個展「庭のくじら」のためのテクスト
明日から自分のアトリエ1階で個展を開く。今その設営をしながらこのテキストを書いている。はっきり言って後手後手だ。初めてくらいに後手後手だ。
展示タイトルだけは昨年のうちに考えてあった。しかし展示の内容は未定のままだった。そのままずるずると会期だけが近づきどうしたものかと途方に暮れていた。
夏目漱石は連載が終わると、書生さんに聞いたらしい。
「わたしの次の連載は何でしたか?」
「はい、先生。先生の次の連載は「こころ」というタイトルで〇〇新聞に連載予定です」
「そうか、私は心について書くのだね」
と、いうやりとりがあったとか、なかったとか。
「庭のくじら」というタイトルは決まっている。
タイトルが先に決まっていて、そこから実際に考え作り始めるということはそんなに珍しいことではないと思う。
流石にまずいと思い、10月の末、10日間くらい時間をつくった。クライアントワークを巻いて巻いて圧縮して捻出。(つまり会期が始まったと同時に怒涛のようにクライアントから連絡があるはず・・)
創作するにはまとまった時間が「やっぱり」必要であった。面白いくらい本が読める。次々と(展示とは関係のない)アイディアが浮かぶ。自分と向き合う時間がなくして創作はない。
だから、つまりこれだけ本が読めるのは、創作(アウトプット)するために必要な何か(インプット)が足りていなかったということに、ちがいない。
今回は作品の半分を新作、半分を旧作にすることにした。
これまで、個展のたびにその場所やその時にあわせてほぼ毎回新作だけを発表してきた。それらがたまってきた。
今回は作りかけのシリーズに手を加えてみることにした。ちゃんとシリーズとして育ててみる。継ぎ足し継ぎ足しテクストを編むように。
シリーズ(テクスト)は三つ
遠近消失のシリーズ(仮)
熊谷守一は、「山を見ながら裸体も描けるし、裸体を見ながら山だって描ける」、というようなことを言っていた。
画面の中に絶対的な大きさというものもなく、描く側の視点もいかようにでもできる。「私」がとけて私以外の「世界」と曖昧になった時、見えてくるものがある気がする。
箱のシリーズ
最初の個展で考えたシリーズ。
絵を売ること、買ってもらうことも初めてだった。
「買う」と「飼う」をかけてみた。「かけ言葉」や「本歌取り」の手法は昔から好きだったかもしれない。
箱に見立てた画面に、飼うことができない動物をつめて、絵として買ってもらう。
地(背景)と図(モチーフ)の関係のズレからテクストをつくりたい。
8million(八百萬)のシリーズ
元八百屋さんのコワーキングスペース八百萬で発表したのがきっかけ。
裏には「8,000,000/n」のエディションが入っている。
山形では、大黒様のお歳夜に二股大根を大黒様の妻としてお供えする風習がある。
西洋絵画の伝統的な構図の一つにオランピアがあり、こちらは娼婦がモデルだが、元々はビーナスや女神がモチーフになっており、裸婦を楽しんだ口実といえる。
あれは神々を愛でているのであって裸婦を飾っているのではない。
これは大根であってセクシーでも仏画でもない。いや、そもそもこれは絵の具の塊であって大根ですらない。
そう、あなたが見たいように見えているだけだ。
ご来場、お待ちしております。
会期中、ずっと在廊しながら描きかけの絵を描いたり、お茶をお入れしています。
今回の展示を準備するにあたり、これまで気が付かなかったアイディアが浮かびました。
ここ近年、表現の保証を考えている。それは、創作の保証と展示の保証。どちらも地域にほしい。だからアトリエの1階を改装して、ギャラリー(展示)とアトリエ(創作)を作った。そしてカフェもできるようにしている。
カフェは気軽に訪れてもらえるように敷居を低くするためのつもりだった。しかし、カフェは対話の保証に必要ではないかと気がついた。
創作と展示と対話。
対話は批評と言い換えてもいいかもしれない。カフェが言論空有をつくってはくれないだろうか。作品を作ること、見てもらうこと、それに感想をもらうこと、言葉で共有すること。(それらが別に一つの空間に共存する必要はないのだけど、三つ別々に作れるほどリソースが足りていない)
会期中、今年見た展覧会や映画、本、音楽のはなしをお持ちください。
毎週土曜日の午後に、「ダイアログカフェ」と称しお話ししませんか?
もちろん、この展示の感想もお聞かせください。
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