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息子と博物館〜集中する息子に驚く
息子が合宿から予想外に早く帰り数日、今日はもともとは迎えに行くはずだった日、ぽっかり空いたので、息子の夏休みの宿題で「地域を知る」という社会科の課題を片付けるべく、博物館に行きました。
よく行く「夢中飛行」の近くにある博物館にしようと大宮へ。
電車で行ってまず駅近のベトナム料理店で腹ごしらえ、フォーを満足気に食しコーヒーにもガムシロとフレッシュ入れて果敢に挑戦。
博物館は「さいたま市立博物館」という名前でした。よくある郷土資料館の体です。
社会の宿題は「地域をよく知るために何か調べること」で、息子はさいたま市の鉄道の歩みについて博物館の図書コーナーでレポートをまとめました。
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わたしも展示は興味深く見て、息子がレポートを書く間、スマホで写真撮っておいた洋書を読むか、ブログ執筆をする予定でした。が、わたしのスマホで撮った資料の写真をレポートを作るために使うというのでスマホを使えず急に手持ち無沙汰になりました。
あーあ、洋書を持ってくればよかったな。
と思っても意味なし。
ブログのためにたまには「抽象構成作文法」でメモを作ろう、とメモ帳を出しました。
せっかくきたのだから、今日知ったことを書こう。
突如見沼田んぼが今のようになるまでの歴史が大きく取り上げられていたので、それを書いてみることにしました。
見沼はさいたま市にあるエリアで、もともとは巨大な沼でした。
江戸時代の初め、江戸幕府の伊奈忠治により、沼の幅が狭いところに堤を作り、沼をため井と呼ばれる溜池にして、農業用に水を使えるようになりました。米の収穫高が上がり効果があったものの、深さが1M程度のため大雨で周囲が水浸しになったり、干ばつで干上がったりしたそう。
その後、徳川吉宗の時代になり、紀州から治水の名人井沢弥惣兵衛が呼び寄せられ、溜池の水を抜き、水の豊かな利根川から見沼の方向に水を引き、途中で西と東の二股に分け、間に排水路として芝川という名の川を作り、60キロに渡る水路を作ります。綾瀬川などいくつかの川を跨いだ水路を作るのは大工事でしたが、次年の米作りに間に合うよう半年で完成させ、ため井だったところはみな田んぼになり、それまで420tだった米の収穫量が1460tにに跳ね上がりました。
この水路は見沼の水の代わり、ということで見沼代用水と名付けられました。
鎖国をしていた江戸時代、治水技術は日本独自だったのだろうか。井沢弥惣兵衛の経歴を見ると、現代でもこんな業績残した人いるのだろうかというほどたくさんの治水事業をしている。見沼代用水だって、大工事を当時の技術できっちり半年で完成させていて、ひょっとしたら近代技術よりひとりひとりの人力が高い方が色々よく働くのではなんて思ってしまいます。
芝川を通ってくる物資を載せた船は左右にある3メートル高い位置の見沼代用水に運ぶために、運河になるところに水門を設けて川の水を堰き止め水位を上げて船を見沼代用水に持ち上げるそう。パナマ運河と同じ方式だそうで、江戸時代から使われ、日本では最古に当たるそう。見沼通船堀と呼ばれているこれ、気になると思った視線の先に、
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これに行くしかない!
突然見沼に執着。
見沼田んぼで採れた野菜などたまに購入しますが、江戸時代の大事業あってのことだったと思うとひときわ感慨深くなりました。
スマホを手放し、予想もしなかった知識を得てアウトプット。
博物館を後にしたら、「カフェに行こう」と意欲的な息子。数学を勉強したいと言います。
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集中して問題を解いていたものの、「1時間以上のお席の利用はご遠慮ください」にびびり、続きは家でやるので時間になったら教えてくれと言いました。
どうしちゃったのだろう、合宿効果?
よくわからないけど、しあわせ。
よかった、ありがとう。