千と千尋の神隠し 隅から隅まで 完全 考察
多分知らない人はいないと思いますが、ネタバレ注意です。
アニメを見て自分なりに考えたことを書きました。なお、Wikipediaも参考にしました。全体は、基本的に個人的な推論です。
発端
萩原千尋は小学生。両親と共に車に乗っている。引っ越しのためだ。千尋は新しい環境への不安と、以前の環境への名残惜しさからくる倦怠感に苛まれている。
目的地へもう少しのところで父親は道を間違える。上の高台に自分達の新しい家があるのを見つけたことから、今の道でもたどり着くのではないかと考え、父親はそのままの道を強行する。
道中、千尋は奇妙な石造が森の中にあるのを見る。車はやがて、とある門の前にたどり着く。門の前にも同じような石造があった。
好奇心が強く後先を顧みない父親
トンネルの向こう側に何があるのか興味を持った父親は、千尋の制止する声を無視して先へと進んでいく。母親もそれに続き、一人残されたくなかった千尋はついていくのだった。
やがて、おいしそうなにおいを父親がかぎつける。さらに進んでいくと、料理が更に盛られた人気のない料理屋にたどり着く。
千尋は父親と母親を一生懸命呼んで、帰ることを要求するが、父親も母親も憑りつかれたように飯をむさぼっている。
ハクとの出会い
あきらめた千尋は一人で大通りを歩いていく。そして、遠くにひときわ大きい建物があるのを見つけるのだった。
今までの店には人気が全くなかったくせに、この建物だけは、なぜか煙突からもくもくと黒い煙が出ていて、何かがいる気配がする。
千尋『変なの。』
千尋はそう呟いて、その建物の前に架けられている橋へ向かう。
橋の下を覗いてみると、線路があり、電車が走っていた。
千尋『電車だ。』
電車を見つけた千尋は、反対側も見てみようとする。しかし、傍に誰かがいることに気づく。
ここで、ハクという少年と出会う。
ハク 「はっ・・・。」
千尋 「ん?」
ハク 「ここへきてはいけない。すぐ戻れ。」
千尋 「えっ?」
ハク 「じきに夜になる、その前に早く戻れ。」
油屋の玄関に明かりがつく。
ハク 「もう明かりが入った。急いで!」
「私が時間を稼ぐ。川の向こうへ走れ!」
ハクという男にせかされて、千尋はわけもわからず元来た道を走っていく。
千尋が進むごとに店にはふつふつと明かりがともっていく。大きな頭巾をかぶった魔法使いのような、何やら黒くて透き通ったものがそこかしこで動いている。
千尋は父親と母親のところへ戻り、必死で帰るように呼び掛けるが、振り向いた父親は、何と巨大な豚に変わっていた。
千尋はその姿に驚く。
巨大な豚はなおも食べ物を求めて店の奥へ顔を突き出していくが、店に現れた黒い影にぴしぴしと蠅たたきのようなもので叩かれ、その場へ倒れるのだった。
その二人は父親と母親なのだが、千尋はとてもそうであるとは思えず、必死で父親と母親を探し始める。
変貌する周囲
千尋は両親がすでに車のある所に戻っているだろうと思い、元来た石段を駆け下りるが、なかったはずの川には水が溢れており、千尋はそれ以上進めなくなる。
自分達が元々歩いてきた草原は、水で満たされて、湖となっていた。(のちのリンの話によれば、どうも海らしい。)
遠くの方には、自分達が通ってきた時計台の門が見える。しかし、その時見た情景と違い、その周りには多くの店が立ち、明かりがともっているようだった。
千尋 「うそ・・・。」
千尋 「夢だ!夢だ!」
千尋 「醒めろ!醒めろ・・・!醒めろ!・・・。醒めて。」
千尋 「これは夢だ。夢だ。」
千尋 「みんな消えろ! 消えろ! 消えろ!」
千尋が消えろと言ったのと同じタイミングで、千尋の体が透け始める。
千尋はそのことに驚く。
千尋 「透けてる。」
千尋 「夢だ!絶対夢だ!」
しばらくすると、湖の向こうから船が到着し、中から得たいの知れない恰好をしたものがぞろぞろと渡ってくる。
千尋は驚く。頭にお椀を乗せた巨大な大根のようなものはさらに驚いて
、千尋は草むらの丘を駆けて逃げていく。
ハクとの再会
恐怖で震えている千尋のところにハクがやってくる。
ハクと再会した千尋。怖くて仕方がないため、ハクの言うことも聞こうとしない。しかし、ハクの体を自分の腕が通過するのを見て、ハクの言うことを信じる。ハクに出された食べ物を食べ、何とか消滅を免れる。
湯婆(ユバーバ)が鳥の姿になって空から千尋を探している。
なぜ体が消えてしまうのか
これは非常に難問である。推測でしかないが、八百万の神たちが住んでいる町は、普通は人間たちが入ってこれない世界だ。人間たちにとって八百万の神が住む世界がなんらかの別世界であるならば、逆に八百万の神たちにとって、人間の世界は別世界なのだと考えられる。
しかし、これだと八百万の神がいる意味がない。少なくとも人間とある程度のかかわりがあるからこそ八百万の神なのだ。飯を食って温泉に入ることがやることではあるまい。これはあくまでも彼らの慰安なのだ。
その場所にいるのだけれども人の目には見えないもの達、それが八百万の神の一つの特徴だ。千尋たちが迷い込んだ世界は、そういう者達が見える世界なのだということは間違いがないだろう。
八百万の神たちは、昼になると姿を消し、夜になると姿を現す。このことから考えると、人間たちは夜になると姿を消し、昼になると姿を現すような、相関関係にあるのではないか。
ところが、最後を見ると必ずしもそうではないことがわかる。千尋が銭婆(ゼニーバ)のところから帰ってくるとき、八百万の神たちは明るくなったにもかかわらずいるからだ。油屋の中から、千尋が正解を答えたのを共に喜んでいる。
また、元々千尋がいた世界も、夜になったからといって八百万の神が当然のように現れるわけでもない。
これは、実体のないものが実体を持つ世界なのだ。だから、そういう世界では実体のあるものは消えてしまうのだろう。だからこそ、魔法も使えるのである。
どうしてこの世界の物を食べると体が消えなくなるのか
これも非常に難問である。もはや私の頓智(とんち)になってしまうが、私たちがこの世界で生きるためには、この世界の物を食べなければ生きていくことができない。それと同様に、その世界で生きるためには、その世界の物を食べなくてはいけないのだろう。
この世界で自分の実体を保つためには、この世界の物を食べなければならない。そうでなければ、私たちはこの世界から自分の実体を失ってしまうことになる。
なぜハクは千尋と橋で出会ったのか
これは千尋が番頭に薬湯をもらいに行ったときの番頭と湯婆婆(ユバーバ)の会話である。
湯ババ 「何かが紛れ込んだよ。」
番頭 「人間ですか?」
湯ババ 「それを調べるのさ。今日はハクがいないからね。」
つまり、ハクは油屋にたどり着いた得体のしれないものを調べる係でもあった。油屋の者たちは、『ハクさまー。ハクさまー。』とハクを頼りにてんやわんやとなっている。ハクは店に迷い込んだ存在を選別する係を担っているようだ。
そして、湯婆婆(ユバーバ)はある程度気配を察知することができる。そして、大体のあたりをつけることもできる。しかし、それが人間であるかどうかの特定はできないようである。
湯婆婆(ユバーバ)の偵察範囲は?
カオナシが油屋の中に入ったとき、湯婆は何かが紛れ込んだことに気が付く。
その一方、クサレ神がやってきたときには、
「おかしいね。クサレ神の気配じゃなかったんだが。」という。
他にも、ハクが千尋をかばっているとき、鳥の姿になって千尋を探している。
この時、千尋はまだ油屋の橋の上にまでしか到達していない。
湯婆婆(ユバーバ)は千尋の親が飯を食べているのを知っていた。一方で、カオナシが入ってくることには気が付かなかった。だから、察知能力にはばらつきがあるだろう。
『雨に紛れて』というように、雨によっても変わるのかもしれない。
また、千尋は人間であるから、千尋が油屋にいることによって、カオナシとの気配が混ざりこみ、判別がつきにくくなったのかもしれない。
なぜ橋を渡る間は息をしてはいけないのか
ハク 「橋を渡る間、息をしてはいけないよ。」
「ちょっとでも吸ったり吐いたりすると、術が解けて、店の者に気づかれてしまう。」
ハクは知らない間に人間の匂いを消す魔法を使っていたようだ。
ハクは湯婆の弟子となっていた。魔法を学ぶためだ。千尋と出会ったときに時間を稼いだり、千尋を油屋へ連れていく際に足の立たない千尋に魔法をかけたりと、便利な魔法を使いこなす。
これは魔法であるからいいとしよう。しかし、次なる疑問は、どうして橋を渡る間に息をすると術が解けてしまうのか?ということになる。
橋を渡る際に千尋は息をしてしまう。目の前の青蛙は途端に人である千尋に気が付く。ハクの魔法で何とかその場を切り抜けるものの、油屋の中は人間が入り込んだことで大騒ぎになるのだった。
どうして橋を渡る間に息をすると術が解けてしまうのか?
これは超難問である。そういう魔法だからとしか言いようがない。
Wikipediaを調べてみたが、そういう呪文だからとしか書いていないようだ。
湯屋の連中が人の匂いをかぎ分ける能力はどれほど?
人間臭いと言って油屋を駆け回っている割には、ハクが戻ってくるときに戸を開けても、すぐそばにいる千尋には気が付かない。
おそらくハクが何らかの魔法を使ってごまかしていたのだろう。
他にもリンと共にエレベーターを上がる際、カエルから人臭いことを指摘される。
千尋が釜爺のところへ行く途中、窓を開けてタバコの煙を吐き出すカエルが出てくるが、千尋の匂いを察知できないようだった。タバコの煙で臭いが消されていたのだろう。
リンはイモリの黒焼きを出し、その場をごまかす。
どうも人間の匂いは、周りの匂いによって打ち消されるようだ。
釜爺(カマジイ)、そしてリンとの出会い
ハクの言うとおりにボイラー室を抜けて釜爺(カマジイ)の部屋へ行き、ここで働かせてくれと頼む。
しかし、釜爺(カマジイ)からは断られてしまう。そこでリンがやってくる。
これをきっかけとして、釜爺(カマジイ)はリンに湯婆婆(ユバーバ)のところへ千尋を連れて行ってくれるよう頼むことになる。
釜爺(カマジイ)の優しさ
釜爺(カマジイ)は最初こそ千尋に厳しくあたっていたが、リンに対して、千尋はわしの孫だといってかばったり、最後はグッドラックと別れの言葉を言っている。実際、釜爺(カマジイ)は千尋に重要なサポートをすることになる。
リンの優しさ
リンは千尋に厳しく礼儀を教える。その後ハクから千尋の面倒を任されるが、千尋に対してはよくやったなとほめてくれる。わからないことがあったら何でも聞けと言ってくれるし、姉御肌のいい先輩だった。
余談だが、リンの顔について
釜爺(カマジイ)のところで出会ったときのリンと、湯婆婆(ユバーバ)と契約を結んだあとに再会したリンとでは、若干顔の長さが違っている。契約を結んだあとは、まるで普通の人間のようになっている。単純に作画の都合だろうか。その後、また同じくらいの長さに戻る。
千尋に優しい存在と厳しい存在がいるのはどうして?
例えば、千尋が油屋に入った途端、油屋の者達が一斉に人間だと騒ぎ始める。こうしたもの達は、後で千尋をいじめたりする。
一方で、釜爺(カマジイ)はそんなことは無かった。リンも千尋の存在に驚くものの、千尋のことをみんなにばらしたりすることがないし、優しい。この差はどこにあるのだろうか?
