言うならばなかなかあれを好きでいるのは難しいが、いるかいないかでいうならものすごく見覚えのある人格だけに、誰かのイメージを想起させるのかもしれない。とくに、若いうちから海外に出たり、海外志向が強かったりする日本の若者に、ああした行動力の権化のような、その一方で言葉も思慮深さも足りないような人物像は非常に顕著である。自分もドイツでそういう人を何人か見たし、ドイツですらそうなのだから、アメリカなどはもっと尚更じゃないかと勝手に思っている(もちろんかつての当事者としてそうした自分の勝手さも相対化せざるを得ないし、苦笑いしている)。このあたりは真利子哲也監督がアメリカ滞在中に実際に見聞きした日本人像が反映されているのかもしれない。在外邦人の独特の空気感、和の外側に身を置きたがる不覊の生き方の解像度が高かった。それがまた尚更、コロナ禍という現象に於いて理不尽さを際立たせていたように見えた。
ハナの苦悩もまたコロナ初期のどうしようもない、先の見えない閉塞感に直結していて、もはやこの過去を過去のものとして捉えている2022年の自分にも驚いた。まだまだ自分はマスクをし続けるし大勢いる場所で声を出したくもないと思っている側の人間ではあるものの、たとえばショービジネスの全てが延期になったりオンライン客入れ禁止だったりという対応がもはや過去のものであると知っている2022年の人間であることも確か。人形劇のひとつも開けないという恐れ方は「過剰」であり「無意味」だった、と今なら回顧できるが、感染症が広まった当初それはどれほど恐ろしいことだっただろう。歴史を振り返って茶化すのは簡単だが、あの時代の感情まで忘れてしまいたくはない。そういう意味でこの映画は楔になるのではないでしょうか。
あと晴人もまあまあ普通にやべえ奴なんですが、個人的には東京で身を寄せる旧友のマイ・ケンタ夫妻の2人がヤバすぎて霞んだ。特にマイの造形は女の嫌なところが存分に出ていてもう吐き気を催すレベルだった。あんなに綺麗な画角でキービジュアル撮られるから誤解してましたよ!笑 子どもと遊んでる晴人の横で洗面所に立ってグロス塗ってるところなんて吐きそうなくらい醜悪だった。都合の良いときだけ女になって都合の良いときだけ母になる感じ、これもまた嫌な解像度の高さでしたね……明らかに晴人に対して下心があって、それ故に異様なまでの攻撃性に転じるところも含めて、人間としてさもしいな、と思いました。そういう価値観同士だから友人でいられると言えばそれまでなんだが。このCOYOTEの前の「水のない海」であんなに質の良いノンバーバルコミュニケーションを目の当たりにした後、同じ方言を喋りながらもここまで下賎なやりとりを繰り広げる幼馴染たちを観察できる、本当にいい企画です(いい笑顔)
最後の晴人の関西弁で吼えるシーンはめちゃくちゃ名シーンだと思います。いくら理知を装っても本性のさもしさはふとしたときに表出してしまう、通じないことをわかっている言語でむき出しの怒りをぶつけて散らそうとする。タクシーの横入りすら看過して譲る穏やかなあの片寄さんが、演技とはいえこの激情を映像として残したことに彼のプロ意識を感じました。本当にあっぱれ。
真夜中のひとりたち 関口メンディー主演 / 数原龍友「笑うしかないトラジディー」
その一瞬だけ温もりに触れたひとり、がふたり。「言えない二人」がずっと二人でいるのに対し、「ひとりたち」はどこまでいってもひとりで、接点を持った一夜が一瞬だけふたりに幻視した、という繊細で穏やかなお話。長く燻る想いを持ち続けた人間たちがそう簡単に目の前に現れたという理由だけでお互いに恋心を抱くはずなどなく、それ故の心の繋がりを得てしまった、という過程が深夜から未明の都内を舞台に展開されるのが非日常的で説得力に満ちている。いや本来、こういう話には理論的な説得力なんていらないんだけど、演者の持つ空気感が説得力を産んでしまっている。こういう夜もあるよね、と思う。