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【分野別音楽史】#06-2「ジャズ史」(1920~1930年代)

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜
#03-3 「ミュージカル史」
#04「映画音楽史」
#05-1「ラテン音楽史」(序論・『ハバネラ』の発生)
#05-2「ラテン音楽史」(アルゼンチン編)
#05-3「ラテン音楽史」(キューバ・カリブ海編)
#05-4「ラテン音楽史」(ブラジル編)
#06-1「ジャズ史」(草創期)

今回の時代は「クラシックとポピュラー音楽の分岐点」として僕がたびたび重視している範囲になってきています。この『分野別音楽史』だけでなく、以前から様々な記事で触れている部分なので、文章が被る部分が多いですが、内容が分かっている方も復習だと思って再度読んでみてください。

このあたりの内容を新たに知るという方は是非とも、ここまでの記事とも見比べながら音楽ジャンルを横断していく視点を持ってもらえれば嬉しいです。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉1920年代のアメリカ=「ジャズ・エイジ」

第一次世界大戦の終結後、疲弊したヨーロッパを尻目に漁夫の利を占めた形でアメリカは一気に地位を向上させ、政治的にも経済的にも大発展し、世界の強国と変貌を遂げます。

1920年代、社会、芸術、ファッション、花開いた文化の力強さを強調する言葉として「ローリングトゥエンティーズ(狂騒の20年代)」と呼ばれるようになりました。そして、若者たちがダンスホールで新しいポピュラー音楽に踊りくれたその世相を指して「ジャズ・エイジ」とも呼ばれるのです。

19世紀末~20世紀初頭にニューヨークのブロードウェイでは劇場街が発達していき、音楽出版社の集合体「ティン・パン・アレー」が形成されました。

主流の音楽としてはヨーロッパルーツのオペレッタが基盤にありながらも、当時アメリカ南部から台頭してきたラグタイムなどのリズムが取り入れられ、ヨーロッパのクラシックとは異なるアメリカ流のポップス音楽が生産されていきました。「ミュージカル」という言葉が生まれ始めていたころであり、新しい娯楽として「映画」も産声を上げたころです。また、新しいメディアであるレコードやラジオによって音楽も広まっていきました。

こういったアメリカン・ポップスは、本来のアメリカ南部のジャズ・ラグタイムとは異なるクラシカル寄りな形ではあったのですが、もともと多くの白人たちにとって、ジャズという音楽が「酒場などで奏でられる、黒人たちの怪しい下品な音楽」と捉えられていたものが、このようなティン・パン・アレーのアメリカンポップスが浸透することによって、クラシックと異なる新しいジャンルとして「ジャズ」という言葉で市民権を得たのです。これによって、1920年代の世相が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるようになったのです。

このような、いわば「白人サイド」の事情は、ジャズ史単体だとなかなか触れられない部分でもあります。現在では、以下で触れる「黒人によるホンモノのジャズ」のほうがルーツとして正しいものであり、この時代の大衆にとってのポップスを意味する「ジャズ」は、本当はジャズではなく、白人による「文化の盗用」である、という見方が近年強くなってきているからかもしれません。

しかし、その音楽の「差別問題的な是非」を考える前に、まずはどちらかの系譜の存在を否定するということはせずに、双方の音楽の存在を知っておくことは、非常に大切ではないでしょうか。



◉シカゴジャズ~カンザスシティジャズ

それでは、ジャズ史「正史」としての、ニューオーリンズジャズから連なる系譜のほうを見ていきましょう。

ニューオーリンズにてジャズの発達する土壌となっていたのは、ストーリーヴィルという歓楽街・売春地区でしたが、1917年アメリカの第一次世界大戦参戦に伴って風紀粛清の機運が高まり、突如ストーリーヴィルが閉鎖してしまいます。貿易港・軍港として栄えていたニューオーリンズにて水兵たちの風紀を統率する目的があったのです。

