遊びゴコロに全振りすると、8月の旅先は釧路で決まり
「Youは何しに釧路まで?」
旅を決めた理由や目的を話すたび、相手の顔に
「あいかわらず、ばかげてるね」
という文字が浮かぶのを見るのがたまらなく好きだ。
ばかげていることを、ナンセンスとも言う。
ただし、私が旅の目的地を選ぶ際のキーワードとして使うとき、「ナンセンス」は、辞書が定義するのとは少し違う意味を持つ。
旅とは、パフォーマンスであり、暮らすことそのもの… つまり、生き方。
必要な期間の休みをとることから始まって、帰りの新幹線が遅れて深夜に帰宅するところまでが、一連の「生き方を表現するパフォーマンスアート」と言えなくもないだろう。
そう思うからか、「ナンセンス文学」を説明した記述が私の旅のテーマにしっくりきた。
言い換えてみよう。
人間はどこに行こうと何を見ようと、場合によってはそれが存在しないところにまで意味を見い出そうとしてしまう生き物なので、
「動機はわかった。で、それが何になる?」
クスッと笑ってそう言いたくなる旅をしてみせることが、人に感銘を与える
…ってことも、あるんじゃないか。
ノリで始まった旅のあと、書かずにいられない壮大なテーマをみつけてしまった。
"教訓めいた記事を書きたい症候群"
そう、この世界では、どこに行こうとも、何をしようとも、事前に特に目的がなく出かけたって、教訓めいた記事を書けないことをする方が難しい。
あるとき気づいた。
旅の途中、目の前にある風景をただ楽しむのとは違う、別の思考回路が動き出すことに。
ほら、感覚が研ぎ澄まされているのとは違う。
どこに行っても何をしても、それを高校生に話せるくらいの「教訓めいた意味のある話」に仕立て上げてしまう自分のことを、いつしか面倒な人間だと思い始めていた。(注:筆者は元高校教師)
どーせ、意味がある。
だったら、旅先くらい「え?それ?」って思われるような、遊びゴコロに全振りして決めたっていいじゃないか。
「で、何しに行くの?」
目的はロックフェスだと決め込み、先走る友人に私は言う。
「ししゃもでナイアガラ、作りに行く」
説明しよう。このイベント:ナイアガラししゃもとは、釧路出身のクレヨン画家=加藤休ミさんが描いた釧路産ししゃものTシャツを着て、みんなで繋がり写真を撮ろう!というもの。
言うまでもないが、ナイアガラとはナイアガラの滝のこと。
ししゃもと、ししゃもが繋がると、でっかい滝みたいになる。
さすがは著書に「ナンセンス絵本」という冠が付される作家さん。
この1文の潔さ。仮に私が思いついたとしても、印刷する前にまずオッケーが出ないだろう(褒めてる)。
ナンセンスをナンセンスなままにして許されるのは、力を持った人だけだ。
ナンセンス・イズ・パワー。
「まったく何が言いたいのやら…」って口にするのとは裏腹、作品への愛が目や唇の端にダダ漏れしちゃう編集者さんに伴走してもらえる「力」は私にはないが、
自由に休みがとれ、格安航空券を買えるだけの「力」が私にあるのなら、ナンセンスを追い求めるために惜しみなく使ってみようじゃないか。
幣舞橋(ぬさまいばし)までの旅
圧倒的画力でTシャツに描かれたししゃもは、本物以上に本物みたいだ。
初めて見た人は「これって写真?絵?」と、必ず聞いてくる。
そんな公式ユニフォームを朝から着込む。
約8時間の長旅にも耐えうるドレスコードだ。
高速バスを梅田で乗り換えたとき、日本人スタッフの方に中国人に間違われるという体験をし、結局最後まで日本語がわからない中国人を演じることに成功した。Tシャツのインパクトが強すぎたせいにしておこう。
関西空港では念のため同志の存在を確認すべくキョロキョロ周りを見ていたが、同じTシャツを着た人は確認できなかった。
しかし、1人のししゃも ―Tシャツを着た人― が、台風と台風の狭間で混乱状態にあった釧路空港に着いた瞬間、1人は4人になった。
すかさず写真を撮ると、空港に1発目の小さなナイアガラができた。
同じTシャツを着ているというただそれだけのことで、生き別れの仲間に再会できたような気分になった。
私が宿泊したゲストハウスから撮影スポットの幣舞橋までは歩いて6分。
