私の「冒険」と言えることは、、
今日は朝早く家を出て、小学校の図書ボランティアの活動に行きました。
クリスマスお話会の撮影のために私たち読み聞かせ部で配役を決めて練習、製作部の力作巨大絵本をめくる係の人、音響の人との連携を確認しました。
夕方からは息子の塾のオンライン授業がありました。息子の塾はテーマ別授業をしており、今月のテーマは「冒険」。先週はジョン万次郎、今週は星野道夫さんという写真家についての授業でした。
星野道夫氏(1952-96年)は大学時代にアラスカのある村を写した写真に魅せられ、その村の村長に「夏休みに行きたいので受け入れてもらえないか」と手紙を書き、半年後にOKの返事を受け取りアラスカに渡り、現地の生活を体験、その後も行き来し、ついてはアラスカの大学に入り写真を学び、アラスカに暮らし、大自然を舞台にした動物の写真を撮った人です。座右の銘は「浅い川も深く渡れ」。自然を深く愛し、私たちに素晴らしい写真や言葉を残した写真家の人生についつい私も聞きほれてしまいました。
そんな素晴らしい人のエピソードを聞いて、並べ書くことは大変に失礼ともいえるし大それたことですが、自分の経験を思い出しました。
私は大学の卒業旅行でフランスのパリに行きました。二週間、一般の人の家の一部屋を借りる形で友達と滞在、毎日パリの街を歩いて観光したり、ただカフェや公園で過ごしたり、お金が無くなってきたらスーパーで食材を買い台所を借りて調理して食べたり、割と普通の生活に近い形で過ごし非常に楽しく、帰るときに「フランスに一年くらい住んでみたいな」と思いました。
その思いは就職後も消えることはなく、社会人二年目からお茶の水にあるアテネフランセというフランス語学校に通い始めました。そこには私みたいな人がたくさんいました。私たちは土曜日のレッスンのあと熱くフランス滞在について語り合い、「200万円あるとフランスで一年暮らせるみたい」と誰かが言い、みな200万円目指して貯金を始めました。残業まみれのお金を使う暇もない忙しい会社にいたので、数年後には目標額に達しましたが、フランスから帰ってきてすっからかんでも困るので、もう少し貯めなくてはと思い、また長く付き合っていた恋人がいたのでタイミングを見計らう必要があり、転職してさらに数年働きました。
28歳になったころ、とうとう動き出しました。フランスのどの街に住むかを決め、その地にある大学に手紙を書き、資料を請求、VISA取得のための手続きをしました。そしてその街レンヌに住んでいる人をインターネットで探し、思い切ってメールしてホームステイのつてがないか聞きました。運よくその人の実家に滞在できることになりましたが、渡仏前日にメールが来て、その実家のお父さんが入院することになり受け入れられなくなったという知らせに母パニック、私はとりあえず行くからと翌日フランスへ旅立ちました。
フランスに行ったら、まず言葉が通じない、私のフランス語が怪しいのでフランス人は英語を話そうとしてくれるけど、私の英語はフランス語より使い物にならず、フランス語がいいんですと主張して切符を買ったり、レンヌについてからは家探し、あるマダムの家の一部屋を間借りして住むことになったのですが、数か月後にそこに住んでいたマダムの甥とトラブルになりその家を出ることに。友達から、一人で二部屋ある家に住んでいる日本人の男の子がいると聞いたので、その子とある日カフェで会うことにして、初対面なのに仮住まいさせてとお願い、了承を得てそちらに引っ越しました。
それから町中を歩き「保証人がいないのですけど、部屋を貸してくれませんか」と不動産屋を見つけては入って交渉することを始めました。フランス語で保証人を「caution」というのですが、「cochon」という単語と発音が似ています。両方とも片仮名で表すとコション、cochonの意味は豚、私は自分が保証人と言っているのか豚と言っているのかわからなくなったりしていました。そんなことをしながら数日たったころ、やっと家賃を現金払いすればいいよという不動産屋を見つけて、部屋を借りることができました。
それからその部屋を拠点に私のフランス生活は弾けまくることとなるのです。
あぁ。今すぐにでも戻りたい。
フランスに行く前、「不可能なことなんて何もない」と思って、フランスに行きたいという夢を叶えるべくフランス語を習い、お金を貯め、仕事をそのために辞め、会ったこともない人の家にステイしようとしたり、今考えるととてもできないなということばかりしていました。
何の形も残せなかったけど、これが私の冒険です。
ほんの冒頭部なので、リクエストor機会があったらそのうち続編も公開したいと思います♬