これにより黒人音楽家たちは職場を失い、当てのない暮らしが始まってしまい、ニューオーリンズを離れてシカゴカンザスシティニューヨークへと移動していきました。北部の軍需産業の発展に従って南部から黒人労働者が北部の大都市へと大量移動したことも関係が深いようです。

さらに1920年、アメリカでは憲法が改正され、いわゆる「禁酒法」が施行されます。犯罪や暴力行為を減らしアメリカ社会の生活水準を上げるという目的があったのですが、これは飲酒を禁じたものではなく国内でのアルコールの醸造と販売を禁ずるものだったので、むしろ“もぐり”の酒場の繁栄を助長してしまいます。さらにカナダなど周辺国で作られた酒類が大量に輸入されることになってしまいました。

人々は買いだめたお酒を飲むこともでき、国内のお酒の消費量はかえって激増。さらに、密造や密売、密輸も横行しました。これに目をつけ、密造酒をもぐり酒場に運ぶ中間業者、ギャングが暗躍するようになります。ギャングたちは密造や密売により巨大な利を得、縄張りを拡大していきました。

この時期に頭角を現し、裏社会のドンとなったのがアル・カポネです。シカゴなどの暗黒街のボスとなったアル・カポネをはじめとする密売に関わるギャング・マフィアなどの抗争も激化し、より不健全な非合法酒場が横行する結果となってしまいました。酒を注文する代わりに簡単な合言葉で話していたことから、密造酒を提供するバーは「スピーク・イージー」と呼ばれ、20年代に激増しました。禁酒法は1933年に廃止されるまで続きました。こういったお酒の場でジャズが好んで演奏され、繁栄していくことになります。アル・カポネなどの闇の実力者たちもジャズを好み、保護していったといいます。

多くのジャズクラブが開かれた1920年代のシカゴは、ニューオーリンズに替わって新たなジャズの拠点のひとつとして栄えていき、その音楽はシカゴ・ジャズと呼ばれました。代表的なアーティストとして、ニューオーリンズで既にスタープレイヤーとなっていたキング・オリヴァー(1885~1938)やルイ・アームストロング(1901~1971)がシカゴに渡って活躍しました。ルイ・アームストロングはトランペット奏者でありながら歌手としても有名になり、“サッチモ”というニックネームで今でも親しまれています。

また、シカゴと同じようにギャング的勢力に街全体が牛耳られ無法地帯となっていたカンザスシティでも闇酒場が乱立し、ジャズが発達しました。大っぴらにお酒を飲むことができ、演奏も大音量が許されていたということから、勢いはシカゴ以上だったといっていいでしょう。ここでは、カウント・ベイシーなど、のちにビッグバンドなどのその後のジャズの発展を担う多くのミュージシャンが育っていました。

さらにシカゴやカンザスシティだけでなく、何と言ってもニューヨークでももちろんジャズが発達していました。ニューヨークにも闇酒場・スピークイージーが万単位で存在したといいます。ジャズ・ダンスパーティーが流行し、ナイトクラブが競って作られました。ここでは、フレッチャー・ヘンダーソン(1897~1952)が自身の楽団を結成し、サックス奏者のコールマン・ホーキンスやシカゴからやってきたルイ・アームストロングが加入し、異例の人気となります。この楽団によってジャズ・ビッグバンドのフォーマットが整えられていき、フレッチャー・ヘンダーソンはビッグバンドの創始者とまで言われています。

ちなみに、ラグタイムやジャズとともに黒人音楽として20世紀初頭に広がったブルースでは、1920年にメイミー・スミス「クレイジー・ブルース」が発表されて人気となり、これが「世界初のブルース録音」と多くの文献に記録されています。

聴いていただくと、こんにち我々がイメージするようなギターをかき鳴らすような原始的ブルースではなく、ジャズ的ですよね。編成的に初期のジャズと非常に似たものであり、楽曲構成はティン・パン・アレーのシートミュージック的であるといえます。「ブルース」の語は、先ほど触れた「ジャズ」の語の伝播と同じように、20世紀初頭からシートミュージックとして世間にも広まっていたのです。