これは、釜爺(カマジイ)とリンのこの言葉から明らかになる。
釜爺 『わしは釜爺だ。風呂釜にこき使われとる爺だ。』
・・・
リン 『俺いつかあの町に行くんだ。こんなとこ絶対にやめてやる。』
この言葉から察するに、釜爺(カマジイ)もリンも千尋と同じように外から来た者なのだ。人間は珍しいが、彼らも元々油屋の人間ではないということである。こういう人間たちは、どちらかというと千尋に優しいようである。おそらくは会社とそこまで深いかかわりがないのだ。会社にどこか不満を持ちつつも雇われている存在だろう。
ハクが千尋の面倒をリンに任せた時、リンが適役だと言ってカエルたちはにやりと笑う。カエルの仕事である大湯の掃除を押し付けて、陰でくすくすと笑っているところが目立つ。
リンは、千尋ほどでないにせよ、この職場ではいろいろと嫌ないびりを受けているのだろう。だから、こんなところ早く出て行ってやると言ったのだ。
湯婆婆(ユバーバ)との出会い
最上階にたどり着いた千尋は、湯婆婆(ユバーバ)に出会う。
ハクの言う通り、湯婆婆(ユバーバ)は千尋を脅かしてくるが、千尋は何度も働かせてくださいと頼む。坊が暴れだしたおかげもあって、湯婆婆(ユバーバ)はしぶしぶ千尋と契約を結ぶことを承知する。
湯婆婆(ユバーバ)『でもまぁよくここまでやってきたよ。誰かが親切に世話を焼いたんだね。ほめてやらなきゃ。誰だいそれは。教えておくれな。』
ハクが油屋に紛れ込んだ者を確認する係であるから、ハクであるとあたりが付くはずだが、この時の湯婆婆(ユバーバ)はそこまで頭が回っていないようだ。
もしハクであるとわかっていれば、ハクの腹にはタタリ虫が潜んでいるため、それが暴れだすはずだからだ。
これを考えると、湯婆婆(ユバーバ)は少し抜けている感じもする。ハクの腹にタタリ虫がいるということは、ハクはそれほど信用された存在ではないということだ。にもかかわらず、千尋を誘導した人物はハクであるというあたりが付かないのは、少し納得がいかない。
おそらくは、油屋に不満を持っている者達はそれなりに多いことを知っているのだろう。だから、ハクとは限らないと考えたのだ。
だけど、私が湯婆婆(ユバーバ)の立場だと、めちゃくちゃハクが怪しいと思い、腑に落ちないので、ちょっと考えてみた。
千尋が街に来て、橋のところまで来た時、湯婆婆(ユバーバ)は気配を察知し、ハクを仕向ける。そこで、ハクと千尋は初めて橋でであう。帰れと言われて、千尋は急いで元来た道を戻る。その間、ハクは誰もいなかったと湯婆婆(ユバーバ)に報告する。ハクの時間稼ぎの魔法もあり、その時はごまかしがきく。
時間をおいてハクに油屋へと誘導される。湯婆婆(ユバーバ)は、最初のハクの報告で、とりあえずその報告自体は信用し、ハクを人間を見つけたものとしては除外したのかもしれない。
油屋の者達は、人間の存在を知っていた。つまり、ここには過去別の人間が迷いこんできたことがあるということだ。ハクはたまたま千尋の知人だったからかもしれないが、千尋以外の人間は、ハクの報告で動物に変えられていたかもしれない。だから、湯婆婆(ユバーバ)はいつもの通りハクの言うことを信じた。
湯婆婆(ユバーバ)は、ハクが千尋のことを知っているということを知らなかった。そのことがハクを信じてしまった一番の原因だろうと推測する。
名前を取られる
契約書にサインをした千尋は、湯婆婆(ユバーバ)に名前を取られ、『千』という名前に変えられてしまう。名前の重要性については、後で語ろうと思う。
ハクの二重人格?
湯婆婆(ユバーバ)と契約を結んだ千尋のところに、ハクがやってくる。ハクは朝や昼に見た時とは違い、とても厳しい感じだ。エレベーターに一緒に乗っているときも、
『無駄口をきくな。私のことはハク様と呼べ。』と一蹴。
個人的な推論
ウィキペディアに書かれていることは、私の個人的な推論とは違っていた。夜は湯婆婆(ユバーバ)がいるから、千尋に対しても厳しく接する。湯婆婆(ユバーバ)に怪しまれないためだ。朝昼は湯婆婆(ユバーバ)が寝ていたり、油屋を離れているから優しくなるのだと思っていた。
なぜならば、千尋が初めて油屋にきたときは、夜になっていたにも関わらずハクは千尋に優しく接していたからである。まだ夜になりたてだから大丈夫だったのだろうか。
とりあえず、このことを不思議に思った千尋は、リンに対して尋ねる。
千尋 『ここにハクっていう人は2人いるの?』
千尋のストレスとハクの思いやり
突然の八百万の神たちとの遭遇。一人の不安。両親が豚に変えられたショック。自分の働き方次第では、両親が食べられてしまうかもしれない心理的重圧。湯婆婆(ユバーバ)の恐ろしさ、店の者達からの差別的な言葉、夜のハクの冷たさなどから、千尋には過剰なストレスがかかる。そのため、千尋は体調を崩してしまう。(多分決定打はハクの冷たさ。)
ハクは朝、不安と緊張で一睡も出来ない千尋の元へやってくる。
豚となった父親と母親との再会
ハク 『橋のところへおいで。お父さんとお母さんに会わせてあげる。』
こうして千尋はハクに連れられて豚小屋へ案内される。
千尋は父親と母親と思われる豚に話しかける。
涙がこぼれそうになるが、懸命に堪え、豚小屋から外へ走り出していく。
千尋は泣くのを必死にこらえているのだった。
ハクは千尋にお結びを与える。
『千尋の元気が出るようにまじないをかけて作ったんだ。お食べ。』
千尋はストレスと緊張で何も食べる気が起きない。しかし、ハクの勧めもあっておむすびを食べるのだった。
ハクがお結びにかけたまじない
個人的な推論だが、ハクのまじないは、千尋が泣くことができるようにするものだった。自分の張りつめた感情を吐き出した千尋は、元気を取り戻す。
Wikipediaでは、
とあり、私の解釈とは違っているようだ。
ハク 『辛かったろう。さぁ、お食べ。』
元気になった千尋、ハクにお礼をいい、油屋へ戻る。
釜爺のところで眠りにつく千尋
緊張が解けたことで、眠気が一気に戻ってきた千尋は、釜爺(カマジイ)の部屋で安心して眠りにつく。そこにはリンくらいしかやってこないので、完全に安心できるのだ。
釜爺(カマジイ)は千尋にやさしく布団をかけてやるのだった。
カオナシを招き入れてしまう千尋
千尋は油屋で働き始める。雑巾がけなども最初は他の子と比べて全くうまくできない。雑巾絞りも力が入らず下手だ。そこで、大湯の掃除を任されることになる。
千尋は、バケツの水を捨てるために戸を開ける。雨の中、目の前にはカオナシが立っていた。カオナシを客だと思った千尋は、戸を開けたままにして去る。
それをきっかけとして、カオナシが油屋に入り込む。湯婆婆(ユバーバ)は何かが入り込んだことを察知する。
カオナシについては後で語る。
クサレ神(本当は名のある河の神)の到来
本当はクサレ神ではなかったが、クサレ神と思わしき存在が湯殿を訪れる。とりあえず、クサレ神もどきとしておく。
千尋も湯婆婆(ユバーバ)も、あまりの臭さに体がしびれるのだった。近くにある飯を腐らせるほどの臭気。
クサレ神もどきは湯に入るが、湯が足りないと千尋に訴える。それを察知した千尋は、カオナシからもらった薬札を使う。
千尋は紐を引きそこなって湯に落ちてしまう。一応引っかかってはいたらしく、湯は流されてくる。千尋は湯の中で棘みたいなの(自転車のハンドルが飛び出ていた)が突き刺さっているのを見つける。
千尋はリンにそのことを伝える。
湯婆婆(ユバーバ)はその一言で、その神がクサレ神ではないことに気が付く。
自転車を抜き出すと、それに伴い様々なゴミが芋づる式にクサレ神モドキから抜き出される。
ゴミを全て取り出したクサレ神は、とても名のある川の主だった。千尋の仕事に大変満足し、砂金をお礼としてばらまき、帰路につく。
おまけに、千尋に対してはなぜか『ニガダンゴ』をプレゼントするのだった。
湯婆婆はなぜクサレ神ではないと判断できたのか
これはもののけ姫にも通じることだが、経済とは利益と損害がワンセットであると言った。
これはほんの一例だが、人々は物を売ることで収益を稼ぐ一方、それを買った人たちは、ゴミを捨てていく。その場所はたいてい、川や森などの自然があるところだ。すると、八百万の神がいる川、池、海、森などはゴミで汚されて行くのである。
油屋に訪れる神様たちは、そうした経済社会のとばっちりを受けてしまった神々なのだ。その汚れを落とすために油屋を訪れるのである。
湯婆婆(ユバーバ)は、棘と言われるものが、そうしたゴミの一つであるとわかったのだ。だからクサレ神ではなく、本当の神だとわかったのである。
ではクサレ神とはどういうものなのか
今回はクサレ神ではなかったけれども、本当のクサレ神とはどういうものなのだろうか?
便所の神とか、そういうものだろうか・・・。だとすれば早く帰ってもらいたいものである。本当に汚物に宿る神なのだろう。
ニガダンゴの効能
初の大仕事を終えた千尋は、リンがかっぱらってきた肉まんのような食べ物を食べる。Wikipediaによると、あんまんらしい。そして、同時にニガダンゴも口にするのだった。
あまりの苦さに耐えかねた千尋は、必死であんまんを食べて味をごまかす。
その夜、千尋は夢を見る。
そのニガダンゴを豚になった両親に食べさせようとする夢だ。
何故食べさせようとしたのかというと、ニガダンゴを食べれば魔法が解けて人間に戻れると考えたからだ。
では、どうしてこのように考えたのか。それは、そのあとの千尋の行動によって明らかになる。
千尋は肉まんと一緒にニガダンゴを食べるのだが、それをきっかけに、ニガダンゴで問題を解決しようとするようになる。例えば、千尋がハクにニガダンゴを食べさせたり、カオナシに投げ込んだのも、ニガダンゴが魔法の力を無くすことを知ったからだ。
結果はご存じの通りだ。
このことから、ニガダンゴには魔法を解く力があることがわかる。まさに、『良薬口に苦し』といったところだ。
とすれば、千尋は、魔法自体を受け付けなくなったと言える。私たちの体には、いつも魔法というフィルターがかかっていて、私たちが物事を見る目を曇らせるのだ。千尋はニガダンゴを食べた。したがって、自分の目を曇らせる魔法は、通用しなくなった。ニガダンゴのおかげで、魔法なんて単なるまやかしにしかすぎないものであると悟ったのである。
ニガダンゴを食べた時から、千尋は魔法にかかった存在(魔法存在)と、そうではない存在(現実存在)を識別することができるようになる。そういう理由で、千尋はニガダンゴを食べさせればお父さんもお母さんもブタから元の姿に戻るはずだと考えるのだった。
しかし、その夢の中では、千尋は豚の群れの中から探し出せなかったようだ。ブタがたくさん寄ってくる。千尋は、『お父さんお母さんどこ?』と聞く。千尋の期待に反して、お父さんとお母さんの見分けを付けることができなかったのだ。
なぜ名のある河の神は千尋にニガダンゴをくれたのか
お礼の意味があったことは間違いないであろうが、それにしてもどうしてニガダンゴをくれたのだろうか。
ニガダンゴは良薬であり、魔法を解く力を持っていた。いいものだからくれたのはわかる。しかし、その団子で神は千尋に何をしてほしかったのだろうか。
千尋にくれたということは、千尋に食べてほしいということだ。したがって、千尋の魔法を解いてあげたいと思ったのだろう。
また、一度魔法が解ければ、ニガダンゴの効果もわかる。一度魔法が解けると、芋づる式に、いろいろな魔法が解けるようになるはずである。
見た目からするとなんとも怪しいダンゴだが、せっかく名のある河の神さまが下さった物。千尋も自分が食べようと思ったようであり、実際にかじっていた。
砂金に興味を示さない千尋
千尋が朝目を覚ますと、部屋には誰もいないことに気が付く。油場の職員たちはみんな競うようにカオナシをもてなしていた。
リンもうれしそうにカオナシからもらった砂金を千尋に見せるのだった。しかし、この時既に千尋にとって、それは土の塊にしか見えなかっただろう。なぜならば、ニガダンゴを食べたからである。
しかし、この段階では、ニガダンゴを食べると魔法を見破ることができるという私の分析を強力に根拠づけてくれるほどのものはまだない。それまでに千尋が砂金に興味を持ったシーンを見たことがないから、変化がつかみにくいのだ。これだけだと、千尋は砂金にそもそも興味のない女の子であった可能性もあるので、確実にそうと言い切ることはできない。砂金に興味がない子も珍しいが。
どうしてすぐにブタ小屋へ向かわなかった?
千尋は釜爺(カマジイ)のところに行くつもりだった。しかし、リンと出会った後、リンから釜爺(カマジイ)のところへ今行くのは良くないと言われる。それが分かった後、千尋は寮部屋へ戻る。
魔法を解くニガダンゴを手に入れたのに、どうしてすぐに豚小屋へ向かわなかったのだろうか?
