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慈しみの心~資本主義社会にさす光
リベラルアーツの学びで粘土をこねるかの如く、自分の認識のかたちが色々と変わっています。
松永暢史先生の講義を受け、諸子百家を読み、旧約聖書、新約聖書と進んでいます。
もともと松永先生は中高生向けに吉祥寺にあるブイネット教育相談事務所でリベラルアーツを教えています。現在中2の息子も初級クラスに通っていて、わたしも付き添って月に2回土曜日の夜にブイネットに赴きます。
前回より子どもたちの会読は「ブッダのことば」になりました。
日本に入っている仏教は大乗仏教であり、ブッダが説いたことすなわち初期の仏教はそこにはありません。
ブッダに最も近い書は蛇の章で怒りを制することから始まり、「~、蛇が脱皮して旧い皮を脱ぎ去るようなものである」の結びで終わる文がいくつも並びます。動物が好きな息子は「ブッダのことば」が気に入ったようです。
子どもたちが会読し、わたしは後ろの席で聴いているのですが、先生がことあるごとに「君はどう思う?」などと尋ねて子どもたちの意見を聞いたりしています。息子が反応できるかドキドキしてみているのと同時に、自分だったらどう言うか考えさらにドキドキしています。
昨日は慈しみ、と言う章がありました。慈しみの心を持つ、欲望を捨てる。
しかしこの世は資本主義社会なんだよ、と先生が言いました。
確かに。三角構造の社会、頂点の方にいる一部の人たちが富を得て、実質下の人たちが支えている。上の人たちは下の人たちがいないと成り立たないのでその格差を保ち続けようとする。
そこに慈しみはまかり通るのか、この社会構造と慈しみと言う理想、大きな矛盾がある。
全員に慈しみが持てるか。先生はそんな問題提起をしました。
ふと、今いくつも持っている名札のことを思い出しました。ボランティア活動の数々。巻き込まれているものもありますが、大体の活動を善意を循環に乗せるつもりでしています。見返りを求めるものではない。働きの対価はお金ではない、人の役に立てる喜び、慈しみ。
こんな社会にもボランティア、恩送りみたいなのがレーザーの光線のように通っているかもしれない。その線がどんどん増えて張り巡らせて面のようになる日が臨めたら。
今日は「祈り」という白鳥哲監督の映画を観ました。
祈りとはすべての宗教に共通するもの。そして地球を動かす大きな可能性を持っている。人間にしかできないもの。すべてを凌駕するのではないか。
昨日も人はどうしてお祈りするのか、と子どもたちは尋ねられていました。
いろんな機会が絡み合ってわたしに何かを教えようとしています。
それらに気付ける幸運。
よかった、ありがとう。