その後登場したベッシー・スミスは「ブルースの女帝」と呼ばれました。

このように、この地点での「ブルース」とは、ジャズと背中合わせの都会的なサウンドの象徴でした。

ところが、このあと「ジャズ」が洗練されていき、白人社会にもどんどん浸透していったのと裏腹に、レコード産業の事情で差別的な「黒人向けレコード」が産まれてから、原始的な「ギターブルース」の音源が登場することになります。このあたりも、一般に浸透しているブルース史と、音源の録音された時期の時系列がねじれているようなことになっており、そこに差別問題も絡むという根深いことになっていますが、このあたりはジャズ史ではなくブルースについての記事でまとめなおしてみたいと思います。



◉ジャズ的アンサンブルの発展

さて、禁酒法時代の酒場で反映していきつつあったジャズは、上流階級にあった大半の白人の人々からしてみると、まだまだ“黒人の低俗でよくわからない音楽”という印象が拭えず、そっぽを向かれたままでした。それが突如、マジョリティである白人社会で市民権を得て人気沸騰することになります。そのきっかけは、ポール・ホワイトマン(1890~1967)のはたらきがありました。

ポール・ホワイトマンは、クラシックのデンヴァ―交響楽団のヴィオラ奏者でしたが、第一次大戦後にジャズに影響を受け、自身のダンスバンドを結成してニューヨークにやってきます。当時のオーソドックスなジャズバンドの編成に比べるとより大人数で編成したジャズオーケストラによって、ホワイトマンは人気を得て、みるみるうちに東海岸の数々のアンサンブルを指揮するまでになります。ホワイトマンは、耳を使った黒人の即興的な演奏スタイルをクラシック的な譜面によるアンサンブルによって再び整理することでブラッシュアップしようとしていました。

1924年、彼は『現代音楽の実験』というコンサートを開催することを思いつきます。ホワイトマンは、このコンサートの開催を決定し、宣伝も行われた後に、事後報告的にティンパンアレーの作曲家ジョージ・ガーシュウィンにある依頼をしました。それは「ジャズ風の交響曲を書いて欲しい」というものでした。

半ば強引に作曲依頼を任されたガーシュウィンですが、それまで彼の作曲は「習うより慣れろ」という形でビジネス的な作曲ばかりを経験によって学んできていたため、本格的なクラシック交響曲の作曲技法の知識には乏しく、困ってしまいます。結局ピアノ2台を想定して作ったものを、ホワイトマン楽団の編曲家を務めていたファーディ・グローフェにオーケストレーションしてもらう形で、『ラプソディー・イン・ブルー』をなんとか完成させました。

当日ガーシュウィン自らピアノを弾いて初演されたこの作品は、上流階級や知識人の多かった聴衆を一気に魅了し、大成功しました。衝撃的なクラリネットのイントロから始まり、従来のクラシックには使われないミュート・トランペットやサックスの大胆な使用など、ファーディ・グローフェによるオーケストレーションが成功の大きな一因でした。

“無調音楽”や“新古典派”、“民族主義音楽”など、19世紀のロマン派を否定して新しい芸術音楽を模索していたクラシック音楽の楽壇は、シンフォニック・ジャズとしてこの楽曲を受け入れ、西洋芸術音楽史の歴史に残ることとなりました。

クラシック音楽史だけを追っていると、ガーシュウィンは他のクラシック作曲家と同じ並びで登場し「クラシックの世界において、そこにジャズの要素を取り込んだ」という方向の記述でしか表現されません。今でも多くのクラシック愛好家は一般的にガーシュウィンをクラシック作曲家としてとらえているでしょう。