その理由を考えるヒントはこれだ。
千尋「ヤな夢。」
みんながカオナシに夢中になっている折、千尋は汗をかいて目覚めた後こうつぶやく。魔法存在と現実存在を見抜けない夢だ。これが正夢になるのを恐れていたのだろう。
だから、千尋はリンと出会った後、すぐに寮部屋に戻ってしまった。
千尋は海を眺めて、こうつぶやく。
『お父さんとお母さんわからなかったらどうしよう。』
『お父さんあんまり太ってたらやだなぁ。』
先ほども言ったように、千尋は豚小屋に行っても、豚の中からお父さんとお母さんを識別できない夢を見ていた。
自分が本当に魔法存在と現実存在を見分ける力を本当に持つことができたのか、まだ半信半疑であったのだと考えられる。
リンが喜んで見せた砂金が、ただの土くれに見えていたとすれば、そのことに自信はついたはずだが・・・。私の分析が間違っているのか。それとも、千尋はそれでもなお夢が正夢になることを恐れて不安に勝てなかったのか。さすがに実の両親のことなのだから、その気持ちもわからなくもない。
釜爺のところへは何をしに行こうとしていた?
千尋は釜爺(カマジイ)のところへ行くと言っていた。しかし、釜爺(カマジイ)に一体何の用があったのかは明らかにされていない。
千尋がハクの誘いによってはじめて豚小屋を訪れた時、釜爺(カマジイ)の部屋を通って行った。とすれば、釜爺(カマジイ)に用があったのではなく、釜爺(カマジイ)のところへ行くと言いつつ豚小屋へ行こうとしていたとは考えられないだろうか。
しかし、それだとおかしいことがある。もし豚小屋に行きたいなら、釜爺(カマジイ)の部屋を通過するにせよ、黙って通り抜ければよい。それにもかかわらずいかなかったということは、本当に、釜爺(カマジイ)に対して何らかの用事があったのだろう。
前日は、クサレ神のために、薬湯を注文した。
リン 『釜爺(カマジイ)にありったけの湯を出すように頼んできた。最高の薬湯をおごってくれるって!』
釜爺(カマジイ)にお礼を言いに行きたかった…と考えるのが最も落ち着いた答えだろう。
しかし、その後も、釜爺(カマジイ)のところへ自分から行くことはなかった。ハクを救う際にたまたま釜爺(カマジイ)のところへたどり着いたのが最後であった。
カオナシに喰われる青蛙(アオガエル)
青蛙(アオガエル)は砂金の取りこぼしを目当てに、誰もいない時に大湯を訪れる。その時、明かりをつける。
しかしそこにはカオナシがいて、砂金につられて喰われてしまう。
明かりがついていることを不思議に思った店の者(兄役)が湯殿を訪れると、青蛙(アオガエル)を飲み込んだカオナシと出会う。カオナシも腹が減るのだろうか。砂金をばらまく際、腹が鳴る音が聞こえる。皆を起こし、料理を出し、自分を歓待しろと要求するのだった。
カオナシは飲み込んだ者の記憶と能力をコピーできるようだ。様子を見に来たカエル(兄役)を、ちゃんと『兄役殿』と呼んでいる。また、声も飲み込んだ青蛙(アオガエル)そのものになっていた。
また、青蛙(アオガエル)の跳躍力も手に入れており、兄役が様子を見に来た頃には、壁の上に飛び移っていた。
カオナシについての詳しい分析は、後に譲る。
ハクが何かに追われるのを見る
『釜爺(カマジイ)のところに行かなくてはならない』、とリンに言った千尋。しかし、リンは今は釜爺(カマジイ)のところにはいかないほうがいいという。早く起こされてしまい機嫌が悪いからだそうだ。
そのため、千尋は実際の仕事が始まる時刻まで寮部屋へ戻り、海を眺める。
そこで、以前橋のところで見た竜が何かに追われながら逃げ回っているところを目撃する。
橋のところで見た竜は、まだハクであるとは知らなかった千尋。
しかし、千尋はその竜を応援する。
『ハク―。しっかりー!。こっちよー。』
『ハク?』
なぜ白竜がハクであることがわかったのか?
これは千尋にもわからない。とっさに出た言葉だからだ。これは千尋の記憶から呼び起こされたものだ。銭婆(ゼニーバ)のところへ千尋が赴いた時、銭婆(ゼニーバ)からこうした話を聞かされる。
銭婆(ゼニーバ) 『なら話は簡単だ。一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。』
記憶は何かの拍子に蘇ることがある。千尋とハクは昔会ったことがあった。その時の記憶が呼び起こされたのだ。
魔法の正体を見抜くことができるようになったはずの千尋。じゃ、白竜がハクであることも見抜けたはずだと考えたくなる。しかし、白竜こそが本当の姿なのだ。
千尋はニガダンゴを食べた後、人の姿をしたハクには一切出会わなかったため、ハクが白竜であるということはわからなかった。人の姿をしたハクを見れば、ハクが白竜であることが見抜けたかもしれない。
人の姿になることが魔法であるとするならばだけど・・・。白竜はカマジイのところで、人間型のハクの姿に戻る。白竜が本当の姿であるならば、普通はこういう形で人間型のハクには戻らないはずだ。却ってエネルギーを消耗するはずだからだ。
ハクを紙式神(かみしきがみ)の追撃から守ろうとする。ウィキペディアによれば、この紙式神はヒトガタというらしい。表面を切りつける程度の殺傷能力はあるらしい。あれほどの数が迫っていれば、次第に弱ってしまうのも無理はない。
ハクは、千尋の寮部屋にたどり着く。しかし、出血がすさまじく、かなり苦しんでいるようだとわかる。その後、ハクはすぐに外に飛び立ち、湯婆婆(ユバーバ)の元へ飛んで行った。
千尋はハクが死んでしまうと考え、湯婆婆(ユバーバ)の元へ行こうとするのだった。
ハクを苦しませていたものは何だったのか?
釜爺(カマジイ)のところで千尋がニガダンゴをハクに与える。これで湯婆の魔法と銭婆(ゼニーバ)の魔法が解除される。湯婆婆(ユバーバ)の魔法は、ハクを操るために腹の中に忍ばせたものだった。一方、銭婆(ゼニーバ)の魔法は、ハンコについたものだった。ニガダンゴによって、どちらの魔法も解除されてしまったのだ。
ハンコにまとわりついていた黒い虫は千尋に踏みつぶされてしまう。上の文でも書いてしまったが、ウィキペディアによると、この黒い虫は、タタリ虫というようだ。
一方、銭婆(ゼニーバ)の魔法も解除されたことは、のちの銭婆(ゼニーバ)との会話でわかる。
では、この時一体どちらの魔法がハクを苦しませていたのか?
ハクが逃げ回っているときは、ハンコについた守りのまじない、そしてヒトガタの攻撃によって苦しんでいた。一方で、釜爺(カマジイ)のところにたどり着いた時には、
釜爺(カマジイ) 『体の中で何かが命を食い荒らしとる』
といっている。タタリ虫がハクの中で命を食い荒らしていたようだ。釜爺(カマジイ)の部屋では、タタリ虫で苦しんでいたらしい。
しかし、ハクはしっかりと湯婆婆(ユバーバ)の命令を実行していたはずである。それなのにタタリ虫が暴れるというのはおかしい話だ。一体どうしてタタリ虫は暴れ始めたのだろうか?
タタリ虫が暴れていた理由を考えてみる。
推敲1
ここで、銭婆(ゼニーバ)のまじないの効果に目を向けてみる。銭婆(ゼニーバ)は、湯婆婆(ユバーバ)が自分の手下を使って自分のハンコを取りに来ることを知っていたし、手下にはかならずタタリ虫を忍ばせていることも知っていた。そのため、ハンコにかけたおまじないは、湯婆婆(ユバーバ)の魔法を利用したものだとすればどうだろうか。つまり、タタリ虫を暴れさせるようにしていたと考えることはできないだろうか。
湯婆婆(ユバーバ)は油屋で働いている者達には、みんな何らかの魔法をかけている。とすれば、あのタタリ虫と同じようなものは、千尋の中にもいたということが考えられないか。
しかしこうなると、一つおかしい点がある。
それは、タタリ虫を身に宿すと、顔色が悪く、目つきも悪くなっていくということだ。千尋が最初に体調を崩したのは、ストレスのせいであったと思う。タタリ虫がいれば、千尋の顔色も悪くなっていき、目つきも鋭くなっていっただろう。千尋は泣いた後に元気を取り戻した。他にもそのような人物は見当たらないところからすれば、この考えは間違いみたいだ。タタリ虫はハクの中にだけ忍ばされていたと言える。
推敲2
そもそもタタリ虫を腹に入れた者だけがハンコを盗むとは限らない。誰が盗んでもその者には死を与えるようにしなければまじないの意味がない。こちらの方が話の筋が通っている。
銭婆(ゼニーバ)は、後で千尋にこう尋ねる。
『お前、これを持っててなんともなかったかい?』
そして、このように言う。
『あんたその虫はね、妹が弟子を操るために竜の腹に忍びこませた虫だよ。』
ハンコについた守りのおまじないは、タタリ虫の存在とは全くの無関係らしい。
結論
ウィキペディアにも答えがあった。ハクはこの時、ハンコのまじないと、ヒトガタの攻撃に苦しめられていたのであって、タタリ虫によって苦しめられていたのではないということだ。
では、どうしてタタリ虫は暴れだしたのだろうか。
おそらく、この言葉が皮切りになったと考えられる。
湯婆婆(ユバーバ) 『あーあ。敷物を汚しちまって。お前たち、ハクを片付けな。もうその子は使い物にならないよ。』
湯婆婆(ユバーバ)は誰に向かってハクを片付けろと言ったのだろうか。湯婆の部屋にいたのは、3つの頭と、湯バードと呼ばれる鳥だけだ。3つの頭は坊の遊び相手。湯バードは油屋の見張り役だ。ハクを片付けるのに、こいつらに命令したのだろうか?
実際その通りのようで、3つの頭は湯婆婆(ユバーバ)の部屋にある大きな穴にハクを落とそうとする。千尋はそれを必死で止めようとする。
いずれにせよ、用無しとされたハク。
魔女の契約印は、すでにハクの腹の中にあった。そして、湯婆婆(ユバーバ)もその事に気が付いていないようだ。ここは少し謎が多い所で、湯婆はどうしてハクがそのような状態で帰ってきたのか、ということを確認した場面が全く確認できない。
湯婆婆(ユバーバ)は、ハクがハンコの獲得に失敗してきたとみなしたのである。そのうえ、ハクは大変衰弱している。そのため、ハクはもう用無と判断され、穴に落とされることになるのだった。
おそらく、タタリ虫が暴れ始めたのはこのタイミングだ。①ハクが、魔女の契約印を持ち帰ったのにも関わらず、それを湯婆婆(ユバーバ)には伝えなかったのだ。
もしくは、②もう用無とされたタイミングである。
タタリ虫が魔女にとって不利益なことをすれば自動で暴れだすような魔法であれば、①のタイミングで暴れだすだろう。しかし、ハクは千尋を油屋に誘導した前科を持っている。とすれば、②のタイミングで発動したと考えていいだろう。タタリ虫が暴れるためには、湯婆(ユバーバ)の合図が必要なのだろう。
したがって、湯婆婆(ユバーバ)の命令に背いたとみなされ、それをきっかけとして、タタリ虫が暴走を始めたのである。銭婆(ゼニーバ)のおまじないと湯婆婆(ユバーバ)のタタリ虫。つまり、二人の魔女の魔法がハクを同時にむしばむことになる。
なぜハクは湯婆婆(ユバーバ)に魔女の契約印を渡さなかったのか?
苦しみに耐えるのに夢中で、契約印のことを話すことができなかったのだろうか。そもそも、命令とはいえ、渡さないものをどうして持ち帰ってきたのだろうか?
死ぬ思いでとってきたのに、これでは泣きっ面に蜂だ。
こういう行動をとった理由が何かあるはずだ。
どうも、アニメを追いかけてみると、ハクは気絶していてそれどころではなかったのではないか・・・。というオチかもしれない。
ハクはタタリ虫の存在に気がついていただろうか?