この弊舞橋、「思ってるより大きいよ」と聞いていたとおり、想像以上に大きく、広かった。点々と置かれた銅像のためか、異国情緒もあり、「港町:釧路」という言葉から連想していた町の雰囲気と違った。さすが世界3大夕日を謳われる釧路。
集合時間の目安は17:30。そこから各自で写真撮影を楽しみ、夕日の刻に全員でナイアガラを繋げ、写真を撮る。
シンプルなイベントだが、私のように遠方から参加する人も少なくないようだ。
どこにいたのだろうか、集合時間が近づくにつれて続々と「ししゃもたち」が集まってくる。あっちからも、こっちからも、湧いてくる。
町内会の集まりのごとくやってくる人たちの中に、どこからどう見ても観光客な私がいて、スキップするように笑顔で集合する家族もいて、駆けてくる人もいた。
間に合うようにと走ってこられたのだろう、その姿に、このイベントに対する大人の本気を見た気がした。
総勢60名が横に並んでもまだ対岸から撮影ができるほどの大きな橋。
行き交う車の流れが途切れた隙をついて、ついに集合写真が撮影された。
(うれしい心配:来年はドローンが必要だな)
アートなのか、ノリなのか
旅先でひとりになると、「もし自分がこの街に住むことになったら」と仮定し、
職場がこのへんだとすると、このバスを使って、
この川沿いが毎朝のジョギングコースになり、
このお店を拠点に友達をつくり、情報収集をしよう
と、妄想モードが発動する。
釧路でも湿原観光の合間に半日くらいそれを楽しんだ。
「ナイアガラししゃも」以外、特に何も決めていなかったからだ。
3泊目の宿をとっていた阿寒湖畔への移動は車だったので、急な目的地の変更も可能だった。
「シゲチャンランドにも寄れるよ」
事前に候補のひとつには上がっていたから、その名前に聞き覚えはあった。
でも、その1時間ほど前、あの古本屋さんに行くまでは、ナビで設定していた目的地は確かに硫黄山だった。
弟子屈町でスープカレーランチを食べた後、隣の素敵なログハウスに立ち寄った。
ししゃもイベントにも来られていた方のお店で、本とリトルプレス 丸干さんだ。
器とその周辺 山椒さん が経営されている。
情報誌の編集長もされている店主さんと話し込んでいたら、午後の予定がガラリと変わるほど熱烈にお勧めされた。
「次はここに行こうと思うんです」
「なに!?」
「こっちとも迷ってるんですけど」
「いやいやいやいや、そのどっちでもない」
本屋さんに来られた地元のお客様にまで、
「僕の意見に間違いないよね~?」
と同意を得て、満場一致で急遽、行先が変わった。
クリエイティブな方がされているお店に来られる方もまたクリエイティブだったりして、私もここに導かれてやってきた以上、例に漏れない人種と思われ、意見の偏りはあろう。
それでも、人にここまで真剣に推してもらえることも珍しい。
「シゲチャンランドに行きなさい」
もうすでにこんなに近づいている。とはいえ、すぐに行ける距離でもない。
「できるだけたっぷり時間をとってほしい」とまで言われ、急いでその美術館に向かった。
着いたのは15:00すぎ。閉園時間は16:00だった。
セーフ……?
シゲチャンこと大西重成さんが出てこられ、「時間は気にしなくていいですよ。ゆっくり見ていってください」と、優しい目をして言われた。
入口のところでパイプたばこをくゆらせていた大西さんがとてもかっこよく、それが一番絵になるなぁと思ったのはまた別の話だが、私が勝手に抱いていた( 気難しい人なのでは…? )という予想は、完璧に外れた。
ご夫婦ともどもやわらかい雰囲気をまとわれていて、何にでもケラケラと明るく笑ってくださる素敵なお人柄だったからだ。
シゲチャンランドとは、大西さんがつくられた私設の美術館だ。
大西さんのたくさんの作品の置きどころとして誕生したとのこと。
最近の作品になればなるほど、むしろ若々しい感性で表現されているように思えたことに驚いた。
受付も販売も、すべての業務を大西さん自らが奥様と一緒に担っておられる。
作家さんのすべての作品を見ることができ、いつでもそのまますぐに感想を述べたり、お話を聞いたりすることができる美術館、これまでにあっただろうか?
