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学術書の翻訳出版の進め方①:「研究者が翻訳書を出すことの意義」にまず気づこう

ありがたいことに,2023年から2024年にかけて,私 (樫原) の携わった翻訳書が2つ出版されることとなりました。『プロセス・ベースド・セラピーをまなぶ』も『心理ネットワークアプローチ入門』も,私が入れ込んでいるアプローチについての非常に優れた入門書です。臨床心理学や周辺分野に携わる方々に,ぜひ手に取っていただきたいです!

2つの書籍とも,出版企画が立ち上がったのは2022年でしたので,随分と長い道のりだったように感じています。監訳者という立場で何が大変だったかというと,「研究論文の書き方」に比べて,「学術翻訳書の出し方」についてのガイドが巷に少なく,試行錯誤の連続だったということです。将来また翻訳書を出すことがあればもっとスムースにやりたいし,今後翻訳出版を目指す人に向けた道しるべも示しておきたいところです。そういった経緯で,「学術書の翻訳出版の進め方」というシリーズ記事を書いてみようと思い立ちました。全部で3~4記事ぐらいになる予感がしていますが,書いてみないことにはよくわかりません。不定期で気の赴くまま書き進めますので,みなさまよろしくお付き合いください~。




学術書の翻訳出版に対するネガティブな意見

学術書の翻訳出版はロングスパンの取り組みになるので,その途上ではいろいろな人の意見が耳に入ってきます。あくまで肌感覚ですが,研究者コミュニティのなかでは,翻訳出版に対するネガティブな意見がけっこう多い印象です。そういったネガティブな意見にも一理あるので,まずはそれらをちゃんと直視したうえで,翻訳出版を進めるかどうか意思決定するのが良いと思います。以下,よくある (と樫原が思っている) 意見を列挙します。

翻訳出版に取り組む時間があるなら,研究して論文を書け

ごもっともな意見です。研究者たるもの,自分の手を動かして新たな研究を遂行し,論文を出版してなんぼです。翻訳出版の長いプロセスでは,マイペースに作業できるフェーズもありはするのですが,ときには「翻訳関連の作業で毎日時間が溶けていく…」というフェーズもやってきます。たとえば,初校の赤入れ (ゲラチェック) などです。来る日も来る日も赤ペン片手に,より的確な日本語表現を求めてうんうんうなっていると,「これもう,研究者っていうか作家かなんかだよね…」という寂寥感を味わうようになります。「あーあ,この作業をしているうちに,世界の研究者はバンバン論文出してるんだろうな」という愚痴が増えます。「研究やって論文書きたい!」という研究者の本能がうずいて,ストレスが溜まります。

でも,翻訳出版を実際にやってみると,「2~3年スパンで考えると『翻訳書よりも論文を書け』という意見は正しいけれど,5年10年のスパンで考えるとそうでもないよな」と思うようになりました。長期スパンでみたときに翻訳出版がどういったメリットをもつのかについては,のちほど詳しく説明します。

英語版があるんだから,みんなそっちを読めばいいじゃん

こういう言葉が自然に出てくる人って,本当かっこいいなと思います。きっと,論文でも書籍でも読むべきものは自分で見つけ,英語文献でも臆せずガンガン読んで来られたのでしょう。

そういう人は,ぜひ身の周りの研究者や学生に「英語の論文や書籍ってふだんどれぐらい読んでる / 読めてる?」ということを一度聞いてみてください。「ちゃんと意味を理解しながら英語で読む」という作業を習慣的に実践できている人は,思っているよりも少ないです。それから,英語の良い本があっても,日本にいるとその情報が広く周知されないということはよくあります。出版不況と言われて久しいですが,国内出版社の発信力をなめてはいけません。学会会場で平積みになるとか,AmazonやSNSで日本語書籍の情報がふっと舞い込むとか,ああいうものの影響力はやっぱり大きいです。