後で銭婆(ゼニーバ)と話すとき、
『腹の中に忍ばせたものだった』ということをきかされる。
このことからも、気が付いていなかったと思う。
結局穴に落ちるが、何とか釜爺のところへたどり着く
穴の中には、千尋がここへ来た時に見たような、透明な黒いものがうようよと犇めいていた。ハクが落ちてきたときに自分達の姿を伸ばしてきたことからすると、あの黒いものは湯婆婆(ユバーバ)に必要とされなくなった者達を食べる役目を担っていたのだろう。
その後、私が上に書いたように、ニガダンゴを食べさせて、銭婆(ゼニーバ)と湯婆婆(ユバーバ)の二つの魔法が同時に解除されることになる。
ウィキペディアの情報によると、ハクの傷は釜爺(カマジイ)の薬湯によっても、治癒されたのだそうだ。
魔女の契約印とは何だったのか
ハクが必死で銭婆のところから盗んできた魔女の契約印。千尋が銭婆(ゼニーバ)のところへ返しに行ったときに、銭婆(ゼニーバ)から尋ねられる。
銭婆 『お前、これが何だか知ってるかい?』
例えば、湯婆婆(ユバーバ)の契約印は、湯屋の労働者との契約を行うためのもの。ハクも魔法使いの弟子として湯婆婆(ユバーバ)と何らかの契約を交わしたのだろうか。
誰も雇っていない銭婆がどうして契約印を持っているのか?
雇っている人間がいないからといって、印鑑を持ってはならないということは無い。それはそうなのだが、どうして銭婆(ゼニーバ)はこの印鑑を持っているのだろうか。
この契約印で契約を行うと、一体何になるのだろうか。
もし湯婆婆(ユバーバ)の契約印と全く同じ効力を持つのであるとすれば、千尋は銭婆(ゼニーバ)の質問に答えることができたかもしれない。
しかし、千尋はこの契約印が一体何のためにあるのかはわからなかった。
まだ10歳の子供だから仕方がないかもしれないが・・・。
銭婆(ゼニーバ)が守りのまじないをかけており、ハクを一生懸命おいかけて殺そうとしていたように、よほど大切な物であったことは間違いがない。
では、どのように大切なものだったのだろうか?これはアニメの中だけではわかりにくい。ウィキペディアにはこう書いてある。
ここでピンと来たので、この銭婆(ゼニーバ)の言葉を皮切りに推論してみよう。
『あたしたち二人で一人前なのに気が合わなくてね。』
魔女の契約印の秘密
この言葉から、銭婆(ゼニーバ)は湯婆婆(ユバーバ)と共に何かを行いたかったのだろうと考える。ところが、二人は気が合わないため、仲たがいしてしまった。そこで、二人は別々のところで生活をするようになった。
おそらくではあるが、この一言から、会社設立当初は、しばらくは二人で油屋を切り盛りしていたということに推測が付く。
銭婆(ゼニーバ)は銭婆(ゼニーバ)の考えで労働者たちと契約を結んでいたが、湯婆婆(ユバーバ)は湯婆婆(ユバーバ)の考えで労働者たちと契約を結ぶ。銭婆(ゼニーバ)と会ったときにわかったように、銭婆(ゼニーバ)は湯婆婆(ユバーバ)と比較するととても実直な労働を好み、金銭に対して貪欲さがうかがわれない。
これに対して、湯婆婆(ユバーバ)は一攫千金を求めるタイプで、労働に見合うよりもずっと多くの金銭を望む。カオナシをおだてておだてて有り金をできるだけ絞りださせる、という考えを持つように、とにかく金を手に入れることを先行するタイプなのだ。
物語をみてもすぐにわかるように、湯婆婆(ユバーバ)と銭婆(ゼニーバ)は非常に対照的な性格をしている。
しかし、どれだけ湯婆婆(ユバーバ)が貪欲でも、契約の効果に歯向かうことができない。
『まったく、つまらない誓いを立てちまったもんだよ。』
『働きたい者には仕事をやるだなんて。』
契約印は、湯婆婆(ユバーバ)にとって邪魔だと思う契約内容を消し去る効果を持っていた。つまり、銭婆(ゼニーバ)が油屋にいたときに結んだ契約が湯婆婆(ユバーバ)にとっては邪魔な契約だったのだ。
働きたい者には仕事をやる。この誓いはどうして建てられたのだろうか。
おそらく、今となって湯婆婆(ユバーバ)が後悔しているように、それは湯婆婆(ユバーバ)の本心からの誓いではない。ここには銭婆(ゼニーバ)の意思が紛れ込んでいる可能性が高い。
銭婆(ゼニーバ)の契約印を手に入れれば、契約を思い通りにすることができるのである。
例えば、名のある河の主が砂金をばらまいて立ち去った後、油屋の労働者たちはこぞって砂金を拾おうとするが、兄役のカエルがこう叫ぶ。
「こらーっ、会社のものだ勝手に取るなー!」
つまり、油屋は会社なのだ。
会社と言えば、定款というものを作って初めて成り立つものである。定款というのは、会社の全体の方針を定めた、それこそ会社の憲法のようなものだ。湯婆婆(ユバーバ)が労働者と共に結ぶ契約も、この定款を無視した内容にすることはできないのである。
定款は発起人が作るものだ。発起人は数名いてもよい。発起人とは、会社の設立者のようなものである。湯婆婆(ユバーバ)と銭婆(ゼニーバ)が油屋を立てた発起人であったということが推定できるだろう。このとき、定款に湯婆婆(ユバーバ)と銭婆(ゼニーバ)が共にお互いの契約印を押して作るのである。
すると、湯婆婆(ユバーバ)も銭婆(ゼニーバ)も定款の内容に背いた労働契約は結べなくなる。
もし定款の内容を変更する場合には、二人の同意と押印が必要になる。
しかし、結果として契約印さえあれば、勝手に定款の内容を変更することも可能だ。同意は目に見えないから、いくらでも偽装できるのである。銭婆(ゼニーバ)の同意は取り付けたと従業員たちに言えば、恐ろしいと思われている銭婆(ゼニーバ)に本当だったのかと確認するものなど事実上いないのである。当然こういうことをするのはルール違反なのだが、事実上それを見抜くことは難しいと言える。
この定款変更を狙っていたからこそ、湯婆(ユバーバ)は銭婆(ゼニーバ)のハンコを求めたのである。
しかし、銭婆(ゼニーバ)は湯婆(ユバーバ)の強欲さにはあきれていた。そして、会社を好きに切り盛りさせてはまずいと思い、ハンコにまじないをかけて守っておいたのである。絶対に妹はハンコを狙いに来るだろうと読んでいたのだ。そうして、銭婆(ゼニーバ)は間接的に労働者を守ろうとしていたのである。
銭婆(ゼニーバ)の怖さを知っている湯婆婆(ユバーバ)は、ハクにハンコを盗ませるのだった。そして、ハクはまんまと銭婆(ゼニーバ)の魔法に苦しめられることになったのである。
リン 『噂じゃさ、湯婆婆(ユバーバ)にやばい事やらされてんだって。』
やばい事とは、この事だったのだ。つまり、違法行為の実行役だ。
二人で一人前。というのは、魔力が二人で完全になるというようなフュージョンのような話ではない。
会社は元々二人の経営者がいて、だからこそ会社の一つの意思として機能するのに、気が合わないから姉である自分はその場所を退き、今は片っぽの妹だけが会社を切り盛りしているのだ、という意味なのである。
何故湯婆婆(ユバーバ)は自分で盗まずにハクにやらせた?
権力者や経営者あるあるなのだが、汚いことや面倒なことは別の奴にやらせるものだ。おそらく、自分が盗むことにより、自分に何らかのデメリットが及ぶような魔法がかかっていることを知っていたのかもしれない。
とにかく、自分自身が実行犯になるのは避けたい何らかの理由があったのだろう。
湯婆婆の洗脳
元々湯婆婆(ユバーバ)と銭婆(ゼニーバ)は油屋の共同経営者であったことがわかった。しかし、銭婆(ゼニーバ)は事実上経営者から外れてしまう。
すると、会社経営者は湯婆婆(ユバーバ)のみとなってしまうのだ。二人の経営者がいるのに、なぜか一方の経営者がいなくなってしまった。当然、労働者たちは不思議に思うものである。
すると、湯婆婆(ユバーバ)からすれば理由を考えなくてはいけなくなる。自分がわがまま勝手したいから銭婆(ゼニーバ)を追い出したということはできない。それだと自分の人格が疑われてしまう。だから、銭婆(ゼニーバ)を悪く言ったのである。
釜爺 「銭婆(ゼニーバ)のところへか?あの魔女はコエエぞ。」
しかし、実際にはまったく怖くないことがわかる。むしろ湯婆婆(ユバーバ)の方が圧倒的に怖い。利益のために労働者たちを道具にし、要らなくなったら捨てる。利益、利用、金、そういうものしか見えていないのである。
坊 『おまえ病気うつしにきたんだな。おんも(表)には悪いばい菌しかいないんだぞ。』
千尋 『私人間よ。この世界じゃちょっと珍しいかもしれないけど。』
坊 『おんも(表)は体に悪いんだぞ。ここにいて坊とお遊びしろ。』
千尋 『あなた病気なの?』
坊 『おんもに行くと病気になるからここにいるんだ。』
千尋 『こんなところにいるほうが病気になっちゃうよ!』
坊のこの言葉から察するに、坊を溺愛する湯婆婆(ユバーバ)は坊が部屋の外に出ないよう、嘘を教え込んでいるのだった。権力者に嘘はつきものだということを暗示している。洗脳とは嘘を信じ込ませること。呼び方は違えど、結局は嘘なのである。
ウィキペディアの内容によると、これでも坊の年は結構いっているらしい。
双子であることを利用したのではないか?
ずっと身近で婆を見てきた坊でさえも、二人の見分けはつかない。
それくらい似ている。湯婆婆(ユバーバ)は、従業員に嘘を教える際、銭婆(ゼニーバ)であるようにふるまいつつも、従業員に怖い思いをさせたのではないだろうか。
実は湯婆婆(ユバーバ)の一人芝居で、みんな双子であるため見分けがつかなかったのである。どちらが湯婆婆(ユバーバ)で、どちらが銭婆(ゼニーバ)かわかるような目印を普段から自分の身に着けて置き、従業員の前に姿を現していたのであれば、それだけ付け替えて従業員の前に現れればよい。
すると皆そのバッジを信じて、銭婆(ゼニーバ)の所業と思い込むのである。すると、銭婆(ゼニーバ)がいなくなったとしても、湯婆婆(ユバーバ)は問題行動を起こしたため、銭婆(ゼニーバ)を経営者の立場から追い出したことで、英雄視されるようになるのだ。
銭婆 『魔女の双子なんて厄介の元ね。』
ハクはどうして魔法の力を求めたのだろうか
銭婆(ゼニーバ) 『竜はみんな優しいよ。優しくておろかだ。魔法の力を手に入れようとして妹の弟子になるなんてね。』
『この若者は欲深な妹の言いなりだ。』
このことを皮切りに考えてみよう。
ハクは千尋に対して優しかった。しかし、愚かなのである。どこがおろかかというと、欲深い妹の弟子になったということだ。
欲深い妹は、決してハクにはそれほどのことは教えなかっただろう。良いように使われて、最後は捨てられる。そうなることを見抜けなかったのだ。
欲深い人間は、自分の欲を満たすことしか考えていない。だから、こんなやつの言葉を信用してはダメだ。結局は、全部自分の欲を満たすためなのだ。そういうものほど、表向きはいいことばかり言い、甘い罠を仕掛けておくものなのである。
今の世界でいえば、『店長にしてやる。』とか言って結局は上納金を納めるための道具にされるようなものだ。『店長になれる』といってほいほい喜んで話に乗るのは愚かなのである。悪い縁ほど向こうからやってくるのだ。
性欲の強い人ほど異性の好む外観や態度を見せようとするのと同じである。
近づいてくる、魅力を感じてくるというのは、魅力を感じてもらう方からすればうれしいこともある。しかし、それは自分の満たしたい何かをその者に認めたからやってきているだけなのである。
一方、ハクは魔法を覚えることによって、何らかの『優しいこと』を行おうとしていたに違いない。魔法の力で千尋を必死で守ってきたように。
この物語で優しくする対象がいるとすれば、それはここで働く労働者たちの雇用状況を変えること。そして次に、千尋のお父さんやお母さんのように、豚に変えられてしまった人を元に戻すこと。
石炭に変えられてしまった人を元に戻すこと。
魔法を解除するには、魔法の力が必要だと考えたのである。
他にもある。湯婆婆(ユバーバ)から名前を取り戻すということだ。魔法の力を持てば、名前を奪われた者達に、名前も返してあげられると考えたのだろう。
蘇る記憶
湯婆婆(ユバーバ)の部屋からハクを救い出そうとした千尋は、結局ハクと共に穴の中へ落ちてしまう。しかし、それがきっかけで千尋は河に落ちた昔の記憶を呼び起こす。ハクの後の会話からもわかるのだが、千尋は自分の靴を取ろうとして河に落ちたのだった。
湯婆婆(ユバーバ)の部屋の穴に落ち、ハクの上に乗る、というのは、丁度、川に落ち、ハクの上に乗るのと同じ感覚だ。これが記憶を呼び起こす一つのきっかけとなった。
しかし、この時はまだはっきりとした記憶ではなく、その兆候が表れたにしか過ぎなかった。
ハクを救う
タタリ虫とハンコのまじないに苦しむハクをニガダンゴで救った千尋。
そこでハクが千尋と同じように突然やってきたことを釜爺(カマジイ)から聞かされることになる。
銭婆の元へ行く決意
千尋はハクを助けることができるのは銭婆(ゼニーバ)しかいないと考えるようになる。湯婆婆(ユバーバ)からは見捨てられた身だ。ハンコを返し、銭婆(ゼニーバ)に謝れば、魔法の力で何とかしてくれると思ったのだ。
釜爺(カマジイ)は渋りながらも、40年前の切符を探し出して千尋に渡してくれる。
どうやら、電車はもう一方通行になっており、逆方向には走っていないらしい。
釜爺(カマジイ) 『いいか。電車で6つ目の沼の底という駅だ。』
・・・
『間違えるなよ。昔は戻りの電車があったんだが、近頃は行きっぱなしだ。それでも行くかだ。』
なぜ釜爺(カマジイ)は千尋が電車に乗っていくことを渋ったのか
行きだけで戻りの電車がない。それは確かに問題だ。例えば新幹線で行くなんていうと、6つの駅なんてそれだけで大変だ。
千尋が乗り込んだ時には客と思わしき者達がたくさんいた。そして、銭婆(ゼニーバ)のところまで行くと、すっかり暗くなっていた。
例えば千尋が朝早く起きた時、カオナシに皆が夢中になっていた。例えば仮にこれが朝6時頃であるとしよう。
ハクが銭婆(ゼニーバ)に襲われ、命からがら釜爺(カマジイ)の元へ帰ってくるのもそれから間もないころだ。そして千尋がハクを助けるまで、そこまで時間的な間隔はない。その後カオナシに追われたとしても、電車に乗るのは遅くとも朝7時から7時半ごろだと考えられる。
それが銭婆(ゼニーバ)のところに着くのが夜中になっているのだから、軽く12時間近くは電車に乗っていたのだろう。
つまり、駅と駅の間隔がとてつもなく長いのだ。だから、一本でも間違えると取り返しがつかなくなる。子供の足でそれだけの距離を歩くのは難しいはずだ。
戻りの電車がなくてもよい。線路を通って帰ると千尋は言う。しかし、その時電車が来てしまえばひとたまりもない。
普通であれば、危ないからやめさせるはずである。しかし、釜爺(カマジイ)は千尋を送り出した。どうしてだろうか?