しかし、実際のところはガーシュウィンは先にティン・パン・アレーの作家であり、ジャズの発達段階においてこのような背景・経緯があったということは、俯瞰でポピュラーとクラシックの両・音楽史を追っていく上では非常に重要な事実でしょう。実際ガーシュウィンは、他のティンパンアレー作曲家と同じく、現在も多くのジャズミュージシャンが演奏しているポピュラーのスタンダード曲として残っている曲を多数作っています。ガーシュウィンは、クラシック音楽史とポピュラー音楽史の両方に(余談的ではなく「本編」として)しっかりとその名前が残る、唯一の例でしょう。

「ラプソディー・イン・ブルー」の大成功によって、アメリカの白人たちに「ジャズ」が好意的に認知されることになったのでした。シンフォニック・ジャズは、本物のジャズとは異なるものでしたが、白人たちにとっては新鮮な刺激となり、「これこそが本物のジャズだ」といった音楽評論家もあらわれるほどだったといいます。

それ以降、ジャズは本物であろうとなかろうと部分的であっても、黒人のリズム感や楽器の奏法などが新しい魅力の音楽として急速に市民権を得ることとなります。ちょうど1920年から急発達したラジオによってもジャズ、ブルース、ミュージカル音楽は拡散し、新しい音楽文化の繁栄を後押ししました。

ガーシュウィンをも巻き込んだジャズの洗練化と拡散の功績によって、ポール・ホワイトマンはメディアに「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれました。

しかし、現在ジャズ史にフォーカスして追っていった場合、ホワイトマンは影が非常に薄い存在です。

やはり、"黒人土着のものを尊重しルーツとするべき"という風潮のある現代のアメリカ・ポピュラー史においては、シカゴ・ジャズやカンザスシティ・ジャズといった黒人たちの「ホンモノ」のジャズに比べて、ポールホワイトマンは白人のクラシック側からのアプローチをしていたため、その視線を批判されるべきとされているのではないでしょうか。

《のちのメディアはホワイトマンを「キング・オブ・ジャズ」と呼んだことは誤りであったと自嘲的に語ることになった》などという記述もあります。

ともかく、第一次大戦終結後の空前の好景気によって若者たちが新しい文化を謳歌し、最先端の流行音楽としてジャズダンス・ホールが盛んになり、享楽的な都市文化が発達、大量消費時代・マスメディアの時代の幕開けでもあったこの「ローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)」の文化・世相を指して「ジャズ・エイジ」と呼ぶまでになったのでした。

1925年にマイクロフォンによる電気録音が登場し、それ以前のサイレント映画から、音声付きのトーキー映画が登場しました。世界初の長編トーキー映画「ジャズ・シンガー(1927)も、そのタイトルの通りジャズを題材とした音楽映画で大成功となります。この映画の音楽もまた、ティン・パン・アレーのアーヴィング・バーリンが担当していました。



◉1930年代 スウィングジャズ全盛期

フレッチャー・ヘンダーソンやポール・ホワイトマンによって、精密なアレンジが施されたアンサンブルの要素が強調されつつあったジャズ。電気録音誕生によるレコードの普及や、ラジオの普及、劇場などでの吹き込みなどの需要に応えて、いつ演奏しても同じ時間で演奏できるように、次第にきちんと編曲されたジャズが必要になっていたという背景もありました。

1922年にニューヨーク・ハーレム地区にできた高級クラブ「コットン・クラブ」。そこで演奏される黒人のジャズを聴くために、白人たちが連夜集うようになっていました。経営者は例にもれずギャングでした。1927年、デューク・エリントン(1899~1974)のバンドがここの専属バンドとなります。コットン・クラブでの活躍を足掛かりに、エリントンは人気を獲得していきました。

1920年代後半、ジャズドラマーのベイビー・ドッズハイハットシンバルを考案します。はじめは足元にあったものがだんだんと手で叩く位置に上がり、さらにタムシンバルなど、セッティングされる打楽器の種類が増え、現在のドラムセットに近い形が完成しました。これによって、ジャズやポピュラー音楽はリズム面の基盤が強化され、もう一段階のサウンドの変革が起きようとしていました。