自分の中でテーマであった"遊びゴコロ"が可視化され、そこにあった。
シゲチャンランドで購入したガイドブックに、ライターの小倉孝康さんが書かれていた。
今回の旅の目的である「ナイアガラししゃも」に対して思っていたことと、はからずもリンクした。
それは、平和を希求するパフォーマンスアートとして宣伝することだって可能なイベントでもあり、
ただのノリとして楽しみたいものでもあった。
しかし、
はるばる岡山から、
たぶんまだ誰も大々的な記事にしていない「ナイアガラししゃも」に参加するために北海道に飛んだ私が、
おそれ多くも最初にこのイベントを文章にする者としての責任を感じつつ言いたいのは、
「ただ面白いだけ」の作品や、「ただのノリ」で始まったイベントや、「ただの冗談」の持つ表現力を、軽んじてはいけないということだ。
教員時代、「旅行記を書いて」と頼まれることが何度かあった。
職場の人しか読まないとはいえ、数千部は刷られる広報誌などに載る。
教育的な何かを書かなきゃいけないと思って書いていたら、それがある程度ほめてもらえた。でも、そういうものばかり書いていると、次に旅に出たとき、どういう教訓を記事にしようかと、旅をしながら戦略を考えるようになった。頭で文章を書くようになっちゃって、それは不自由だと思ってた。
やっとのことで言語化できた。シゲチャンのおかげだ。
私を釧路に呼んだのは
と、インドが好きで何度も行っていた文学部の教授が教えてくれた。
初めてアフリカの土地を踏む前には、こんなことわざがあることを知った。
インドだけじゃない。アフリカだけじゃない。
行ってみるとその土地に呼ばれたんじゃないかと思えるような不思議な感覚や、何かを口にしたのが忘れられなくてもう一度そこに帰りたいと思う気持ちを、旅好きな人なら何度も味わっているはずだ。
炉端焼きで食べた花咲ガニ、夏の夜に響くカモメの大声量、夏でも涼しいランニングコース、食堂の海鮮丼、マニアにはたまらない廃墟、遊歩道からの湿原、サバンナにそっくりだった湿原、鹿やキツネ、立ち寄り温泉、そこで買った飲むヨーグルト、回転寿司「なごやか亭」さん、夜の喫茶文化、そこでいただいたクリームソーダと固めのプリン、白樺の林、セイコーマート、そこで買った「すじこオニギリ」、昔ばなしの永遠ループする道に迷い込んだかのようなクネクネ山道、そこに霧のかかったファンタジックな山々、電灯がない道路にある矢印の反射板、阿寒の森と湖、天空のガーデンスパ、アイヌの民芸品「木彫りの熊」、ワカサギの天ぷら蕎麦、だれもいない早朝の阿寒湖でのカヌー、波の立たない湖面が鏡みたいだったことと、その景色の中でいただいたコーヒー、
そして、聖地:幣舞橋でのナイアガラししゃもと、シゲチャンのいるシゲチャンランド。
きっと私はまたそれらに会いに行きたくなる。
旅で”遊びゴコロ”を満たそう
ヨガ教室で「視野を広~くして。遠くから自分を見つめてみましょう」って先生が言った瞬間、目を閉じたらサバンナが見えたから、ってノリでウガンダに行ったっていいし、
バリに誘われたけどなんかピンとこなかったら、カタカナ1文字を変えてパリに行ったっていい。
「そんなことにそんな大金をつぎこんだの?」と言われれば言われるほど、自分だけの基準で旅先を選べたことに、ドヤ顔をしてしまう。
価値基準がコロコロ変わる社会で、
私がストックしていきたいものは、自分にしか意味のない思い出だけだ。
遊びゴコロを満タンに、またどこかへ出かけたい。
あとがき
ナンセンスな文章を書きたくて書き始めたのに、逆に壮大なテーマに挑むかたちとなってしまいました。
書ききったので、ご褒美にランニングシューズを買いに行きます。
どこまでも教員くささが抜けないのはご愛敬、ということで、ひとつよろしくお願いします。
また、以前に販売した有料noteをお買い上げくださった皆様、内容が一部かぶりますことをご容赦ください。
ここまで長文を読んでくださり、ありがとうございました。