釜爺(カマジイ)『わからんか?愛だよ。愛。』
愛とは何か
愛とは、何かを与えることではない。(それならカオナシの行動も愛になる。湯婆婆(ユバーバ)が坊に持っている感情も愛になる。)大切な者を守るという思いでもない。(それは失いたくないという自己愛だ。湯婆婆(ユバーバ)の坊に対する愛もそれと同じだ。)
愛とは、自分の減少を気にしない心のことである。釜爺(カマジイ)のところにたどりつく前にも、排水管の上を走り抜けるなど、以前の千尋とは別人の行動だ。
千尋はハクを助けるために銭婆(ゼニーバ)のところへ向かうことを決意する。
命を取られるかもしれないし、戻ってこれないかもしれない。しかし、そのことよりも、ハクが死ぬということが嫌なのである。千尋はハクが好きなのだ。
愛を持っている存在の例としては、例えば粉骨細心働いてくれる苦労人のお母さんとか。彼女たちはそれを行っても、子供に見返りを求めない。失う一方だ。
愛については様々な考え方があろう。ハクが好きだから助けようとするのも、言ってしまえば千尋の一つの自己愛かもしれない。ただ、これを語ると本筋から遠ざかるのでこれくらいにしておく。
だけど一つだけ言っておきたいことがある。ただ減少すればいいというわけではない。何を対象として、どのように減少していくのか、ということを考えることは大切なことである。決してホストや宗教にひっかからないようにしよう。
銭婆(ゼニーバ)の家で
千尋は6つ目の駅で降り、銭婆(ゼニーバ)の家にたどり着く。湯婆婆(ユバーバ)の部屋とは違い、普通の暮らしに見える。
銭婆(ゼニーバ)は鼠に変わった坊と、蠅に変わった湯バード、そしてカオナシまで快く迎える。
ハンコの話
これは既に前述したので省く。二人で一人前。という言葉がヒントになる。
タタリ虫の話
これももう十分話をしたと思う。
魔法とは何か
銭婆(ゼニーバ)の台詞に重要なものがある。それはこれだ。
『魔法で作ったんじゃ何にもならないからね。』
ジブリ作品では、多くの場合魔法を使うものが現れる。魔法とはそもそも何だろうか。
例えばアラジンと魔法のランプなどのように、願いをかなえてくれるもの。ちょっとした努力で、一気に大金を手に入れることが出来たり、素敵な御殿を築き上げたり、綺麗な奥さんを手に入れることが出来たり。そうした夢のような力を魔法だと思っている人が居る。
他にも、ゲームの影響で相手を攻撃したり、味方を回復したりできるのが魔法だと思っている人もいるだろう。
とにかくこれらのことに共通しているのは、『わずかな努力で自分達の望んだ効果が発揮される』、ということである。
私たちが生きているこの世界にも、魔法は存在している。
それは、『お金』である。
例えば私たちは料理の作り方を知る必要はない。なぜならば、お金さえあればすぐに出来上がった料理が目の前に現れるからだ。
例えば私たちは家を作る方法を知る必要はない。なぜならば、お金さえあれば他の者たちが建ててくれるからだ。
例えば知識を得たければお金を払えばいい。本を買えるからだ。
例えば労働力を得たければお金を払えばいい。人を雇えるからだ。
私たちは苦労して異性を獲得する必要はない。お金があれば寄ってくる女は寄ってくるからだ。
お金は、ただ渡せばよい。これは大したことがない。
つまり、魔法を唱える=お金を払うということだ。
お金を稼ぐのは難しいことだ!とよく言われる。私もノートを書いているとそう思う。苦労の割に対価が全くないからだ。
お金を稼ぐのは難しいこと、それはそうかもしれない。しかし、お金を稼ぐために行っている行為は、料理を作ることでもなければ、建物を建てることでもない。だから、その人はいくら年をとっても、いくら金を稼いでも、料理の作り方はわからないし、建物の建て方もわからないのである。そして、その本や記事を書いた人間が経験したことも全くわからないのだ。
そうして自分達が実際に行動せず、お金という魔法の力ばかりに頼っていると、人間の力はどんどん衰えて、弱くなっていってしまうのだ。
私が個人的に驚いたのは、2階から1階に降りるだけでもエレベーターを使う人。数分歩くだけでも、すぐに車に乗る人。これはワープという魔法である。
経済社会は、魔法使いたちが多くなる社会だ。そのために、みんなどんどん弱くなっている。そして弱くなればなるほど、その埋め合わせをしてくれるのは結局はお金になっていく。しかし、そのことには気が付いていないのだ。それどころか、自分が持っている車や建物、収益獲得能力なんかを比べ合っているばかりだ。
結局は自分の力なんてほとんどないのである。ほとんどの者達はお金によって教育され、お金によって育てられた。金で作られた能力。金で作られた経験。つまり、お金を払っただけなのである。それの何がすごいのか、私はよくわからない。
物事の背景にある苦しみを味わわずしてその能力を得てしまえば、結局お金も、お金によって与えられた能力も、さらなるお金のために利用されて行くばかりである。
つまりは、自分を生かすも殺すも金次第になっていく。自分というものよりも、金の力こそが自分を上回ってしまうのである。こうなると、その人間は金に振り回されるようになる。
とすれば、金が無くなれば、湯婆婆のような存在によって、金や魔法次第で自分の意思を握られて行くことになる。
自分達は、『金の奴隷になってしまった。』ということに気が付いていないのである。
名前とは何か
ここは非常に難しい。どうやって書けば伝えられるのかとても悩んだ。私としてはわかっているつもりだが、表現力が乏しいため、なかなか頭の疲れるところだと思う。
銭婆(ゼニーバ)『千尋?いい名だね。自分の名前を大事にね。』
この物語では、もう一つ重要なメッセージが込められている。それは名前である。名前とは、私たち個人個人につけられているものだ。
あなたが飼っている犬や猫などの動物にも名前がある。外に立っている木や花にも名前がある。
どうして私たちは、いちいち名前をつけるのだろうか?
物を特定するためである。
三匹のネコがいるとする。一匹目は黒色の猫。二匹目は白色の猫。三匹目は茶色の猫だ。左から順にクロスケ、シロスケ、チャスケ。という名を付けたとする。
ネコと言われただけでは、どのネコなのかわからない。クロスケと呼んで初めて黒色の猫だとわかる。
クロスケとは、黒い猫だから名づけられた。そして雄だから男の『介』の字をとってクロスケだ。
このように、クロスケという名前には由来がある。それらを短い4文字にして呼びやすくするとともに、複数の意味も同時に伝えているのだ。
<自分が飼っている毛が黒い雄の猫>といちいち言うのは長すぎるし呼びづらい。
一方、家の外に黒い雄の野良猫がいたとする。こちらもクロスケと言えばクロスケだが、こちらはただの野良猫なので、名前は付けられていない。
どうしてこの野良猫はクロスケとは違うのだろう。どうしてこの野良猫には、クロスケの飼い主は名前をつけないのだろう?