(画像:http://saburoclinic.com/drums_name/ より)


1929年10月24日木曜日。俗に言う「暗黒の木曜日」、ニューヨークの株式市場の株価が突如大暴落し、大恐慌時代に突入します。ミュージシャンの賃金が大きく低下したことにより、ニューヨークをはじめとする大都市では大所帯のビッグバンドが編成される動きが活発になりました。1933年の禁酒法の撤廃に伴い、多くのジャズミュージシャンが移動し、ニューヨークがジャズのホームグラウンドになりつつありました。当時ニューヨークは、ニューディール政策の成功を受け空前の活況を呈し始めており、大規模なダンスホールやボールルームが続々と復活し、ビッグバンドへの大きな需要を喚起しました。ライブを観に来た客も、レコードと同じ演奏を期待するようになったため、より緻密なアレンジが要求される傾向が高まっていました。

30年代に入り、ジャズはスウィングジャズという段階に入ります。大編成のビッグバンドによる綿密な合奏で、楽曲中のソロ演奏のフィーチャーも特徴とし、ショー的要素ダンスミュージック的要素が強調されました。

デューク・エリントンのバンドは有能なミュージシャンを多数抱え、世界的に成功をおさめました。また、現在のスタンダード・ナンバーとして知られている曲を多数残しています。

カンザスシティでスターとなっていた、カウント・ベイシー(1904~1984)も自身の楽団を結成しニューヨークにやってきて人気を集めました。ベイシー楽団の楽曲は現在でもビッグバンドのレパートリーとして非常に人気が高いです。

そして、スウィングの要素を全面に押し出して成功したのがベニー・グッドマン(1909~1986)の楽団です。代表曲「シング・シング・シング」は非常に有名です。彼らの成功により、スウィング人気が決定的なものとなりました。

ベニー・グッドマンとともに「スウィングの王様」と称されたのはグレン・ミラー(1904~1944)です。お馴染みのヒット曲を多数残しました。

ジャズは大恐慌の暗黒の日々の中で、人々を鼓舞し、士気を高めるよすがとなっていきました。1940年頃には全米のチャートのトップのほとんどをビッグバンドジャズが占めるようにまでなっていました。


◉ポップ・シンガー/ジャズ・シンガーの登場

この時代、ビッグバンドに専属の女性歌手が続々と登場し、華を添えて脚光を浴びるようになりました。また、ティン・パン・アレーも引き続きブロードウェイ・ミュージカルやハリウッド映画に向けて音楽を量産し、その中からポップソングが多数ヒットしていきました。

当時の流行歌では、オペラをルーツとする、コンサートホールで聴衆に聞こえる大きな声が出る発声法が中心でした。しかし、1925年に登場した電気録音(マイクの使用)によって、歌唱法に変化が出始めます。電気録音の制約(マイクやスピーカーの制約) を逆に活かし、肉声による大声の歌唱とは全く異なる、マイクに向けてささやくように歌う歌唱法が誕生したのです。この歌唱法をクルーナー唱法と呼びます。

ラジオ放送の普及がクルーナーの人気に大きく関係しており、男性歌手のささやき声が、女性リスナーにとってセクシーに感じられ、アイドル的に歌声が人気となったのでした。そのため、クルーナー唱法の代表とされるアーティストは男性中心です。

一方、力強い女性シンガーもさらに活躍の場を広げていきました。

この時代に登場した主な人気シンガー

ビング・クロスビー
ビリー・ホリデイ
エラ・フィッツジェラルド
フランク・シナトラ
サラ・ヴォーン
ナット・キング・コール

このようなジャズシンガーによるヒットシーンは、1950年代にロックンロールが登場するまで、長い間、大衆の王道的「ポップス」の位置に君臨し続けたのでした。

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