そのためにはおそらく見る側の経験値が求められるのだが、この話にグループ最年長のメンさんが抜擢されたのはそういう意図もあってかもしれない。普段は最年長の趣きを全くと言っていいほど醸し出さないメンさん。いじられ愛され可愛がられ爆弾発言を飛ばしメンバーに叩かれるメンさん。こっそり学園ラブコメの主演を狙っているメンさん。悪いことは言わん、この路線で攻めてください。めちゃくちゃ良かったです。この演技プランが刺さる人はきっと世の中にたくさんいます。私は少なくともメンさんのこの演技がめちゃくちゃ好きだと思ったし盛大に泣かされました。具体的な愛した相手の情報は何も出てこないわけですが、どれほど愛していたかを行動が物語っていたしふとしたときの眼差しで推して測るべしでした。ゆえに抱きしめて慟哭する一瞬だけの感情の発露が生々しく痛々しくて、抱き返す女の手に救いを見出せるような気がした。
相手役の阿部純子さんは大阪出身のネイティブなので多少誇張している向きはあるものの間の取り方がまさに関西人という自然さであどけなくて可愛かった。「孤狼の血」で日岡の手当てをしたり情婦として情報収集したり墓場でネタバラシしたりというコケティッシュな役が印象的でよく覚えていたのですが、今回はそうした打算的なことを「考えはするけど実行できない」女の造形で臨んでいて、めちゃくちゃ可愛かったしめちゃくちゃ愛しかった。縁起が悪い、とよく口にするあたりに滲む育ち、即ち家族に恵まれ従兄弟とも仲良く、そこに介在してしまった己の従兄弟への恋愛感情を枷として捉えているような向きすらあって愛しさが止まるところを知らない。明るくて楽しくて、でも徹底的にひとりで、孤独の意味まで考えてしまう生真面目な部分もあって。そんなところが愛らしい。そんなところがままならない。抱きしめたくなる、と見ているこちらが思ってしまうくらいだった。
最後のシーンでお互いに違うタイミングで歩みを止めて振り返るのだが、結局その指先が重ならないのが深い。重なってしまって、さあどうしようかと迷いながら言葉を交わせない「言えない二人」とはやはり違うのである。他人は他人、袖を擦りあった間柄。名前すら名乗らないで心のいちばん奥深くを通じ合わせる、その巧みな人間模様の結論が非常に心地よく、素晴らしい作品だった。
こうして書き連ねながらやはりいずれも素晴らしかった、という結論に至るわけだが、最後に一言いわせてほしい
GENERATIONSまじで可能性の塊すぎる
演技力って台詞回しだけじゃないんだよね。よく棒読みとか滑舌とか言われるんだけど、結局そういう要素的な部分でしか測れないものに自動的に心を打たれるわけではないので。目でする芝居とか、手でする芝居とか、全身でその役を生きることになるわけで、何が心を打つかは複合的な要素なんだな…と改めて思いました。もちろん監督はじめ製作陣の洗練された経験と技能あってのことなのは百も承知ですが、正直見るまでは自分もこれほどとは思っていなくて、歌詞の世界から映像化というのが謳い文句として結果的に見る人を選んでしまっている側面があるのかもしれないと思った。いや、原曲は後からでも全然いい、なんなら映画を見た後で「この原曲をこう料理するの天才すぎでは…」っていう体験をしてほしい、特に今作だと「サクライロ」と「愛だけは…」がまじでそれ 何食ったらこの曲からこんなアレンジが出来るんだろう凄すぎ、と唸っていました。最高でした。今度からGENERATIONSに興味持った人にはまずこの映画を見せます。紛れもなく全員箱推しにできる自信があります。
GENERATIONSのパフォーマンスが好きなのでライブは当然してほしいけど、こんなにいい仕事するんだったら役者の仕事も浴びるほど見たい……こんなに贅沢な悩みはありません。今後も彼らのことを心から応援しています。
以上です。
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