名前をつけることが特定をするためであるならば、その野良猫にも、クロスケ以外の名前を付けてあげなくてはならないだろう。しかし、そういうことはしない。
どうしてクロスケにはクロスケという名前をつけたのか。それは、名付け親が、区別をつけることが重要だと考えたからだ。
一方、野良猫は、飼い主にとって区別をつけるのに重要な猫ではないからだ。クロスケは他の真っ黒な猫全てと区別される。それは飼い主の心の中で決まっており、クロスケという名前も、その飼い主が、その猫にだけつけた特別なものなのである。黒い野良猫は、たまたま自分の家の近くにいるというだけで、世界のどこかにいる全身が黒い猫と、大差ないのである。
もちろん、同じ名前の猫は日本のどこかにいるかもしれない。要はその名付け親にとって、識別できればよいのである。そういう意味で、名前は名付け親の心の持ち方次第で決まってくるとも言うことができる。
他のクロネコではだめなのだ。その飼い主にとっては、クロスケは、『その猫』でなければだめなのである。
とすれば、名前というものは、その名づけ親にとって、区別することが重要だと思うものに対して付けられることになる。
この世界には、名前がないものがたくさんある。しかし、どうして名前が付けられていないのかというと、区別することが重要だと思われていないからだ。
一つだけ限界がある。誰もその存在を知らなければ名づけようがないということだ。
名前をつけるのは常に『他人』である。
私たちの名前も、他人によって与えられたものだ。名前は自分のものなのに、名前は他人からのもらいものなのである。それは名付け親自身もそうだったのだ。
さて、ここで話をまとめてみよう。
名前は、
①『特定するためにつけられる。』
②『名前は、区別するのに重要であると思われるから付けられる。』
③『名前は、他人によって付けられる。』
『そもそも存在を知らなければ名づけようがない。』
こう考えると、名前は常に他者依存でつけられるものであることがわかる。
例えば、ニュートリノなんて言うのは昔はその存在さえ知られていなかった。この世界に存在するにもかかわらず、その存在を誰も知らないから、名前なんて付けようがない。しかし、一旦そういうものがあるとわかり、重要であると考えた途端、人はそれに名前を付ける。これは上の3つの条件を満たしている。
キラキラネームと人の名前
最近、キラキラネームというものが頻繁に目につくようになった。どう読めばいいのかわからない名前も多い。
ところで、人の名前についていうと、その人の内面と一致するような名前であることは珍しいように思う。それはそうだ。赤ん坊の時につけたって、どのように成長していくのかわかったものではないのだから。
そのため、人の名前で私の『名前』の説明を考えてしまうと、とても分かりにくくなってしまう恐れがある。
人間以外の事物につける名前の方を考えてほしい。そちらの方が物事の特徴が良くつかまれていることが多い。
お金には名前がつけられない
これに対して、お金は具体的・個別的ではない。抽象的・一般的なものである。1000円は誰が何といっても1000円だ。お金は識別することができない。この1000円。あの1000円ということは無い。
全て数値だ。お金には、お金という名前はあっても、一枚一枚のお札に名前がつけられているわけでもなければ、一枚一枚の硬貨に名前がつけられているわけでもない。
なぜなら、私たちにとっては、何円あるのかが重要であって、それぞれのお金一枚一枚自体が重要ではないのだ。もし、重要になってしまうと、私たちはそのお金を物と交換するために利用することはなくなってしまうだろう。すると、経済取引は停滞してしまう。
名前を覚えることも名前を付けることと同じくらいの価値を持つ
名前は、誰かが一旦つけてしまうと、それがそのものの名前になってしまう。とすれば、そのほか大勢の人たちは、そのものに名前をつけることはできない。それを許してしまうと、人は自分の好きな名前を付け始める。そうなると、結局その名前が何を指しているのか、人によってばらばらになり、特定できなくなってしまうのだ。
つまり、すでに名前を持っているものに別の名前を与えてしまうということは、その存在を特定できなくすることである。
ある人はクロスケをカラス色だからカラスケと呼ぶかもしれない。そして、その名前で他の人にも、あの黒猫はカラスケというんだ。と伝え始めたら、そう信じる人もいるかもしれない。名前の呼び方がばらばらだと、一体どのネコを言っているのか、わからなくなっていくのである。
そのため、名前は通常一つに限定される。そして、その名前がつけられると、それ以外の名前に変更することは、普通はできなくなる。
名前は一つに限定される。
また、名前をしっかりと覚えてくれないと、別の名前になってしまう。そうすると、結局それぞれが好きにつけた名前と大して変わらなくなる。
名前をしっかり覚えるということは、名前を付けてその名前に特定したことと同じくらい重要なことである。
名前を付けることと、名前を覚えることは同じくらい重要。
名前は付けられた由来を裏付けとする
名前を覚える以上に重要なことがある。それは、その名前の由来をしっかりと理解することである。
私たちは、言葉のイメージを追いかけるから、今となっては由来とは全く無関係な意味で言葉を使っていることが多い。そういう言葉はどの意味へと帰属するべきかわからなくなってしまった。言葉も迷子になるのだ。言葉の中には名詞がある。名詞とは物事の名前のことだ。抽象的なものにつけられた名前なんていうのは特にその影響を受けやすい。
名詞
言語にも名詞というものがある。例えば私はこれだけ長い文章を書いてきた。『文章』というのも、有る物事の名前だ。『名前』というものも、ある物事の名前だ。この世界には名前が無数にある。それぞれに区別がついていないと、私たちの言葉は正確に通じなくなる。
覚えるのも重要だが・・・
名前を覚えることは重要なことだ。しかし、名前があるからといって、その名前を覚えるかどうかは個人の自由だ。名付け親は、その名前の意味を理解し、その由来を理解しているだろう。そして、その名前を憶えているだろう。
人は自分が重要ではないと思うものは覚えようとはしない。この世界には様々なものに名前が付けられているのに、私たちの頭の中にある物事の名前は、その中のほんとうにわずかなものでしかない。
こうなってしまう原因は、一つはそもそも知らないことによる。(無知)
もう一つは興味が全く持てないことによる。(無関心)
やがて名前ばかりが飛び交うようになる
クロスケは、黒い猫であり、雄だという二つの意味が込められた名前だった。しかし、私たちは普段、クロスケという名前だけを使う。
クロスケならばどれだけ時間がたってもその名前の意味はよくわかるだろう。しかし、名前によっては、その由来が見えなくなってしまい、忘れ去られて行くものも多く存在している。
私たちも、言葉をなんとなくな意味で使っていて、本来の意味とは全く別の意味で使ってしまうことがよくある。つまり、言葉ばかりが飛び交っているのと同じことだ。表面的なやり取りばかりなのである。
だから、例えば国の機関は、名前を変えて問題を解決したことにする。看板を挿げ替えるのだ。
名前にも死が存在する
すでに使われなくなったものは、名前が忘れ去られて行ってしまう。人々の意識の中から消えてしまうのだ。
②の条件による。区別が重要と思うからこそ名前はつけられるのだが、そもそももうそこまで重要なものではないと思われてしまったり、その存在自体が薄れてしまうと、みんなその名前を忘却していく。その時、名前は死ぬことになる。
人が名前を覚えてもらえないと傷ついてしまう理由
名前を覚えてもらえないということは、どこか遠くにいるその他大勢の中の一人にしかすぎないと思われていることだ。
興味がない。あるいは自分にとって重要だと思われていないということである。ひょっとすると、名前を憶えていないだけで、重要だと思っている可能性もあるかもしれない。しかし、相手にはそんなことわからないのである。
だから、名前を覚えてもらっていないと感じると、自分は軽く見られているのだと感じる人が多い。
名前を覚えて欲しいと思う理由
例えば自分の好きな人が居たとする。その人には自分の名前を憶えてくれるととてもうれしい。なぜならば、自分をある意味特別に思ってくれている、と感じることができるからだ。
こうした恋愛関係になると、名前を知っているかどうかが重要になってくるパターンもある。だからといって、その名前の由来や、その人の本当の中身を知っているわけではないのだが・・・。
自分が好きな人には、自分の名前を憶えてほしいという欲求があるのだ。
そうでなければ、脈無しと感じてしまうのである。
例えば自分が尊敬している人に名前を覚えてもらう。というのもうれしいと感じる人間は多い。
薄れる名前の価値
個人的には、名前の価値が薄れているようにも思っている。魔法が飛び交う社会になり、人々は個性を失いつつあるということを、私の感覚が掴んでいるからかもしれない。
私たち自身も、個性を失い、単なる労働力となり、消費者となっていく。私たちはその人自身を見なくなり、その人がどれだけ自分達にとって便益を持つ存在か、という観点から、その人たちを測っていくようになる。それは、本来の人間が変化した姿こそを、本当の姿だと思っているのと大して変わらない。その姿が私たちの本当の姿となってしまえば、それこそ私たちはもう終わりだ。識別されない存在へと回帰していく。
名前を憶えているからと言って重要と思っているとは限らないのでは?
その通り。単に記憶に残っているだけかもしれない。
名前は<誰かと識別しなければやりにくい。>という事務的な用途のみで使用されることも多くなった。
名前は自分の看板であるが、自分の中身を表しているとは限らない。いつからこうなったのかはわからないが、名前はただの識別のための道具となっている。
私たちは自分自身がどういう人間かということよりも、労働者とか消費者というカテゴリーの中にいる、無数の存在に置き換えられてしまっている。
金を払ってくれれば誰だっていい。同じ労働力を提供してくれるならだれでもいい。その人から絞り出せる物に価値が置かれ、その人自身のことはどうでもよくなっているのである。
逆転現象
その人を重く見てくれるのは、自分達の欲しいものを絞りだせるから。という逆転現象が生じている。油屋の者達がカオナシをもてはやすのも同じ状況であったと言える。
その人が重いからその人に名前が付き、その人を覚えているのではなく、その人がそれだけのことをしてくれるから、その人を重く見て名前を知ることになるのだ。だから、『それだけのこと』をしてくれなくなれば、軽く見始めるのである。
千と千尋の神隠しに当てはめるとどうなる?
湯婆婆(ユバーバ)は、相手の名前を奪ってその者を支配するという。
名前が他の人間たちとその者自身を識別するものであるならば、名前を奪われるということは、自分が識別できなくなるということだ。そして、他の存在達からも、それほど重要だと思われなくなるということを意味する。さらに、『知られざる存在』へと回帰していくことを意味する。
これにより、神隠しが完成する。
私たちはこの世界に産まれた時に名前を付けられる。そうして私たちは他の人たちと区別されるようになる。しかし、名前を付けられないということは、産まれる前の状態と同じこととして扱われたことになるのだ。つまり、それは産まれていないこと=死を意味する。
神隠しとは、本当は、遠回しに死んだことを言っているのだ。普通の死と違うのは、死体が見つからないことである。
そうすると、誰もその存在を探し出せなくなる。他の名もなき存在と溶け合い、分離することができなくなる。どこかにいる誰かの赤ちゃんと同じことになるのだ。世界のどこかにいる人、と大して違いはなくなる。それは、私たちにとって、生きていようが、死んでいようが、大して問題ではないのが現実なのだ。
その人たちにとっては、私たちが産まれたとしても、産まれていない状態と同じことになる。そうなってしまうと、私たちはどこに帰属するべきかわからなくなる。
帰り道とは、その者が『本来帰属するべき場所へと続く道』を意味する。
自分達の帰属するべき場所がわからない。つまり、『帰り道がわからなくなる』のだ。この帰属するべき場所を、『基盤』と呼ぶことにしよう。
名前は名前だけではない。裏付けとなる基盤がある。
湯婆婆(ユバーバ)は言う。『贅沢な名前だねぇ。』
クロスケは、黒い雄ネコということから名づけられた名前であった。つまり、クロスケという名前には、その名前が付けられた『意図・由来』が存在している。それが名前に現れているのだ。
贅沢な名前というのは、例えば鉄に対して金という名前を付けるようなものだ。つまり、本来のその人間の力、能力以上のものが看板として掲げられていることになる。逆にそういう人間のことを、『名前負けしている』という。このことからもわかるように、私という『基盤』があって、初めて『名前』というものがあるのだ。『基盤』は『名前』と結びついているはずなのだ。だけど、名前は基盤がどうであるにもかかわらず、独立して勝手につけることができるものでもある。だから、名前負けする人間も生まれてくることがある。
萩原千尋という名前にも、何らかの『意図・由来』があるのだろう。しかし、湯婆婆(ユバーバ)は千尋から名前を奪う。これは、その名前が付けられた背景が、見えなくなってしまうということを意味する。
(ただし、前にも行ったように、人の名前は由来とか、その人自身とは関係がないことのが多い、それが現実である。)
とすれば、自分の中で、自分自身の持っている基盤と、自分の名前とが一致しなくなる。 これはアイデンティティーの崩壊である。自分自身を正確にとらえられなくなると、人はズレた行動ばかりを起こすようになる。そういう人間は、自分の道を見失ってしまう。そのため、自分が全く満たされなくなり、次第に快楽に弱い人間になっていくのだ。(ここは詳しく語りたいところでもある。しかし、それはできない。とりあえずは、後述するカオナシとか、金ばかり追いかけるカエルやナメクジのような奴になると思っていいかもしれない。)
この物語でいえば、魔法の影響を受けやすくなるということだ。魔法は金と同じ意味だということを思い出してほしい。
ハクの最後の言葉も重要なヒントだ。
ハク 『私は、湯婆婆(ユバーバ)と話を付けて弟子をやめる。平気さ。本当の名前を取り戻したから。』
名前を取り戻しただけで一体何がそんなに変わるのか、というのが視聴者の素直な感想だと思う。ところが、名前はそんなに軽いものではないのだ。
ハクも自分を取り戻すことができたのだ。自分というものが何ものであるのか。どこに帰属するべき存在なのか。それは、魔法に打ち勝つことができる『基盤』を取り戻したということを意味する。人間が人間本来の力を取り戻したように。
つまり、アイデンティティ―が一致したのである。このような存在には、もう魔法は通用しないのだ。よくわからないと思った人は、次の項目を読んでほしい。
なぜ弟子をやめようと思ったのか?ハクの悟り
ここにはハクの悟りがある。
自分は魔法の力を使えば、なんだって出来るようになると思っていた。魔法の力をうまく使えば、多くの人は喜ぶ。苦しんでいる人たちを解放してあげられる。自分はそういう魔法使いになりたいと思っていた。
しかし、魔法使いになるということは、人々が自分の魔法に頼るようになる、ということだ。ということは、その魔法の力に頼って、自分では動かなくなってしまう。そうすると、却って人を弱くしていくばかりなのだ。
魔法は心地いい。楽だ。だからこそ、人はそれにどんどん頼っていく。そんな力に頼って人を幸せにしても、結局はひと時のまやかしにしか過ぎない。そう考えたのである。
現代に準えれば、魔法に頼るということは、<金さえあれば愛さえをも買える。金が全てだ。>という思考回路の人間と同じである。残念ながら、ここまで経済社会が浸透してしまったから、それは人々の脳を支配してやまない。
金こそが自分の能力の象徴であり、金こそが自分を表現できるものになっているのである。
しかし、湯婆婆(ユバーバ)がカオナシをおだて上げれば砂金はいくらでも手に入るものであったように、本来の労働の対価に見合うものとは限らないのである。ここでは、労働とは自分自身を動かすことによって得た体験そのものとか、そういう意味でもある。
というか、本来の労働の対価以上の物をもらわなければ、それは利益にさえならないのだ。
日本で最もお金を持っているのは国である。国は魔法使いだ。金の力で様々なことを行っている。しかし、魔法を使えば使うほど、国は弱くなっていくのである。
それは、国の中で地の力を使って生きる人間たちが少なくなり、国のお金、つまり魔法に頼って生きていくことになるということだ。
だから、これから人間というものがどんどん弱くなっていけば、どれだけ金を持っていても、その効果は先細りしていくことになるであろうし、実際今そうなっているのである。
そうなると、力の欠けた部分を埋め合わせるために余計に金を必要とするようになる。
国はハクのように優しかったのかもしれない。魔法の力で、僕たち私たちを幸せにするんだ!と思い作られた存在なのだ。しかし愚かだ。なぜならば、自らお金(魔法)の奴隷となったからである。
今の国は、基盤なき国である。空中をお金ばかりが飛び交っている。こうなると、私たちは、国に帰属しているのではなく、お金に帰属しているのではないかとさえ感じ始めていく。そうしてお金にすがり、お金次第で自分達の意思を決定しはじめる。
そうすると、私たちの人生は個性を失い、お金次第の人生を送っていくようになる。お金次第ならば、お金さえ飛び交っておけばいいのだ。私たち個人は全く重要ではなくなる。自分達は自分達が一体どこで生きていくべきなのか。一体どこに根を下ろすべきなのかもわからなくなる。私たちは皆、神隠しに会ってしまった。自分達の帰る場所が、わからなくなってしまったのだ。
魔法に頼るということは、大きな間違いだった。魔法を覚えることよりも、人間の力それ自体を鍛えなくてはならなかったのである。それがハクの悟りだった。
千尋は、ハクから渡された服の中のカードを見つけ、自分の名前を思い出す
ハクは、千尋が帰るときに必要だと言うことで、着ていた服を渡してくれる。
その中で、理沙という女の子からもらったカードを見つける。そこで千尋という名前を思い出すことになる。
ハクのおまじないにより心のストレスから解放されるのと合わせて、名前を取り戻した千尋は、自分を取り戻すことに成功する。
これは、理沙からのナイスなアシストである。引っ越しによって、千尋は学校で作った友達とはお別れすることになった。つまり、自分の名前を識別してくれる存在を大勢失ったのである。
引っ越しの際中であることがこの物語の出だしとなっていることも興味深い。自分達の家族は、一旦帰属すべき場所から離れて、別の帰属先へと向かう途中だったのだから。
つまり、引っ越し先の人間たちにとっては、千尋の家族は、日本のどこかにいるどっかの家族と大して変わらないのである。別に特別でも何でもないのだ。
ハクはどうして千尋の名前を憶えているのだろうか?