「英語版があるんだから,みんなそっちを読めばいいじゃん」と言える人に,私は問いたいです。あなたの専門分野が,「英語で書かれた最先端の本」ではなく,「日本語で書かれたいまいちな本」で塗りつぶされたら悔しくないですか? あなたが英語文献で得た感動を,もっと多くの人たちと分かち合いたくないですか? これらの問いに対して「たしかに」と思った方は,ぜひ翻訳出版の価値にも目を向けてみてほしいです。

翻訳出版は儲からない

そりゃそうです。翻訳書に限らず,学術書というジャンルがそもそも儲かりません。研究者が書籍でお金儲けをするには,一般向けのポップな本でベストセラーを狙うぐらいしかないでしょう。

ただ,「学術書」というジャンルのなかで考えてみると,「日本の研究者による書き下ろし」よりも「英語圏の有名な研究者が書いた本の翻訳書」の方が手堅く売れるようなイメージがあります。どの研究領域も,世界中の研究者が英語で議論しあうことで洗練されていくものですし,購買者としてはやっぱり先進的な学術書を買いたいものでしょう。

「じゃあ,学術書というジャンルのなかでは,翻訳書が『儲かる』ということかな」とお考えになる人もいるかもしれません。でも,そんなうまい話はありません。翻訳書を出版する際には,「日本の出版社が,現地の出版社から翻訳権を購入する」という手続きが必須になってきます。翻訳権購入に予算を割く以上,監訳者・翻訳者にたんまりと印税を分配するというわけにもいきません。お金は潔くあきらめて,他のメリットに目を向けましょう。

研究者ではなく,プロの翻訳家が訳した方がいいものができそう

この意見はすごくナンセンスだなと思います。まず,「翻訳権を購入して,優れたプロの翻訳家も雇う」というのは予算的に厳しい話です。仮にプロの翻訳家を雇えるぐらいの予算があったとしても,「その研究分野に精通した翻訳家」なんて都合のいい人はそうそういません。翻訳出版の候補に挙がるような学術書ともなれば,「その研究分野のなかでも最先端のこと」が書かれているはずで,それを正確に理解できる人間は「その研究分野でいま活躍している研究者」に限られるはずです。プロの研究者なのであれば,「あーあ,プロの翻訳家が訳してくれたら楽ちんなのに」といった甘い期待はさっさと捨てて,「この研究分野の最先端のことをちゃんと理解できていて,ちゃんと訳せるのは,日本では自分しかいない」ぐらいの矜持を持ってほしいです。

とはいえ,一読者の立場に立ってみれば,「プロの翻訳家が訳せばいいのに」という意見を口にしたくなるのもわからなくはないです。翻訳書のなかには,訳文のクオリティがいまいちなものもけっこうあるというのが悲しい現実です。「研究の下地がちゃんとある」ということと,「英文を文法から正確に理解し,それを的確な日本語に直して伝えることができる」ということはイコールではないため,うっかりすると低クオリティの翻訳書ができあがってしまいかねません。翻訳出版に安易に手を出すと,「なんかぎこちない文章で,内容が全然頭に入ってこない…」「その辺の翻訳家に発注した方がよほどいいものができそう」などと不興を買ってしまうおそれもあるので,そのリスクは事前によく考えておいた方が良いでしょう。


学術書をあえて翻訳出版することのメリット

ここまで,学術書の翻訳出版にまつわるネガティブな意見を列挙しましたが,私としては「学術翻訳という営みには,デメリットよりもはるかに大きなメリットがある」ということを実感しています。以下,私が特に実感しているメリットを順番に説明していきます。

最先端のアプローチを誰よりも深く理解できる

私が尊敬する心理統計学の先生が,一緒に登壇したシンポジウムのなかで「慣れ親しんだアプローチを使い続けるのは楽だし,短期スパンでは論文も量産できるのだが,更新作業を怠っているとやがて『詰む』ことになってしまう」ということをおっしゃっていました。私が専門とする臨床心理学を見回しても,ここ数年は臨床実践の理論も統計データ解析の技術もものすごいスピードで進歩しており,ちょっと気を抜くとすぐに置いていかれそうです。今までの実績にあぐらをかいているだけでは,すぐに自分も化石となるんだろうな…という恐怖心が常にあります。

