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抗えない前提
正しさとは、何か。
この問いは、難しくもあり、またナンセンスでもある。
正義は人の数だけあり
正解は場面の数だけあり
正しさを決める前提は、環境によっていかようにも変化するから。
若いころは『正しさ』を伝えなければならない、と必死だった。
そもそも『正しさ』の何たるかも分かっていなかったし(今もわからないけれど)間違ったことを伝えてはいけない、と怯えていたのかもしれない。
自分を自分たらしめる前提。
それは生まれ持った自分の『肉体』
自分の『肉体=身体』だけは、自分の中の大前提として自らの裡に存在している。
それはある意味で、“抗えない前提” ともいえる。
それをネガティブに捉えるのか、ポジティブに捉えるのか。
ありのままの自分でいよう、とか、自分を好きになる、とか、自分を受け入れよう、とか世の中には“ポジティブに捉えよう風潮”が、少しばかり多い気がする。
前提にはそもそもネガティブもポジティブもない。
数字を代入するまえに『xとおく』前提に、ポジもネガもないように。
だから自分の身体という前提に、本来、ネガティブもポジティブもない。世間がそれをどちらかのバイアスに寄せてしまうだけで。
もって生まれた身体条件が、やはりそのまま前提条件になることも、また事実だ。ときにそれは残酷なまでに自分の前に立ちはだかるけれど、それも含めて自分の前提であることは変えられない。
誰一人として、まったく同じ肉体を持つ人間はいない。
人間の数だけ、身体という前提がある。
自分の身体を生きることが人生であり、その抗えない前提と向き合うことが生きていくということでもあるのだと思う。
しかしまた『人間』という同じ身体構造を持つ中で、本質的に変わらない前提もある。
それが解剖学的理論。
本質的に同一の前提。
それを共有できたら、身体感覚を誰かに言葉で伝えるとき、より明確に相手に伝わる。
その他の概念も、感覚的に共有しやすくなるのではないか。
私が理論や身体のしくみを伝えたいと思うのは、ただただその想い一つだけ。
知識をいっぱい蓄えようとか、その正しさを武器にしようとか、そんなのはなくていい。
舞台というフィールドの上で、試合という本番の中で、知識を肉体感覚に変換するヒマは、ない。
ハッキリ言ってそれどころじゃないから。
本番以外の時間の方が、生活の中ではるかに長い。
その長い時間の中、身体のしくみの前提をもっと知れたとしたら。
動きのメカニズムを知って、トレーニングできたら。
舞台の上で、試合の中で、無意識的に選択された動きに“使われる身体”は、カタチに決められて“使える身体”になる。
その可能性を、身体は秘めていると思う。
――― だってずっとその身体で、生きてきたんでしょう ―――
BUMP OF CHICKENの『ゼロ』。
この歌詞にグサッときた。
自分の身体で、生きる。
ただ、それしかないし、それ以上でもそれ以下でもない。
この身体で生きること以外、選びたくても選べない。
自分の肉体の前提を受け入れるということは、肉体の可能性をあきらめることなんかじゃない。
身体の構造という“大前提”を踏まえて、じゃあそこからどうするか?と、可能性の幅を広げていくことだと思う。
だから私は伝えたい。
誰にでも、場面で最高に適した”使える身体”として変わっている可能性はあると信じているから。
正しさとは、何か。
正しい身体の使い方というのは、本来正しくない。
正解は場面によって違うし、個々によってさまざまだから。
けれどその場面という“カタチ”に適し、ベストを発揮できる“自分の身体の状態”はあると思うし、自分で作っていけるものだとも思う。
自分の身体で生きる。
それが抗えない前提だと心のどこかで知っているから、生きることは苦しいのかもしれない。
でも、それがあなたというたった一人の人だから。
大切で、愛おしいのだろう。