ハク自身が不思議に思っているのだが、千尋自身は自分の名前を忘れ、ハクも自分の名前を忘れているのに、ハクは千尋の名前を憶えていた。どうしてか。
ところで、千尋は小さいとき、川に落ちてしまった経験を持つ。一度あったことは忘れないものさ。と銭婆(ゼニーバ)が言う。
答えは簡単。ハクにとって、千尋はとても特別な存在だったということだ。そしてそれは記憶に刻み込まれている。八百万の神は、人間を大切に思ってくれるものだったし、人間たちに恵みをもたらしてくれるものだった。覚えているということは、それだけあなたのことを大切に思っているというハクの気持ちがそのまま出ているということだ。それだけ強い思いがあるため、ハクは忘れなかったのである。クールな表情からは読み取れないが、とても愛にあふれる神様なのだ。
釜爺(カマジイ)『そうか・・・千尋か。あの子は千尋というのか。』
『いいなぁ・・・。愛の力だな。』
釜爺(カマジイ)はよくわかっているようだ。
これは物語の終盤でわかることだが、ハクはとある川の神様だった。
『ニギハヤミ コハクヌシ』
これが本名であった。
昔はどれだけ小さな川にも名前がつけられて、地元の人たちに親しまれていた。しかし、今では開発が進み、川は個性を失っていった。ただのコンクリートブロックで囲まれた水たまり。用水路になっていったのである。
つまり、川の名前は、ただのどぶ川。そこらへんにある用水路。貯水池。飼い犬の便所。水たまり。ゴミ箱。そうした何でもないものになっていったのである。
名のある河の主は、これを思う存分食らった存在であった。彼はゴミ箱。いや、もはや便器である。
ハクも同様で、開発のため、今はただのコンクリートの河になってしまったのだ。そのため、人々からはコハク川なんて呼ばれなくなり、その存在は忘れ去られてしまった。
コハク川という川の名前は、死んでしまったのだ。
名前は他人が決め、他人が覚えているものだ。人々の中から名前が消えてしまうと、川はもう識別されなくなるのだ。そのため、ハクは帰属するべき場所を失い、帰り道がわからなくなってしまったのである。
自分が自分の名前を憶えていることが大切なの?それとも、他人が自分の名前を憶えていることが大切なの?一体どっちなの?
結論から言えば、どちらも大切だ。自分が帰属するべき場所がわからなくなると、やがて自分の名前さえも忘れてしまう。自分が帰属するべき場所がわかるからこそ、その名前には意味がこめられ、名前を覚えられるようになる。
他人が自分の名前を憶えているということは、周りからその存在は重要だと思われていることである。つまり、周りは自分を他と区別して扱ってくれる。
1.他人は最初に自分に名前を与えてくれる存在。
2.他人が名前をつけ、自分を他と区別してくれる。
3.自分がその名前と名前の由来を認識する。
4.自分が自分自身を正確に認識できる。
名前は社会の中で重要とされる。この世界に自分だけしかいないのであれば、名前はいらない。名前があるということは、それ以外のたくさんのものがあるということだ。
湯婆婆(ユバーバ)は、魔法の力で、どちらも奪っていったのだ。すると、他と区別することのない存在となる。千尋を『千』と呼ぶのも、『コハクヌシ』を『ハク』と呼ぶのも、労働者001番。労働者002番。という番号と大して変わらないのだ。背景となる意味を失うため、ただの番号となるのだ。数値になってしまうのだ。つまり、お金になってしまうのである。
これは、私たちの個性なんて全く関係なく、一従業員、一労働者となってしまうのと同じことである。
会社というのは、結局こういうもので、自分の名前よりも、社長、課長、係長、主任、部長、といった別の名前を与えられていくものである。
すると、自分達は社長として帰属するべきと思わされるようになる。そうなると、やがて自分自身が見えなくなっていくのだ。
公私混同をするなというが、人間はそんなに都合よくはできていない。ひどい人は、二重人格になることもある。
例えばハクが二重の人格を持っているのだとすれば、これが原因ではないだろうか。
名前哲学はもっと深い
実は、個人的には、名前については、もっと深く考えている。名前について語り始めるとかなり話が膨らんでしまうので、これはまた別の機会に譲る。説明できるようになるまで。
カオナシとは何者か
カオナシにはこのような特殊事情がある。
個人的に謎だったことを言う。
湯婆はカオナシに警戒心を示したのに、ハクはカオナシのそばを通り過ぎても何も言わなかったのはなぜか?
当初カオナシは、「何の予定もなくてただ立たせていただけ」[183]だったから。
千尋が息をとめて橋を渡っているとき、橋の中間にぼーっと立っている。
もう一つは、ハクに呼ばれて豚小屋に行く際も、橋の中間にぼーっと立っている。千尋が振り返ったときは姿を消していたが、ハクは全く気にしていない様子だった。
番頭ガエルがカオナシの存在に気付かなかったように、姿を消している間は、見えない。どうやら、臭いさえもないようだ。
カオナシの正体
カオナシというのは、『顔がない』という意味だろう。名前自体からその存在の特徴が推測できる。この物語では、『名前』が重要なキーとなっているが、カオナシは、『顔』というものもこの物語のキーとして引き込んでいるように思う。『顔』はほとんど『名前』と同じように考えることができる。
『顔』とは看板のようなものだ。顔がないというのは、看板がかかっていないことを意味する。また、『顔』は、個性の表象でもある。顔にはその人の個性が出る。
顔がない、ということは、個性がない。つまり、他の存在とは区別がつかない。ということになる。先ほどの『名前』と同じように考えられるのだ。『ナナシ』という名前でもよかったかもしれない。
私たちは人間に対しては、顔で人を識別する。顔がないということは、識別できない存在ということだ。つまり、他の物と区別しても仕切れる存在ではない、ということである。
とはいえ、こうして一つのキャラクターとしては現れてきているのだが。顔がないというのも一つの顔だとすれば、識別は可能かもしれないけれども、ここでは識別できない存在であるとしておく。
カオナシの心理を一発で説明すると
カオナシというのを説明するのは非常に難しい。だけど、カオナシと同じ心理を説明するために、とてつもなく簡単な方法がある。
カオナシの心理を理解するには、ノートを使う人に打ってつけの教え方がある。例えば、相手が喜び、自分にお返しをしてくれることを求めて、スキやフォロワーを連発することだ。
カオナシが薬湯の札や砂金を相手に渡すことによって、自分を気に入ってもらいたいと考えたように、スキやフォロワーを連発することである。
スキ、やフォロワーは砂金なのだ。
カオナシはどうして油屋に自分から入ってこなかったのか
カオナシは、その気になれば普通の客を装い、普通に風呂に入って、金を払って出ていけばよかった。どうして千尋に招かれるまで油屋に入っていかなかったのだろうか。
カオナシは、識別されない存在だ。つまり、誰からも重要だとは思われていない。誰からも必要とされていない。そのため、他者から受け入れられない。
カオナシは、自分で自分の価値がわからない。自分で自分を満たすことができない。常に他者から評価を与えられ続けなければならない。
何でこんな存在になってしまうのだろうか
例えば、多くの人たちは、学校でテストを受けてきた。点数で評価されてきた。偏差値とか、大学とか、自分の社会的地位とか、資格とか職業とか。周りのクラスメイトの評価とか、噂とか。そういった、どこか自分の外にあって、結局他者からすごいと思われているもの、そういわれているものを獲得することを目指してきた。
これはよくよく考えてみると、自分の価値を全て他人が決めてきたということである。だから、全てが受け身なのだ。自分を決めてくれるのは常に他人なのである。
だから、誰かが入っていいですよというまでは、油屋に入らない。金さえあれば誰だって入ってもいいのに。
そして、その言葉をかけてくれた千尋を、一番気に入るようになる。最も自分の気持ちに寄り添ってくれた存在だからだ。
テストがどれだけできても、偏差値がどれだけ高くても、実際の実務と勉強は全く違う。そういう勉強は、他者の評価を手に入れることができただけなのだ。そして、地に足が全くついていない頭の中だけの話なのである。
一方、自分が実際に一人で動くときは、自分自身が重要となるのだ。カオナシのような存在は、そういうときでも、常に他者からどう思われるのかを気にして、身動きが取れなくなってしまう。
他者からもらった自信では、能動的には動けないのである。常に他者からの承認をもらいながら行動しなくてはならない。
自信は、実際に体を動かして、その実務を何回もこなすことで初めて手に入るものである。したがって、紙のテストというのは全く意味がない。むしろ、実務を何度もこなしたうえでテストをしたほうが、テストでいい点数をとれるくらいだ。
自分で行動しなければ何にもならないのであって、魔法ばかりに頼って問題を解決していても、全く自分の力にならないのである。これは、その場しのぎの嘘をつきまくって生きてきた人間と似たようなものなのだ。
魔法は人を自分の思った方向へ動かすことができる。嘘を信じさせれば、人を違う方向へ向かわせることができるのだ。
カオナシとは、嘘とか、魔法とか、そうした何もないものだけで育ってきた存在なのである。嘘はいくらでも手に入るので、どこまでも嘘は巨大化することができる。カオナシが一定の形をもたないで、巨大化できるのもそのためだ。
銭婆(ゼニーバ)がカオナシだけは自分の手伝いをしてくれるように残れと言ったのは、カオナシには圧倒的に自分がないと見抜いていたからである。実際に自分で行動を繰り返させ、徐々に自分にできることを増やしていく。それがカオナシのためになると知っているのだ。周りの評価ばかりをおいかけ、気にして、それだけが全てだったカオナシ。それだけで作られた存在を、どのように治療していけばいいのかということを銭婆(ゼニーバ)は知っている。銭婆(ゼニーバ)はカオナシのことをよくわかっている。
カオナシはどうして砂金をたくさん出すようになったのか
クサレ神が来るとき、大湯の端っこにカオナシが立っている。その後、クサレ神は名のある河の主であったことがわかる。その時、対価として砂金をばらまいていくのだった。
カエルやナメクジたちは、その砂金に群がり、歓喜の声を上げる。
カオナシはこれを見て、砂金を渡せば自分のことを高く評価してくれると感じるのだった。
そして、その夜青蛙を飲み込み、砂金を渡して自分の相手をさせるのだった。
カオナシはどうして砂金を出せるのか
カオナシが砂金を出せるのは、魔法のおかげである。
魔法というものが、何もないものであるように、お金も、何もないものである。そして、カオナシ自身、何もない存在なのだ。
何もないものから何もないものが出ているだけなのである。嘘はいくらでもつくことができるのだ。
カオナシはなぜ別の存在をコピーできるのか
自分に自信のない人間が、他人のまねばかりするように、自分に自信がない人間は、常に周りに合わせて変化してしまうのである。自信がないから、自分がコロコロ変わってしまうのだ。カオナシのコピー能力はこれを表している。
青蛙を飲み込んだら青蛙になるし、他の者を飲み込めば、他の者になる。
それは物まねという意味ではすごいかもしれない。一方、物まねをする人は、すでに社会的に一定の評価を受けている人の物まねをするから、自信をもって行動できるけど、そうではなくて、自分自身のネタをやれと言われると、途端に行動できなくなるかもしれない。
そう考えると、台本通りに動く俳優というのは、自信のない人ほど向いているかもしれない。そういう理由で、俳優は薬物依存者が多いのかもしれない。単にやくざ稼業に狙われやすいということもあるかもしれないが。
多くの自信のない人たちは、他者から一定の評価を受けた場所へたどり着こうとする。そういうものである。そこで結局、自分以外でもできるような地位についていってしまうものなのだ。他者の評価を求めて、自分を放棄していくことばかり行っていくのである。自分がないため、自分と向かい合えないし、自分が嫌いだから、自分以外のものになろうと必死なのだ。
なぜカオナシはあ・・・あ・・・とかえ・・・え・・・ばかりなのか
言葉というのはその者の人間性によって培われるものである。話が通じない人間は、動物に近い。
人間は動物と人間という変数の間にいる。仏に近ければ近いほど言葉はよく伝わるし、よく話を聞いてくれる。しかし、動物に近ければ、暴力的であったり、刺激ばかり、快楽ばかりを求めるようになる。
聖人とは、『耳と口』の王と書く。つまり、よく人の話を聞き、よく人に伝えられる存在を言うのだ。もちろん言葉の意味をよく理解する。
カオナシはこれの全く逆の存在であると思ってよい。
自分のない人間は、絶対に自分自身を好きになってはもらえない
カオナシの取り巻きを見ればわかるように、カオナシ自体が好きなのではなく、カオナシの出す砂金が好きなのである。
そして、コロコロ自分がかわるため、その時相手にとって都合のいい自分を演じていれば、気に入ってくれることもあるかもしれないが、スキになってもらえた自分は決して自分自身ではないのである。
千尋はどうして砂金を拒んだのか
リンに砂金を見せられた時にもそうだった。『リンは一体なんであんなものをいいものだと言っているんだろう?』という表情だった。その時、砂金が土くれに見えていたかどうかはわからない。
また、もしそうだとすれば、カオナシの出した砂金にも全く興味を示さないのも当然のことだ。
だとしても、千尋はどうしてリンにそのことを告げなかったのか、ということは謎である。この部分をあえて表に出さないことで、物語を深くする意図でもあったのだろうか。
もし本当に砂金に見えていた場合は?
