寄り添うコト
私は、大切な人に寄り添えているだろうか。
この夏、何度も何度も、数えきれないほど考えた、自分への問い。
予測外のこと
想定外のこと
あるいは
想像以上のこと
そんなことがたくさんあった、2020年の夏。
もちろんコロナ禍という前代未聞の状況も含めて、誰も知らない夏が来ていることだけは間違いない。
大切な人が、苦しんでいる様子も目の当たりにして、何もできない自分がもどかしく腹立たしかった。
寄り添う、っていうことを死ぬほど考えて、行動を起こして、これが正解なんじゃないかと思っても、本当はもっと違う方法があったんじゃないか、と己のふるまいを振り返っては自責の念に駆られた。
そんなことを、もう何回繰り返しただろう。
そんな2020年の、夏。
正義は時と場合によって変わる。
例えば法律に則って、これが最適解だと思って導き出した答えすらも、場合によっては簡単に相手への威嚇へと取って代わるだろう。
自分はどこに立っているのか。
そこから何を覗くのか。
そして何に寄り添うべきなのか。
分からなくなった。
“覗けたつもりになって”いたことを、痛いほど知った。
かつて私の母がこう言っていた。
『自分が関わっている子ども達が、一日一回、ほんの一瞬でもいいから、心からホッとできる瞬間を作りたい。
それが私の仕事。』
母は保育士・幼稚園教諭と園長を経て、学童の指導員という子どもに携わる仕事に人生の大半の時間を注いだ。
『子どもたちがやがて大きくなったときに、私のことは忘れて欲しい。子どもにとって成長とは未来に進むことだから。
ある時点に留まって、そのときの“先生”の存在に依拠してしまうことは、成長を止めてしまう。
経験したことや、ある出来事の感触やホッとした想い、そういうものが何か少しでも残ればいい。その子の糧になったり、支えになればいい。
そのために私は全力を尽くす』
忘れられない先生っていうのが、良い先生なんじゃないかな…だから、その時はこの言葉がピンとこなかった。
けれど今思うと、究極の寄り添いとはこういうことなんじゃないか、と思った。
改めて、母の言葉が、胸に刺さった。
相手の望むことを提示したり、こちらの意図に沿ってもらうことも、もちろん寄り添いの一つのカタチだ。
だけど、一歩間違うと押し付けてしまったり、意に沿わない結果を招いてしまうこともある。
そこからももちろん学べるけれど、取り返しのつかない結果になってからでは遅い。
寄り添うこと。
それは相手を尊重し、相手の未来を“覗く”ことなんじゃないだろうか。
“今ココ”という近視眼的な視点で、『何をしたら良いか』と考えただけでは覗けないし、寄り添えない。
ボールに認識がいってしまった、プレーヤーのように。
ミライの瞰カタ。
まさしく、それが覗くこと、そして寄り添うことなんだろう。
全然、覗けてないし寄り添えてない自分に、絶望する日々。
その絶望を味わってなお、瞰カタすらまだ、わからない。
けれど気づくことはできた。
ほんの少しだけれど。
そしていつか、本当の意味で寄り添うことのできる自分になりたい。
2020年の夏は、まだ続いている。
どこまでいけるかわからないけれど、残りの夏を全力で生きようと思う。