そうした目まぐるしい業界ですので,流行を表面的に追いかけようとしても,全然自分のものにならず終わってしまいがちです。そうした表面的な学びには限界があるので,業界でいま起きている潮流の「中核」とでも呼ぶべき重要なアプローチを抜き出し,そのアプローチを1から10までしっかり理解していく作業が必要となります。そうやって研究の大海原に錨を下ろしておけば,業界の潮流をうまく乗りこなせるようになります。つまり,最新鋭のアプローチをなにかひとつしっかり学び,研究の確かな土台を作っておけば,様々な変化や発展にも対応しやすくなってその先5年10年の見通しがぐっと明るくなるわけです。

翻訳出版という作業を丁寧にやれば,原文と訳文を何度も何度も読み込むことになるため,その書籍の扱うアプローチを隅々まで修得することができます。そうすれば,「このアプローチを日本で一番理解できているのは,まさしくこの私だ」と胸を張れるようになるかもしれません。いまの時代に重要な学術書をしっかりと選び取り,その書籍を深く読み込んで優れた日本語文に起こすという献身的な努力を続ければ,そうした理想像を本当に実現できるでしょう。最先端のアプローチを本当の意味で自分のものにできる機会はそうそうないので,重要な書籍に巡り合えたならば,目先の2~3年の研究スピードを緩めてでも翻訳出版に乗り出してみた方が良いと思います。

原著者たちとの確かなつながりができる

翻訳出版のプロセスでは,原著者に連絡を取る場面が何度か巡ってきます。原文に誤記などの疑いがあった場合に問い合わせる,日本の読者に向けたメッセージを書き下ろしてもらう,出版社間の契約には含まれていない付録コンテンツについて翻訳の許可を得る,などなどです。

もちろん,日頃の研究活動で英語論文を出版し続けて入れば,その分野の第一人者に届くこともあると思うのですが,それだけでは「同じ研究テーマに従事している研究者のうちの一人」という形でしか認知されません。一方,翻訳出版をやってみると,その分野の第一人者が「私の本を翻訳出版しようとしてくれている,あの日本人」として認識してくれるようになり,解像度が飛躍的に向上します。さらには,「翻訳出版に取り組んでいる」「日本語版がとうとう刊行された」といった話を国際学会やSNSで共有すると,その分野に興味をもつ各国の研究者からびっくりするぐらい褒めてもらえます。つまり,翻訳出版をきっかけに,界隈の有名人の仲間入りができるわけです。

界隈の有名人の仲間入りをすると,承認欲求が満たされるという効果ももちろんあるのですが,それ以降の研究活動がぐんとやりやすくなるということが期待されます。たとえば,論文査読の担い手不足が叫ばれる現代のアカデミアにあって,「あの書籍を訳していた,身元の確かな日本人」として界隈で認識されていれば,その分野の有力な研究者が査読を引き受けてくれる確率が上がりそうです。また,その分野で自分が尊敬する研究者と交流する機会が,学会でもプライベートな場でも増えていきます。そうした機会から得られるモチベーションは想像以上に大きいですし,将来的には共同研究に発展することもあるかもしれません。人と人とのつながりがもたらす力は計り知れないので,そのためならば翻訳出版に割く時間も惜しくはないといえます。

日本人研究者たちとの新たなつながりができる

先ほど「人と人とのつながりがもたらす力は計り知れない」と述べましたが,これと同じ話は国内の研究コミュニティにも当てはまります。あなたがほれ込むほどのアプローチであれば,興味をもっている研究者が国内にもそれなりの数いるはずです。翻訳出版に取り組んでいけば,他の国内研究者から「私も興味あるんです。翻訳ぜひ頑張ってください」と声をかけてもらえます。そうした交流から,新たな共同研究が始まることもよくあります。