その場合は、千尋は魔法や金よりも大切なものを見つけていたのだ。魔法やお金で物事を解決しても、全く何にもならないと悟っているのである。
カオナシはなぜ千尋に襲いかかったのか
あまりお勧めはしないが、私の記事『元恋人のリベンジ』を読んでほしい。そうすれば簡単にわかる。
私が欲しいものは、あなたには絶対出せない
千尋が欲しいものは何だったのだろうか?
千尋は、今や魔法を見抜くことができるようになった。つまり、カオナシの正体も見抜くことができるようになったと考える。カオナシは魔法の塊のようなものだからだ。
つまり、カオナシは何もない存在なのだ。カオナシには絶対出せないもの。それは、自分自身の実体である。
千尋は、千尋自身となり、千尋自身を鍛えていく。魔法はとりあえずその場を楽にしのぐことができる。だけど、魔法に頼っていては、全く自分自身が育っていかないのである。ドラえもんの道具にばかり頼りまくって大人になったのび太のようなものだからだ。ドラえもんはのび太が自分で努力をした後ののび太を道具で出すことはできないのである。のび太の人形などはだせてしまうかもしれないが、のび太自身は絶対に出せないのだ。
千尋はどうして逃げながらもカオナシを呼んだのか
油屋から出すためである。カオナシが油屋にいれば、いつまでも他者の評価にどっぷりつかった生活ばかりにかまけるようになる。周りのおだてる言葉ばかりを追いかけて、自分が自分自身を発見し、育て、自信をつける機会を永久に失うのだ。
つまりは、私が今まで話をしたことを感じたのである。
カオナシはなぜおとなしくなったのか
リン 『カオナシ―っ!千に何かしたら許さないからなー!』
の一言がきいたのだろうか。
油屋から出た方がいいという千尋の考えが当たったのは確かだ。他者からの評価を気にするカオナシからすれば、リンの一言は、千尋に何かをすると、自分の評価が下がるという気持ちにさせられたのかもしれない。
また、油屋から出ることにより、もう評価を気にする環境から解放されたということもある。
ついてきたのは、千尋が好きだったということで間違いないだろう。
では、どうして千尋を食べなかったのだろうか。おそらく、カオナシは自分の外にいて、自分を評価してくれるものを求めている。食べてしまったらその存在はいなくなってしまう。
とにかく、油屋というのは、この世界では、会社の中を意味する。会社の中では、自分の個性を失う。だから、会社の外に出たということは、少なくとも、自分の個性を取り戻すための環境にたどり着いたことを意味する。
あなたはどこから来たの?
もしクサレ神が便器などの神であったとする。八百万の神がこの世界や私たちの生活などの事象から派生して存在するような見えない神であるとすれば、カオナシは、そうした空虚な人生を歩んでいる人々の心が寄り集まってできたような存在である。
おうちがわからないの?
この千尋のカオナシへの質問。カオナシは帰属先が全くないのだ。この世界に飛び交うお金と同じように、何もない存在なのである。帰る場所なんてそもそもないのである。
坊は何を表しているか
湯婆婆(ユバーバ)に溺愛されている坊。一体こいつは何なのだろうか?
実は、坊の正体は、恐ろしくて語れないところがある。湯婆婆(ユバーバ)は油屋の権力者だ。権力者というのは、赤ん坊を育てることしかできないのである。これを語るとまた長くなる。
湯婆婆は日中どこへ行っていたのだろうか?
わからない。唯一可能性があるのは、銭婆(ゼニーバ)のところである。
それくらいしか外の世界に用があるとは思えない。共同経営者として、何か相談にいっていたのかもしれない。誰かわかる人は教えてください。
ハクが白竜の姿で湯婆婆(ユバーバ)の元へたどり着いた後、湯婆婆(ユバーバ)は外から帰ってきた。その後、カオナシの正体を電話で伝えている。
一方、銭婆(ゼニーバ)は、『お前はカオナシだね。』と一目見てその存在を言い当てている。このことからも、湯婆婆(ユバーバ)はカオナシのことを銭婆(ゼニーバ)に確認しに行っていた可能性が高い。銭婆(ゼニーバ)はカオナシについても詳しかったからだ。
だとしてもだ。それだとハクもほぼ同時刻に銭婆(ゼニーバ)のところに行っていたということにもなり、これはおかしい気もする。湯婆婆(ユバーバ)と共に銭婆(ゼニーバ)のところへ向かっていたならば、ちゃんとハンコを手に入れたことに湯婆婆(ユバーバ)も気づくはずである。
ハクの方が帰りが早く、ヒトガタに追われながらの逃走だったから、より時間がかかったことを考えると、ハクの方が一足先に銭婆(ゼニーバ)のところに行っていたのだろう。
だが、そんな泥棒の妹を銭婆(ゼニーバ)が迎えるだろうか。銭婆(ゼニーバ)はハクが湯婆婆(ユバーバ)の手下だということを知らないふりをしていたにせよ、ハンコを盗むということは、結局湯婆婆(ユバーバ)の息がかかっているということが推測できるはずだからだ。
カオナシが問題であるとわかったのに、そのあとちゃんと対処するのかと思ったら、湯婆婆(ユバーバ)は結局カオナシの砂金に目がくらむ。湯婆婆(ユバーバ)は自分自身も魔法が魔法であると見抜けなくなってしまっているのだった。魔法にばかり頼って生きてきたから、魔法こそが本当のものにすり替わってしまったのだ。
しかし、『欲に目がくらんでとんでもないものを引き入れてしまった。』とか、リンによると、『湯婆婆(ユバーバ)がかんかんになって怒っているぞ。』という発言からも、湯婆婆(ユバーバ)はカオナシのどこを問題と思っていたのだろうか?ちゃんと問題点が理解できていれば、砂金がまやかしであることも気が付けただろうに・・・。
というわけで、ここら辺は登場人物たちの会話と行動が一貫しているようには思えない。誰かこうじゃないかと思う方がいらっしゃればコメントください。
なぜ千尋は豚の中にお父さんもお母さんもいないとわかったのか
これはもう簡単なことだ。魔法を見抜けるからである。
また、湯婆婆(ユバーバ)のことをおばあちゃんと呼ぶようになった。魔法なんて実体がないので、魔法使いのおばあちゃんは、結局ただのおばあちゃんなのだ。
私の分析の矛盾点
私はもう千尋が魔法を見抜けると思っているし、恐らくこれは間違いがないはず。しかしながら、ネズミに変わった坊とハエドリに変わった湯バードの魔法を解いてくれと銭婆(ゼニーバ)にお願いしている。
魔法が見抜けているのであれば、もう魔法は解けていると気が付くはずだが・・・。こじつけを行うのであれば、魔法が解けたにも関わらず、姿形を変えないままでいられる坊とハエドリの何らかの特殊能力がある・・・ということだ。これは、かなりインスタントな設定にも感じる。
魔法がとけていたならば、坊の等身大の体重が千尋にかかるはずだし、千尋が魔法が解けていないと思うのも無理はないだろうけど。
魔法は解こうと思えば解くことができたにも関わらず、坊や湯バードがそれを望まなかったのだということは確かだ。
最後に湯婆婆(ユバーバ)のところに返ってきた坊は、すぐさま自分の体を元の姿に戻している。坊の魔法使いとしての秘めた力があるということを示しているのだろうか。
銭婆から編んでもらった髪留めの効力は?
わからない。魔法の力に頼らずに、実力で編んだ作品。そのことに意味があるのはわかるのだが・・・。
なぜハクは河よりも向こうに進めなかった?
あまり難しく考えることは無いと思うのだが、ハクはやっぱり現実の世界の方にはいけないということだろうか・・・。
なぜ振り返ってはいけなかったのか
ハクは千尋に対して、絶対に後ろを振り返ってはいけないという。千尋は振り返りそうになるものの、それを堪えたのだった。
これは非常に難問で、今でも自分の答えには自信がない。
後ろは魔法の世界。前は現実の世界。後ろはお金の世界。何もない世界だ。つまり、死の世界。後ろを振り返るというのは、その世界への未練を持つことを言うのではないだろうか。
もののけ姫の記事で触れたのだが、『死は生を追いかけるもの』だ。背後には死が迫っていて、振り返ったら最後、死に取り込まれてしまうのかもしれない。神隠しは現実のものとなってしまうのだろう。
ハクが弟子をやめた後、コンクリートで固められた川へ戻るのだろうか
どれだけハクが自分の名前を取り戻したからといったって、自分の川が元通りになるとは思えない。
ハクと千尋は再び会えるだろうか
自然環境が良くなった時に、再び会おうということだろう・・・。 残念ながらハクと千尋は一生会えないかもしれない。
車の上に木の葉が散乱し、車の中にホコリが溜まっていたのはどうして?
wikipediaによれば、千尋があちらの世界にいっていたのは3日間ほどらしい。だから、3日間は現実の世界でも時間がたっているのだろう。
こういう話でよくあるのは、夢オチ、幻想オチで、ほんの一瞬の時間であるというパターンも多いのだが。
引っ越しのトラックは、いつまでもやってこない家族をどう思っていただろうか。そして、3日立っていたら、それなりに現実の世界も動く。その後の家族に何かあるのではないか。
心配である。