なかには,下訳を分担で引き受けてくれる人も出てくるかもしれません。そうした人の仕事ぶりを監訳者などの立場で眺めていれば,一人ひとりの研究者の持ち味が具体的に理解しやすくなります。たとえば,学会などの対外的な場では控えめな印象の方でも,訳文の正確さや丁寧さで言えばピカイチといったことが見えてくることがあります。下訳を引き受けてくれるぐらいに関心の強い人は誰なのか,そしてその人たちには具体的にどういった強みがあるのかがわかれば,その後の研究活動 (シンポでの共演,共同研究など) もぐっとやりやすくなります。

また,出版された翻訳書がきっかけで,あなたの取り組むアプローチを新たに知る人も数多く出てくることでしょう。そうやって多くの人を巻き込んでいけば,新規性の高いアプローチについての理解者がどんどん増えていき,自分自身の研究活動がいっそうやりやすくなります。それだけではなく,新たに学んだ人々が風を吹き込んで,あなたの予想もしなかったような興味深い知見を蓄積してくれるかもしれません。多くの人がどんどん参入し,画期的な知見をどんどん生み出され,そのアプローチが本当の意味で日本に根付いていく…。そうしたダイナミックなプロセスを一番前の席で見届けるのは,きっととんでもなく楽しいことだと思います。

英文読解のスキルと文章力を大幅に伸ばすことができる

翻訳出版に向けて原書を読み進めていると,書いてある内容が「だいたい」わかるが「正確には」理解できない,という場面にしょっちゅう出くわします。出版可能なレベルの訳文を書くには,内容が「正確に」理解できるようになるまでその箇所を何度も読み込むことが必要不可欠になります。この読み込む作業をガイドしてくれるのが,文法です。つまり,「この節はこの節にかかるはずだから,こういうロジックになるはずだよな…」といったことを手掛かりに,1文1文の解像度を高めていき,「あーなるほど!完全に理解した!」という境地に達していくわけです。

そうして原文を正確に理解できたならば,今度は,理解した内容を「すっと読めるだけでなく,原文にも忠実な日本語」に起こしていくことになります。英語と日本語では文法が大きく異なりますので,単語を一つひとつ置き換えていくだけでは良い文章にはなりません。語順を入れ替える等の作業が必要になるわけですが,それをやっている間に原文のロジックが弱まってしまうとか,原文の構成要素のうちいくつかが抜け落ちてしまう (または,原文にない要素がうっかり足されてしまう) とかいったことがしょっちゅう起こってしまいます。そうしたずれをなくし,「ロジックの強さや情報量の面では原文として等価なのに,日本語として自然で読みやすい文章」を作り上げるには,日本語の文章を限界まで磨き上げることが必要になります。

こうした作業を熱心に行っていけば,英文法に対する理解が大幅に深まり,わかりやすい文章を書くためのノウハウがしっかりと身に付きます。そうした経験を積んでいけば,日々の英語論文読解の精度が高まり,英語・日本語の双方で質の良い論文を書きやすくなると期待されます。このnote記事のシリーズでは,英文読解や日本語の文章執筆といったレベルにまで踏み込み,学術翻訳の具体的なノウハウを紹介する予定です。これから学術翻訳に乗り出す方には,ぜひそうしたノウハウを参考にしつつ,英文読解や文章執筆のスキルを意識的に磨いていってほしいです。


まとめ

この記事では,学術書の翻訳出版について,世間のネガティブな意見と筆者自身が実感したメリットの両方を紹介してきました。いろいろと書いた内容をあえて大雑把にまとめますが,「長期スパンを見据えると,研究活動にプラスになることが多々あるので,ほれ込んだ書籍があるなら翻訳出版もやってみればいいと思うよ!」というメッセージをお伝えしたいです。この記事がひとつのきっかけになって,日本で新たなムーブメントを巻き起こすような,パワフルな翻訳書が次々と登場することを願っています!

あとは,「翻訳出版をするとなると,具体的にどういった工程が待っているのか」とか,「英文読解や文章執筆にあたって,具体的にどんなことを意識すればいいのか」とかの情報はあった方がいいですね。そういった内容も,今後のnote記事でお示ししていきたいと思います。お楽しみに!

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